2022年5月30日月曜日

モンキーズのマイク・ネスミスの功績を辿る<後篇>



<モンキーズは演奏できない疑惑>

ティーンエイジャーたちの心を掴み商業的にも成功したモンキーズだったが、
マスコミで「モンキーズは演奏してない」という噂が広まるようになる。
ツアーでは自分たちで演奏して酷評された。
もっとも凄まじい嬌声で泣きわめく女の子たちには聴こえてなかっただろう。






一年遅れでモンキーズ人気が高まった日本は1968年10月にモンキーズ初来日。
日本武道館、京都会館、大阪フェスティバルホールで公演が行われる。




前座は後のエイプリル・フールの母体となったフローラル(小坂忠、柳田ヒロが
在籍)、ブルーインパルス、ポニーズの3グループだった。

フローラルは3曲ほどモンキーズのバッキングで参加している。
このエピソードからいつしか「モンキーズは楽器を弾くふりをしてただけで、全
曲ステージ裏でフローラルが演奏していた」という都市伝説が生まれた。
そのうちオックスが演奏してたというデマまで。いや、それはないっしょ(笑)



↑アンプはすべてELKだった。


しかし基本的にはメンバーたちがちゃんと演奏していた。
柳田ヒロの証言によると、ミッキーはスネアを叩きながらバスドラを正確にキック
できないという演奏技量だった(ミッキーがセンターに立って歌う時は、デイビー
がドラムを叩いてた)が、他のメンバーたちはミュージシャンとしてしっかりと
した力量を持っていたそうだ。

武道館公演はTBS系で「モンキーズ・イン・ジャパン」として放送されている。
その音源を聴く限り、演奏もコーラスも雑ではあるが本人たちのものである。



↑クリックするとモンキーズ日本公演が聴けます。




<アルバム制作で自主性を求め始めたモンキーズ>

デビュー・アルバム制作後、メンバーたちに自我が芽生える。
2枚目は自分たちが主体的に作曲や演奏に関わって行きたい、と4人は要求。
特にマイクの意思は固く、ドン・カーシュナーもこの件は承服していた。

しかしカーシュナーは約束を反故にした。
メンバーが知らないうちに既に収録済の音源(自分の音楽出版社所有の楽曲)
集め、2nd.アルバム「モア・オブ・ザ・モンキーズ(More of the Monkees)」
(1967年)として発売してしまったのだ。




ボイス&ハート提供曲は2曲で、他の作曲陣の作品が増えバラエティー豊かな
アルバムに仕上がっている。

まだ無名だったニール・ダイヤモンドの「I'm a Believer」はシングルカット
されて大ヒットした。



↑「I'm A Believer」のミュージックビデオが視聴できます。


ポップな「Look Out (Here Comes Tomorrow)」も彼の曲だ。
新人のキャロル・ベイヤー・セイガー/ニール・セダカは「When Love 
Comes Knockin' (At Your Door)」、ジャック・ケラーは「Hold On Girl」、
ゴフィン=キングは「Sometime in the Morning」を提供。

マイクの作品も「Mary,Mary」「The Kind of Girl I Could Love」の2曲が
収録された。
本人たちが知らないうちに発表されたアルバムとはいえ、いい曲ばかりである。
モンキーズの最高傑作と言う人も多い



「I'm a Believer」に次ぐ3枚目のシングルとしてニール・ダイアモンド作曲の
「A Little Bit Me, a Little Bit You(邦題:恋はちょっぴり)」が決まっていた。
B面はマイク作曲の「The Girl I Knew Somewhere」(邦題:どこかで知った娘、
ボーカルはミッキー)のはずだった。


 
↑当初B面予定だった「The Girl I Knew Somewhere」が聴けます。


しかしドン・カーシュナーはまたしても独断でB面をジェフ・バリーの「She 
Hangs Out」に無断で差し替えて発売してしまう。(これもいい曲なんだけど)



↑差し替えられたB面の「She Hangs Out」が聴けます。


これにマイクは激怒。
当初予定されていた「恋はちょっぴり/どこかで知った娘」カップリングのシン
グル盤を自主制作「これが本物の3rd.シングル」と記者会見を開く
マスメディアを巻き込んだクーデター決行に、レコード会社もボイス&ハート
モンキーズ側につき、カーシュナーは更迭される。






<モンキーズの3枚目はヘタウマのガレージバンド。>

カーシュナーを追い出したマイクは、タートルズのチップ・ダグラスをプロデュ
ーサーに迎え、3作目のアルバム「Headquarters」の制作に入る。

前2作と異なり、チップ・ダグラスとモンキーズ自身によるプロデュースで、
自作曲または自分たちが選んだ曲が録音された。






ホーン・セクションを除いて演奏もモンキーズ自身とダグラスが行なった
レコーディング中のお遊びや会話も収められた。





等身大の4人を表現する作品に仕上がったものの、演奏テクニックが稚拙なために
アルバムとしての完成度は落ちる。良くも悪くも素人っぽく音がスカスカ。
今ではそれが「ガレージバンドっぽい味わい」と再評価もされているが。


セールス的にも前2作には及ばなかった。
それでもモンキーズ・ブームの勢いでアルバム・チャートで1位を獲得。




チップ・ダグラス作曲の「Forget That Girl」はいい曲だ。
マン=シンシア作曲の陰影のある美しい「Shades of Gray(邦題:灰色の影)」
は出色の出来。前半はデイビー、後半は珍しくピーターがボーカルを取る。
(このEP盤は自分のお小遣いで初めて買ったモンキーズのレコードだ)




↑「Shades of Gray(邦題:灰色の影)」が聴けます。



「Headquarters」をチャート1位から引きずり降ろしたのは「Sgt.Peppers」。
ビートルズは既にその先の時代に行っていた

「A Day In The Life」のオーケストラのオーヴァーダヴ・セッションをマイク、
ミッキー、ピーターは見学に行っている。
刺激を受けたモンキーズは次のアルバムで実験的な音作りを行う。








<4枚目はモンキーズの頂点と言える意欲的なアルバム。>

1967年から北米ツアー開始。合間にレコーディング、撮影と殺人的スケジュール。
演奏はスタジオミュージシャンを使用する方式に戻すことにした。

制作に半年を費やし同年11月に発表された4枚目のアルバム「Pisces, Aquarius, 
Capricorn & Jones LTD. 」は再び名曲揃いの力作で全米1位を獲得。



↑きれいなカバーアートだが、日本では弱いと思われたのか流行ってた
サイケ調
イラストと4人の写真に変えられ、邦題も「スター・コレクター」になった。


シングル・カットされた「Pleasant Valley Sunday / Words」も大ヒット。
この頃、AB両面ヒットを飛ばせるのはビートルズ、サイモン&ガーファンクル
、モンキーズだけと言われた。


ボイス=ハートによる「Words(邦題:恋の合言葉)」は情感たっぷりに歌う
ミッキーの後をピーターが追うフーガ形式と追い立てるようなリズムが印象的。

「Pleasant Valley Sunday」はゴフィン=キングの作品。
ボーカルはミッキー。イントロのギターはマイクが弾いている。
(ビートルズの「I Want To Tell You」に似ているような)




↑「Pleasant Valley Sunday」のミュージックビデオが視聴できます。


※キャロル・キングはこのイントロを嫌がったそうだが、現在セルフカヴァー
する時はちゃんとこのイントロを弾いている。



「Star Collector」もゴフィン=キング作品。
この曲でミッキーはポップス史上初めてムーグ・シンセサイザーを使用。
(ビートルズがムーグを導入したのは2年後の「Abbey Road」だった)
またテープ速度を変える、SEの多用など実験的な音作りにも凝っている。


「Cuddly Toy」はハリー・ニルソン作曲でデイビーが歌う素敵な曲。
※銀行員の傍、作曲をしていたニルソンはこれで自信をつけプロ作曲家になる。
ちなみにCuddly Toyはぬいぐるみのこと。
この人はPuppy Somgとかかわいい曲が多くジョンとポールもファンだった。



↑「Cuddly Toy」のミュージックビデオが視聴できます。
デイビーと一緒に踊ってるのは有名な振付師らしい。(顔が苦手だった)



カーシュナーが勝手にシングルB面にしたジェフ・バリーの「She Hangs Out」
もこのアルバムに収録された。
デイビーの魅力があふれるいい曲だ。(シングルA面でもヒットしただろう)


アルバムではマイクの作品が3曲。
ミッキーに歌わせた「Daily Nightly」はシンセで不思議な浮遊感を出している。
マイク自身が歌う「Don't Call On Me」は個人的にこのアルバムで一番好き。



↑「Don't Call On Me」が聴けます。(珍しくブルーのニット帽)



マイクのカントリー趣味が前面に出た「What Am I Doing Hangin' 'Round」
もいい。




↑「What Am I Doing Hangin' 'Round」のミュージックビデオが見れます。



マイクはクレイグ・スミス作曲の「Salesman」、チップ・ダグラス作曲の「
The Door Into Summer」、マン=ウェイル作曲の「Love Is Only Sleeping」
でも魅力的なボーカルを聴かせてくれる。



↑「The Door Into Summer」が聴けます。


このアルバムは曲もいいし4人のボーカルとハーモニーもレベルアップしてるし、
完成度が高い。モンキーズの頂点と言っていいアルバムだと思う。
特にマイクの存在感(=音楽におけるカントリーの要素)が強くなった。



<「デイドリーム」収録のアルバム「小鳥と蜂とモンキーズ」。>

「The Birds, The Bees & The Monkees(邦題:小鳥と蜂とモンキーズ)」
は1968年4月に発売された5枚目のアルバム。




3月にTV番組が終了したこともあり、人気に翳りが出始めた頃である。
このアルバムは初めて首位を逃しチャート3位に留まった。

チップ・ダグラスのプロデュース作品としては3枚目に当たるこのアルバムは、
いろいろな作曲陣を起用している(マイクは4曲提供)が散漫な印象。



↑ミッキーがJ-160Eを使っているのに注目!


4人がそれぞれやっている、個性を同居させたような作品とも言える。

しかしジョン・ステュアート作「Daydream Believer」、ボイス=ハートによる
「Valleri」というモンキーズの代表作ともいえる2曲が収録されている。




日本においてはTV番組「モンキーズ・ショー」が1年遅れで1969年1月まで放送
してたこともあり、人気のピーク時で「Daydream Believer」「Valleri」のシン
グル盤は売れた。




<アヴァンギャルドに行き過ぎてしまったHEAD>

モンキーズは新たな局面に挑む。「HEAD」という映画の制作である。
TVシリーズを手掛けたボブ・ラフェルソンとジャック・ニコルスンによる脚本、
監督作品。ベトナム戦争を背景とした実験的な風刺劇であった。




シュールというと聞こえはいいが、アングラとサイケとアヴァンギャルドを目指
した、日本でいうとATGやPFF的な作品だ。

ファンには理解不能で受け入れられなかった。
能天気で陽気なあのモンキーズを期待して見た人たちはがっかりしただろう。
アイドルがエゴを主張すると大概こういう結果になるという見本。
やらかしちゃいましたね、という感じ。興行的にも大失敗で酷評された。




アルバムは映画のサウンドトラックだが、これまた難解でセールスも不調。
が、テーマ曲「Porpose Song」(ゴフィン=キング)は不思議な魅力がある。
※2001年の映画「バニラ・スカイ」で使用され再評価された。

またキャロル・キング、ライ・クーダー、ニール・ヤング、ダニー・コーチマー、
ラス・タイトルマンと後の西海岸ロックを担うミュージシャンが参加している。
レッキング・クルーから次世代の音楽への橋渡しの時期でもあったのだ。




この後ピーター・トークが脱退しモンキーズは急激に失速して行く。




<過去作品寄せ集めの「Instant Replay」>

3人となったモンキーズは1969年にアルバム「Instant Replay」を発表。

Instant Replay(記録した動きの即時再生)という自虐的なタイトルどおり、
これまでのアルバム・セッションでボツになった音源、またはその再録を中心
に編集したやっつけ的な内容である。



↑初回プレス盤は真ん中の3人の顔写真が違っていた。


とはいえ、ボイス=ハート、ゴフィン=キング、キャロル・ベイヤ・セイガー&
ニール・セダカの提供曲が半分以上を占め、悪くはない。
ただサウンド的に逆戻りしてしまった感は否めない。

シングルカットされた「Tear Drop City(邦題:涙の街角)」は「恋の終列車」
そのまんまで、デビュー・アルバムでボツになったのがバレバレだ。


マイクの曲「While I Cry」「Don't Wait for Me」は地味ながら味わい深い。
このアルバムは祭りの後の気分でマイクにフォーカスして聴くと楽しめる。



↑「While I Cry」が聴けます。



↑「Don't Wait for Me」が聴けます。



「Don't Wait for Me」はマイクがナッシュビルのスタジオ・ミュージシャン集団、
エリアコード615(1)に演奏させている。
このアルバムの後シングル盤で発売した「 Listen To The Band」もエリアコード
615の演奏である。





この後マイクはモンキーズ脱退を表明。
1970年にファースト・ナショナル・バンドを結成し3枚のアルバムを発表。
1972年にはセカンド・ナショナル・バンドとして1枚。同年ソロで1枚リリース。

以降、年1枚のペースでアルバムを発表していたが、チャートインしたのは1972
までで、それも200位以内。地味である。
プロデューサーとしても活躍し、1980年代にはミュージック・ビデオで成功した。


ファースト・ナショナル・バンド名義の3枚のアルバム、1972年にソロで
出した
アルバムはマイクらしいカントリー・ロックが聴ける
日本では「Silver Moon」がヒットした。
僕は
アメリカで大ヒットした哀愁のある「Joanne」の方が好きだ。



↑ファースト・ナショナル・バンドの「Joanne」が聴けます。
(オッサンっぽい?カントリーの人たちって服装気にしないからなー)




<アメリカでのリバイバル・ブーム>

1986年にMTVで「モンキーズ」が再放送されたのをきっかけに、アメリカでリバイ
バルブームが起こり、ベスト・アルバムやリマスター盤が発売された。(2)




モンキーズのメンバーたちは1990年以降、結成30周年、45周年、50周年と不定期
に再結成しツアーを行なっている。
デイビーが2012年に、ピーターが2019年に他界。
残されたマイクとミッキーは昨年11月フェアウェル・ツアーを終えたばかりだった。




<マイク・ネスミスが目指したカントリーロックの潮流>

モンキーズの頃からマイクが目指してたのはカントリーとロックの融合である。(3)
イーグルスが「Take It Easy」をヒットさせた時、マイクは自分のカントリーロック
への野心が早すぎたことに気づいたという。




しかしマイクが種を蒔いたおかげで、バッファロー・スプリングフィールド、
ポコ、バーズ、イーグルスなどのカントリーロックが1970年代に開花した。(4)

それはミュージック・シーン(音楽産業、演奏する側)への影響だけではなく、
リスナーである我々(カントリーへの馴染みが少ない世代)にもカントリーに
慣れさせ、抵抗感を無くさせるという、いわば音楽的な抗体を植え付けてくれ
る効果があったのではないかと思うのだ。

極論すると、エルヴィスやモンキーズの中にあるカントリーな部分を聴いてた
からこそ、リンダやイーグルスなど西海岸勢のカントリーロックにすんなり
入れたのではないか、ということだ。今にして思えば、であるが。



↑3人になってからジョニー・キャッシュ・ショーに出演したモンキーズ。
クリックすると視聴できます。3声ハーモニーがすばらしい。楽しそう!



マイク・ネスミスはモンキーズの音楽性の舵取りをしていただけではなく、アメ
リカのロック史において多大なる貢献をした人だと思う。

ブルースロック、ハードロック至上主義の人たちには取るに足らない存在かも
しれないけど、今も昔も僕はモンキーズが大好きだ。
ストーンズよりもモンキーズ。マイクのソロ・アルバムもよく聴く。

マイク・ネスミスに感謝。安らかに眠ってください。 
というより、デイビー、ピーターと再会し他愛ないギャグで笑ってるのかな。





<脚注>

(1)エリアコード615

テネシー州ナッシュヴィルのセッション・ミュージシャンが結成したバンド。
主なメンバーはウェイン・モス(g)ノーバート・パトナム(b)ケニー・バッ
トリー(ds)チャーリー・マッコイ(Harp)デイヴィッド・ブリッグス(kb)
ボビー・トンプソン(banjo)バディ・スパイカー(Fiddle)ウェルドン・マイ
リック(P.Steel)、マック・ゲイドン(gt)の9人。
カントリーをベースとしながらファンク、スワンプロックのグルーヴも出せる。

ディラン、エルヴィス、ニール・ヤング、スティーヴ・ミラー・バンド、リンダ
、グランド・ファンク、トニー・ジョー・ホワイトのレコーディングに参加・
エリアコード615とはナッシュヴィルの電話の市外局番を意味している。


(2)モンキーズの再発CD
モンキーズの楽曲の出版権を所有するライノ社は膨大な数のマスター・テープを
丹念に発掘し、未発表曲や別テイク版を多数収録したスペシャル・アルバムを発売。
丁寧なライナー・ノーツや秘蔵写真で根強いファンの支持を得ている。
リシュー専門レーベルのライノは小さなレコード店からスタートしたが、モンキー
ズ再発で当てて本社ビルが建ったそうである。
ちなみにレーベル名のRHINOとはサイ(絶滅危惧種)のこと。


(3)マイク・ネスミスのカントリーへの想い
カントリーから受けた影響について、マイクは次のように説明している。
「ハンク・ウィリアムス、ジェリー・リー・ルイス、ジミー・ロジャースは自分に
とって音楽の三大巨頭のようなもの。なぜかいつも彼らに戻ってくる。
彼らはディラン、プレスリー、キャッシュ、そしてビートルズのように、明確に
定義された音楽的ポジションを持っていた。
彼らの歌や作品に対して婉曲した表現なしに純粋なアプローチをすることで、
その感情までも生き生きと再現できる」


(4)1960年代のロック・ミュージックとカントリー
もともとアメリカにはアイリッシュをルーツとするカントリーと黒人の労働歌から
発展したブルース、ジャズがあり、1955年にエルヴィスやチャック・ベリーの
出現でその2つが融合してロックンロールが生まれた。

1960年代のポップス、ロックのレコード制作を支えて来たレッキング・クルーも、
ジャズ畑かカントリー畑のプレーヤーが多い。
だから当時のアメリカのヒット曲を聴くと(相当数レッキング・クルーが演奏
しているので)、どこかアメリカンな音に聴こえる。
昔からカントリーに慣れ親しんだアメリカ人には馴染みやすかったと思う。

一方、ロックがマス化される過程で、ブルース色、カントリー色はあまり前面に
出さず洗練された音に、という力学も働く。
その中で多くのアーティストがお約束のようにカントリー回帰をしている。
ディラン、エルヴィス、ナンシー・シナトラ、ベンチャーズ、ビーチボーイズ
のアル・ジャーディン、グレイトフル・デッド、バーズ、ジェイムス・テイラー、
ニール・ヤング、リンダ・ロンシュタットなど。
次世代のテイラー・スウィフト、シャニア・トゥエイン、フェイス・ヒル、ナン
シー・グリフィス、シェリル・クロウもカントリー出身である。
アメリカ人にとってカントリーはルーツ・ミュージックでもあるのだろう。


<参考資料:Udiscovermusic.jp、ミュージックライフ・クラブ、CD Journal、
ラジカントロプス2.0、モンキーズの楽曲 作曲家別一覧、Wikipedia、YouTube、
大人のミュージックカレンダー、ヘイ・ヘイ・ウィアー・ザ・モンキーズ 、
音楽の杜、勝手気ままな音楽散歩、レコード・コレクターズ、Amazon、
カケハシ・レコード、guitarsenal.wordpress.com、他>

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