2022年9月23日金曜日

1970年代ディスコ・ミュージックが日本の歌謡曲に与えた影響。

ディスコ・ミュージックと日本の歌謡曲は親和性が高かった。
それは戦後の日本にアメリカ経由でラテン・ミュージックとダンスのブーム(1)
が押し寄せた時代の歌謡曲との関係に近いかもしれない。




またキングトーンズ、和田アキ子、青江三奈、尾崎紀世彦なども、R&Bと
歌謡曲の馴染みがいいことを証明した。

1970年代に入り、日本でもR&Bやファンクは赤坂のムゲン、あるいは六本木、
本牧、立川で一部のスノッブな遊び人の間で流行り始めた。

それがメジャーになったのは、フィリーソウルから始まった聴きやすく踊り
やすいソウル・ミュージックがヒットしたことと、ディスコが全国的に拡大
したことが背景にある

さらに日本の市場においては歌謡曲との蜜月裾野を拡げた。



ではディスコ・ミュージックが歌謡曲に取り入れられ始めたのはいつだろう?





1973年、沖縄生まれの5人兄弟、フィンガー5がお茶の間にヒットを連発。
グループ名は母親案だったが、ジャクソン5に影響を受けたのは確かだろう。
父親がAサイン(米軍公認)バーを営業してたため5人はアメリカ音楽で育つ。
上京してデビュー前は米軍基地で歌っていた。



↑本家本元、ジャクソン5の「I Want You Back」が視聴できます。
マイケル坊やの歌唱力がすごい!5人の動きも最高。




フィンガー5のデビュー曲「個人授業」の作詞は阿久悠、作曲は都倉俊一
♭2ndノート、7thノートとブルーノートを巧みに織り交ぜながらポップさ
をキープしてるところはさすが!の手腕。
サビの「できることなら」で一転してメロディック・マイナー・スケール
「Ha,Hahaha」はIII7コードの7thノートで締めヴァースのルート音に帰結。

振付(一の宮はじめ)がもろ歌謡曲で黒っぽさゼロな点が残念。
しかしデビュー・アルバムはR&B歌謡でなかなかがんばってる。



↑フィンガー5のデビュー・アルバムが聴けます。これがなかなか!
半分は洋楽の日本語カヴァー。ジャクソン5のあの曲も聴ける。




「恋のダイヤル6700」から作曲は井上忠夫に代わる。
この人は1960年前後のポップスやR&Rを匂わせるいい曲を作る。
リンリンリリン♪で始まるAメロは7thコードのスピード感あるR&B
が、サビの「あなたが好き」で腰砕けの歌謡曲メロになってしまう。
この曲も振付が同じくダサい。歌謡曲なんだからしょうがないか。


でも売れた。シングル3枚続けてミリオンセラーはすごい。
曲のテーマは学校での恋愛に一貫。

目新しさがなくなるとヒットが出ず、フィンガー5の人気は衰えて行った。
ハードスケジュール強制、変声期を迎えた晃に女性ホルモン注射を勧める、
キャラクターグッズの収益を事務所がピンハネ、と芸能界のブラックな面
が取りざたされた。
こういう歌手の消耗品的ビジネスモデルがまかり通っていたのだ。




阿久=都倉コンビはその前年、低迷していた山本リンダを「どうにもとまら
ない」「狙いうち」のセクシー・ダンス歌謡で復活させた
スリットの入ったローライズの黒のパンタロンにシャツの裾を胸で結んだ「
ヘソ出しルック」も当時話題になった。



       ↑山本リンダと
都倉俊一


「どうにもとまらない」はサンバのリズムを基調とした情熱的な曲。
当初候補に挙がっていたタイトルは「恋のカーニバル」だったらしい。

都倉俊一は単にラテンのリズムで仕上げなかった。
ギター、ベース、ドラムは8ビートロックで若さを出し、パーカッションで
16ビートのサンバのリズムを加える、という凝ったアレンジをしている。


「狙いうち」はウクライナ伝統のコサックダンスの2/4拍子の跳ね感がある
リズムで、随所に「ヘイ!」のかけ声。フラメンコっぽさも加わる。
リズムセクションはギター、ベース、ドラム。ストリングスとブラスが絡む。
サビでメジャーに転調。仕掛け〜ブレイクと複雑である。

阿久悠の歌詞は「きりきり舞い」「ウララ、ウラウラ」「じんじんさせて」
など連続音が多く、歌メロに乗ると独特のリズム感が増した。(2)
いずれもダンス・ミュージックと歌謡曲の融合であるがディスコではない。



2人はこの成功体験を活かし、1970年代後半に子供から老若男女まで国民的
な人気アイドルとなったピンクレディーを手がけ大ヒットさせている。



ピンクレディー都倉俊一、阿久悠


ディスコ・ブームの最中であったためか、ピンクレディーもその影響大と
思われがちだが、音楽的にもダンスの面でもディスコ・ミュージックに通じ
るものはあまりない

土井甫による振付はミュージカルのダンスに近いという印象だ。
阿久悠の歌詞のエグさ、都倉俊一の複雑なリズムを反映しキワモノ感が強い。


都倉俊一の曲は8分音符の連打でリズムを畳み込んでいくスタイルが基本。
シンコペーション(強弱拍を変化させる)もあればブレイクも仕掛けあるし、
3連が入ることもあり、スカのような後拍もあり、単純ではない。

ディスコでかかったら、踊るのが難しく困ってしまう曲ばかりだ。
つまり、その曲のためにカスタムで作られたダンスだからこそシンクロする
が、他の汎用的なダンスで合わせようとしても無理がある。


都倉俊一が手がけた一連のダンス歌謡は、山本リンダもピンクレディーも
ディスコ・ミュージックではない。(フィンガー5は微妙)




1970年代後半はディスコ・ミュージックに影響を受けた歌謡曲が量産された。



岩崎宏美の「シンデレラ・ハネムーン」(阿久悠/筒美京平)が聴けます。
ディスコ歌謡の最高傑作という評価も多い。
センチメンタル〜未来〜シンデレラ・ハネムーンとノンストップのダンス・
ミックスを作れば、ドナ・サマーみたいになりそうだ。(3)




浅野ゆう子の「セクシー・バス・ストップ」(橋本淳/筒美京平)が聴けます。
これも1970年代を代表するディスコ歌謡である。




上に挙げた2曲に代表されるように、ディスコ歌謡の主流は筒美京平作品
であり、もう一つの潮流はキャンディーズである。
そして、その両方にスリー・ディグリーズが関わっていた




キャンディーズの「その気にさせないで」(1975 作曲:穂口雄右)や「
ートのエースが出てこない」(1976 作曲:森田公一)「やさしい悪魔
(1977 作曲:吉田拓郎)はスリー・ディグリーズ日本版と言ってもいい。
ハモり方、コーラスの入れ方、手の動きも参考にしていたようだ。(4)




↑キャンディーズの「やさしい悪魔」が視聴できます。




3人はスリー・ディグリーズが好きでコンサートではカヴァーを披露している。
バックバンドのMMP(渡辺茂樹+スペクトラム)はホーンセクションが売りで、
ソウル・ミュージックで力を発揮した。
ナベプロも売れてる限りライヴは好きにやらせるという方針だったらしい。



↑キャンディーズの「When Will I See You Again(天使のささやき」〜
「That's the Way (I Like It)」(KC&ザ・サンシャイン・バンドのカヴァー)
が視聴できます。





キャンディーズ以外のディスコ歌謡は圧倒的に筒美京平作品が多い。
以下の曲は一例である。


平山三紀「熟れた果実」(橋本淳/筒美京平)1974
岩崎宏美「センチメンタル」1975「未来」1976「シンデレラ・ハネムーン」
     1978(すべて阿久悠/筒美京平)
南沙織「GET DOWN BABY」(安井かずみ/筒美京平)1975
浅野ゆう子「セクシー・バス・ストップ」(橋本淳/筒美京平)1976
シェリー「恋のハッスルジェット」(橋本淳/筒美京平)1976
麻丘めぐみ「夏八景」(阿久悠/筒美京平)1976
中原理恵「ディスコ・レディー」(松本隆./筒美京平)1978
桜田淳子「リップスティック」(松本隆./筒美京平)1978
山内恵美子「太陽は泣いている'78」(松本隆/筒美京平)1978




セクシー・バス・ストップ」はもともとインストゥルメンタルであった。
アメリカでバス・ストップというステップ(5)が流行り始めたので、日本で踊
れる曲を作ってしまおう、というのが企画の発端。

作曲依頼を受け筒美京平はフィリーソウルを支えたMFSB(6)の日本版を目指す。
林立夫(ds)鈴木茂(g)後藤次利(b)矢野顕子(kb)によるユニット、オリ
エンタル・エクスプレスを結成。ビクターから洋盤として発売したところ好評。



↑オリエンタル・エクスプレスの「セクシー・バス・ストップ」が聴けます。



歌詞を付けて浅野ゆう子に歌わせる案が出た。
初めは難色を示していた筒美京平も「橋本淳に作詞を依頼する」条件で了承。
浅野ゆう子の「セクシー・バス・ストップ」は自己最高セールスを記録した。




↑今や語られることもなくなったシェリーの「恋のハッスルジェット」。
いい曲なのに。これも元はオリエンタル・エクスプレスのインスト曲。




筒美京平はディスコ・ミュージックと歌謡曲との融合をいい塩梅で仕上げた。
それは彼がフィリー・ソウル以降のモダンなディスコ・ミュージックを理解
し、歌謡曲にうまく流用する(=パクる)術を持っていたからだ。(7)




たとえば1970年代前半のディスコ・サウンドは、クラビネットの歪んだアタ
ックの強い和音が入れておくと、スティーヴィー・ワンダーやコモドアーズ
のファンキーな感じが出る、とか。

アレンジャーの領域になるが、筒美京平はオーケストレーションもできるので
編曲まで手がけることも多かったという。(8)


筒美京平=ディスコ歌謡の認識は、彼がスリー・ディグリーズの曲を手がけ
日本でヒットさせた実績も評価されてのことだと思う。







日本で人気が高かったスリー・ディグリーズは親日的だった。
何度も来日公演を行なっており、来日時に「When Will I See Your Again
(天使のささやき)」の日本語盤をレコーディングしヒットさせている。

1975年には「にがい涙」(安井かずみ作詞、筒美京平作曲)を日本限定
で発売し、ヒットさせた。




↑スリー・ディグリーズの「にがい涙」が聴けます。


スリー・ディグリーズは来日すると歌番組に出演し、日本語でも歌った。
歌謡曲しか聴かない層もお茶の間で本場のソウルミュージックに触れ、
受け入れる体質が形成されて行ったのではないだろうか。

極論になるが、今日に至るまでの日本のブラック・ミュージック・ブーム
の上流には、スリー・ディグリーズと筒美京平があるのでははないか、と
さえ思えてくる。




ディスコ歌謡は1980年代に引き継がれる。
初めは1970年代後半から続くAOR、ブラコンの影響を受けた曲だった。


アン・ルイス「恋のブギ・ウギ・トレイン」(吉田美奈子/山下達郎)1979
鹿取容子「ゴーイン・バック・トゥ・チャイナ」(Pim Koopman) 1980
岩崎良美「ごめんね Darling」(尾崎亜美)1981
杏里「悲しみがとまらない」(康珍化/林哲司・編曲:角松敏生)1983





↑鹿取容子の「ゴーイン・バック・トゥ・チャイナ」が視聴できます。
これは振付ではなく、六本木で遊びまくってた人の踊り方です(笑)
曲はパトリース・ラッシェンの「Forget Me Nots」を彷彿させる。




↑岩崎良美「ごめんね Darling」が聴けます。
Darling〜のリフレインがアース・ウィンド&ファイアーの「 September」
のBa-du-da.ba-du-daと同じメロディ。
シンコペーションの付け方、スラップベースなどアレンジも似てる。




↑杏里の「悲しみがとまらない」が聴けます。
プロデューサーでもある角松敏生のアレンジが聴きどころ。




1980年代半ばからユーロビート色の強い曲が中心となる。
ヒュー・パジャム系の2拍・4拍を叩きつけるようなサウンドが特徴だ。


アン・ルイス「六本木心中」(湯川れい子/NOBODY)1984
田原俊彦「抱きしめて TONIGHT」(森浩美/筒美京平)1984
C-C-B 「Romanticが止まらない」(松本隆/筒美京平)1985




↑アン・ルイスの「六本木心中」が視聴できます。
六本木の大衆向けディスコではヘビロテで異様な盛り上がりだったとか。
ご当地ソングということ?




1980年代後半はユーロビートの洋楽カヴァーが多くなる。


荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」1985→アンジー・ゴールドのカヴァー
石井明美「CHA-CHA-CHA」1986→フィンツィ・コンティーニのカヴァー
本田美奈子「Heart Break」1987→?
森川由加里「SHOW ME」1987→カバー・ガールズのカヴァー
和田加奈子 Lucky Love」1988→カイリー・ミノーグのカヴァー

今聴くと、荻野目洋子以外は歌が下手。
本田美奈子は歌唱力が評価されてるが、この曲はピッチが不安定である。
ミュージカルをやるようになって上手になったのかな?
他の歌手はキャッチーな曲で一発ヒット狙いの雑な売り出し方で、充分
なボーカル・レッスンも受けていなかったのかもしれない。




1990年代に入るとM.C.ハマー、ボビー・ブラウンが人気を博し、若者はヒッ
プホップやラップ、またはハウス・ミュージックで踊るようになる。
踊る箱もジュリアナ東京やヴエルファーレなどバブル期の象徴のようなディ
スコから、クラブやDJバーへと移って行く。

日本の音楽シーンはJ-Popと呼ばれるようになり(9)、歌謡曲は懐メロとなる。
この時点でディスコ歌謡というジャンルは終わった。


<脚注>

(1)
戦後のラテン・ミュージックとダンス・ブーム
1955年マンボ・ブームが絶頂。週刊読売は「日本狂騒曲」と記事にした。


(2)「ウララ、ウラウラ」
阿久悠は先詞でも後詞でも書けるが、都倉俊一と組む時は曲が先で歌詞は後
というやり方だったらしい。
「狙いうち」のデモテープで都倉俊一は仮でウダダ、ウダダと歌っていた。
そこに阿久悠が言葉を当て込むと思っていたが、完成した歌詞を見てウララ、
ウララになってるので驚いたという。
阿久悠はデモで都倉俊一が歌ったウダダの語感を活かしたのだ。


(3)ノンストップのダンス・ミックス
現在のデジタル編集技術ならば違うキーやテンポの曲でも声質を変えること
なく整えて、マッシュアップすることができる。


(4)キャンディーズの歌唱力
作曲家の穂口雄右は3人の成長ぶりに敬意を表し「微笑がえし」は初見での
レコーディングを提案し、3人は完璧な歌唱でこれに応えた。


(5)バス・ストップというステップ
1列または2列に並ぶ様がバス停で列を作っているように見えることから、
バス・ストップと呼ばれた。


(6)MFSB
Mother Father Sister Brotherの略。
1970年代にフィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオで演奏して
いたスタジオ・ミュージシャンによるオーケストラ形態のバンド。
オージェイズ、テディ・ペンダーグラス、スリー・ディグリーズなど、
フィラデルフィア・インターナショナル・レコード所属アーティストの
レコーディングを支えた。


(7)歌謡曲にうまく流用する(=パクる)術。
南青山の輸入盤専門店パイドパイパー・ハウスには「京平先生お取り置き
コーナー」があって、筒美京平が毎月、大量の洋楽を購入し曲作りの参考
にしていたという。


(8)筒美京平は編曲まで手がけることも多かった。
太田裕美の「木綿のハンカチーフ」はアルバム・ヴァージョンは萩田光雄
が編曲を担当しているが、シングルカットに際して筒美京平がアレンジを
変えて(イントロのストリングスを追加、曲間で入るギターの旋律など)
レコーディングし直した。


(9)J-Popと呼ばれるようになった
1989年にJ-WAVEで「洋楽と一緒にかけても遜色ない」とされた邦楽が
起源と言われる。
当初はサザン、山下達郎、大瀧詠一などアメリカのポップスやロックを取
り入れたオシャレな音楽を指していたが、後にもっと広義に解釈される。



<参考資料:OLD WAVE スリー・ディグリーズは昭和歌謡曲?、
ミュージックカレンダー、NEWSポストセブン、週刊読売、Wikipedia、
むかしの装い 昭和30年のマンボ!とマンボスタイル、Youtube、zakzak、
中高年の中高年による中高年のための音楽、discovermusic.jp、他>


※個人のブログやSNSに掲載された写真も使わせていただいてます。
問題がある場合はすぐに削除しますのでご一報ください。

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