2018年12月3日月曜日

イーシャー・デモはビートルズの謀反だった?

ホワイト・アルバム2018のデラックス・エディションは本編2枚のリミックスに加え、
ボーナスCDとしてイーシャー・デモという3CD仕様だ。

ジャケットの背表紙に「THE BEATLES and ESHER DEMOS」と明記されている。
イーシャー・デモ音源を最良の音質で聴いてもらいたい、というジャイルズ・マーテ
ィンの自信の表れではないかと思う。



<ホワイト・アルバムの源泉となったインド滞在>

1968年2月ビートルズは恋人や妻と一緒にインドのリシーケシに招かれ、マハリシ・
ヨーギーの寺院で超越瞑想の指導を受けながらサマーキャンプのような生活をした。

ビーチボーイズのマイク・ラヴ、ドノヴァン、パティーの妹ジェニー・ボイド(1)
マリアンヌ・フェイスフル、ミア・ファローと妹のプルーデンスも招待されていた。


ビートルスが僧院で過ごした数週間は穏やかで自由で、創造のオアシスとなった。
瞑想、ベジタリアン食、ヒマラヤ山麓の丘の優しげな美しさ。
追いかけてくるファンもプレスも、過密なスケジュールもない。


滞在中に彼らは48曲作ったと言われ、その多くがホワイト・アルバムに収録された。

自由な時間と瞑想、インド思想の影響。同行者にインスパイアされた曲も多い。



↑ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロウ・ビルのデモが聴けます。

ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロー・ビルも彼らがインド
滞在中に実際に起きた事件をネタにジョンが書いた曲だ。

サクソン人の母親を持つアメリカ人の頑固な息子バンガロー・ビルはモデルがいる。
象と銃と虎狩りに出かけた、事故を恐れて彼はいつも母親を連れて行った、殺しに
見えるけどあの時は殺るか殺られるかだった、は寺院に滞在していた当事者から

ジョンが直接聞いた話である。


ディア・プルーデンスは部屋に篭って出てこないミア・ファローの妹プルーデンス
への呼びかけの曲であることもよく知られている。


ジョンはドノヴァンからフィンガーピッキングを教わり、たった2日間で習得。
この奏法を取り入れたジョンの作風は変わり、ディア・プルーデンス、ジュリア、
ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガンに生かされた。



ジョージもドノヴァンと影響を与え合ったようだ。
ドノヴァンが得意とするコードの構成音が半音ずつ下がる進行(クリシェ)が気に入り
、ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスに取り入れた。
一方ドノヴァンは自身のハーディ・ガーディ・マンの序奏はハリソン作だと言っている。


ポールは滞在中にSpiritual Regeneration Songというビーチボーイズ風の曲を披露し
ているが、後半はマイク・ラヴの誕生日おめでとうソングになっている。
(この曲はイーシャー・デモでは収録されていない)



↑クリックするとSpiritual Regeneration Songが聴けます。


この曲のことかどうか分からないが、マイク・ラヴが彼の回顧録でこう述べている。
「ポールがある日、朝食の時に作りかけの曲をギターで弾いていた。
ビーチボーイズのサーフィン・U.S.A.のパロディで後にバック・イン・ザ・U.S.S.R.
となる曲だった。

マイクは「ブリッジ部でロシアの女の子のことを入れたらいいと思うよ。モスクワの
娘、ウクライナの娘みたいに。僕らもカリフォルニア・ガールズで上手く行ったし、
U.S.S.R.でも上手く行くんじゃない?」とポールに助言したそうだ。


インド滞在はいいことばかりではなかったようだ。特にリンゴにとっては。
食べ物が合わず、また風呂にサソリや蜘蛛が入ってくるのに閉口しリンゴとモーリン
は早々に滞在10日で帰国することになった。

ポールは1ヶ月滞在してジェーン・アッシャーとともに帰国。
ジョンは当初の予定通り2ヶ月滞在したが、最後はマハリシに失望(2)して帰国。
ジョージとパティは2ヶ月半後の4月下旬に帰国している。



<イーシャー・デモとは何か?>

インドで曲を書き溜めたビートルズは全員が帰国後の5月、ジョージの自宅に集まり、
新曲を持ち寄りホーム・デモを作成することにした。





ジョージは1964年、サリー州イーシャーに広大な庭つきのバンガロー・スタイルの家
(1950年代の建築でキンファウスと呼ばれる)を購入。
1970年ロンドン郊外の大邸宅フライアーパークに移るまでパティーとここで暮らした。

1967年にはジョージとパティの手で家中にサイケデリックペイントが施され、インド
・スタイルで装飾されたヒッピー・バンガローになっている。





お香を焚いたリビングルーム。
ジョージとパティは革製クッションにもたれていたそうだ。


ジョンは15曲、ポールは7曲、ジョージは5曲。全部で27曲が録音された。
そのうち19曲がホワイト・アルバムに収録されている。
残りの8曲のうち2曲はセッションで録音されたがお蔵入り。(アンソロジー3に収録)

ジョンの2曲はアビーロードのB面メドレーで使われた。
解散後ジョン、ポール、ジョージのソロアルバムでお披露目となった曲もある。


このジョージ宅で録音されたテープが後に流出し、イーシャー・デモまたはキンファ
ウスというタイトルのブートで出回るようになった。
多重録音だがブートはモノラルで音がこもっていたし、曲によってはトラックのズレ
が生じて聴くに堪えないものもあった。

1996年のアンソロジー3でイーシャー・デモから7曲が公開された。
音質的にはブートよりいい。
半分はステレオ・ミックスだが左右泣き別れ、残りはモノラル・ミックス。
消化不良感があった。






<2018リミックスで蘇ったイーシャー・デモ>

今回のホワイト・アルバム2018リミックスのボーナスCDには、このイーシャー・デモ
音源が27曲すべて収録されている。
1〜19曲目は「ホワイト・アルバム」で起用されたナンバーがアルバムと同じ順に収録
され、残る20〜27曲目の8曲はアルバム未収録のナンバー。

ここまで高品質なサウンドは今まで無いとジャイルズ・マーティンは自慢げだ。



↑クリックするとバック・イン・ザ・U.S.S.R.のデモが聴けます。


自宅録音のリラックスした雰囲気がよく伝わる。ゆるい感じがいい。
しばらく歌った後で「もうちょっと速い方がいいかな」と中断して歌い直したり、
後ろで他のメンバーがテーブルをドラムのように叩いて参加したり、タンバリンや
シェイカーを鳴らし、一緒に歌ったり掛け声をかけたりと、聴いていると楽しい。

マル・エヴァンズ(3)やデレク・テイラー(4)へ話しかけている声も入っている。
何曲かは未完成な状態で、歌詞も完成形とは違っている部分もある。



↑クリックするとチャイルド・オブ・ネイチャーのデモが聴けます。
(内容的にポールのマザー・ネイチャーズ・サンと近いのでホワイト・アルバムには
収録されず、後に歌詞を変えジェラス・ガイとしてジョンのソロ作品に収録された)


当時ジョージが購入したAMPEX製の4トラックレコーダで録音したと言われている。
どの機材を使ったのかポールにも聞いたが「覚えていない」と言われたそうだ(笑)

イーシャー・デモのほとんどは2トラックだったらしい。
4トラックの曲もあるが、他の2トラックから音は聴こえない。
ジョージの家で見つけたテープは恐らく、オリジナルではなく4トラックに変換された
ものだろう、というのがジャイルズ・マーティンの見解だ。(5)

だとしても、オリジナルに近いジェネレーションのテープであることは間違いなく、
それを時間をかけてレストアして、最新のデジタル技術で調整、エフェクト処理を施し
てここまでの音質に仕上げたのだろう。

またジャイルズ・マーティンは「全てジョージの家で録音されたのでもないのでは」
とも言っている。
場所はともかくオルガン演奏でジョージが歌うサークルズは彼一人の録音のようだ。



<イーシャー・デモはビートルズの謀反だった?>

素朴な疑問だが、なぜインドから戻った彼らは従来のようにアビーロード・スタジオ
で作業に入らず、ジョージの家に集結したのだろう?

EMIはビートルズのためならいつでもスタジオを優先的に使わせてくれただろうし、
エンジニアたちもビートルズ優先でスケジュールを組んでくれたはずだ。
4人にとってもこれまで通りスタジオでセッションを重ねながら曲をブラシュアップ
させて行くやり方でもよかったのでは?という気がする。


サージェント・ペパーズはビートルズとジョージ・マーティンのコラボレーション
によるマジックの集大成だったと言える。
4人の無限大のアイディアにジョージ・マーティン、ジェフ・エメリックが応え、
一つ一つ不可能を可能にして行き、壮大な作品を作り上げた。

マーティンもサージェント・ペパーズは自分とビートルズが深く関わった結晶と自負
し、各曲における彼自身の貢献度を公表していた。
そして次もまた同じ方向で進むだろうと思っていたという。

しかしビートルズはビートルズらしく(笑)まったく別のことをやろうとした。
ポールがビートルズは同じことをやらない主義だったと言っていたことがある。



↑クリックするとハニー・パイのデモが聴けます。


ホワイト・アルバムは例えれば先生であるジョージ・マーティンに対し生徒の反乱に
よって暴動が起きたという状況でつくられた。
このことにより、サージェント・ペパーズとは違って直感的でエネルギッシュな作品
になっている。(ジャイルズ・マーティン) 

ホワイト・アルバムはコンセプトも明確なプランも無しで、ビートルズが持ち込んだ
多数の曲をその場その場で仕上げて行く、というやり方になった。


ジョージ・マーティンは曲を厳選して1枚のアルバムで出すべきだと主張したが、4人
は録音したほとんどの曲を収録し2枚組にする、と頑として譲らなかった。

スタジオで作業中もポールやジョージがマーティンに暴言を吐くこともあり、険悪な
空気に耐えられずジェフ・エメリックが退席した。


俺らが好きなように仕切るからあんたはあまり口出しするな!ということか。

マーティンは事実上セッションから締め出されていた状態で、コントロール・ルーム
の隅で新聞を読みながらチョコバーを食べ、メンバーたちから声をかけられた時だけ
相談に乗っていたそうだ。


ビートルズは今までと異なるやり方で行こうと決めていた。
サージェント・ペパーズとは対極の方向性で、破壊と自由を目指したのだ。
それは師であるジョージ・マーティンへの反逆でもあった。

だからマーティン抜きでジョージの家に集結しデモを作成することにしたのだろう。



↑クリックするとヤー・ブルースのデモが聴けます。



<イーシャー・デモはビートルズが仲良しだった最後の時間>

ジョージの自宅で和気藹々と録音したデモ・テープからは、メンバーたちの親密な
雰囲気が伝わって来る。
4人がビートルズの一員であることを楽しんでいた最後の時間だっただろう。
だからこそイーシャー・デモは貴重な音源なのだ。


5月30日ホワイト・アルバムのセッション初日、ヨーコがスタジオに登場。
ジョンの隣に居座り続けるヨーコの姿に他の3人のメンバーは唖然とした。
この日はレボリューション1の録音だったが、彼女はジョンとマイクの前に立った。


<脚注>


(1)ジェニー・ボイド
彼女も姉のパティと同じくモデルをしていた。
当時ドノヴァンがジェニー・ボイドに夢中で、彼女のことを歌ったジェニファー・
ジュニパーという曲を出している。
ジェニーは後にミック・フリートウッドと結婚。




(2)マハリシに失望
ジョンはマハリシが不正行為を犯したと非難。失望の意を表し帰国した。
マハリシを俗物と揶揄した曲がセクシー・セディーである。
ジョンは数年後にマハリシに電話をし、自分の思い込みだったと謝罪している。


(3)マル・エヴァンズ

ビートルズのロードマネージャー。ビートルズの古くからの友人。
体が大きく威圧的だが心はやさしかったという。
キャバーンクラブで用心棒をやってた頃から親しくなった。
ツアーをやらなくなってからもビートルズの雑用係として働いていた。
映画「レット・イット・ビー」ではマックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー
に合わせて、ハンマーを叩いている姿が映っている。
1976年ニューヨークで警官に謝って射殺された。




(4)デレク・テイラー
ビートルズの広報担当。
解散後もメンバーたちと親交を持ち、元ロードマネージャーのニール・アスピ
ノール(再生後のアップル・コアの運営を任せられる。2008年死去)とともに
アンソロジーなどビートルズのプロジェクトに貢献した。
1997年に癌で65歳で死去。


↑ジョンが頭に手を置いている人がデレク・テイラー


(5) 4トラックのレコーダー
1970年代に友人が持っていたTEACのオープンリール・デッキ4TR38cm機は
ステレオ2TRで2回、個別に録音できた。2TR録再生、4TR再生。
つまりステレオ2TRで録った音をモニターしながらステレオ2TRで重ねる。
4TRマルチトラック録音(4TR独立で多重録り)はできなかった。
ジョージのAMPEXはSTUDERと同じくプロ仕様の4TRレコーダーのはず。
4TR独立で多重録りできるはずだが、ラフなデモなのであえて2TRだけの重ね
録りで、残りの2TRは空けたままだったのかもしれない。


<参考資料:RollingStone、PHILE WEB AUDIO、AV Watch、Amazon.com、
THE BEATLES 楽曲データベース、NME Japan、mora、GQ Japan、他>

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