2021年4月5日月曜日

日本のロックは1965年のベンチャーズ来日で始まった(2)



<1965年1月、ベンチャーズ2回目の来日>


前年の1964年にウォーク・ドント・ラン(急がば廻れ)、アストロノウツの
太陽の彼方がヒットし、サーフロック、エレキ・ブームの機運が高まる。

1965年1月、満を時してベンチャーズは2回目の来日公演を行う。
今回はドン、ボブ、ノーキー、メル、4人の黄金メンバー揃っての来日である。


プロモーターの協同企画(現キョードー東京)は安全策としてベンチャーズ
とアストロノウツの2本立てで公演スケジュールを組む。(1)
東京と横浜は、前座にジャニーズ、寺内タケシとブルージーンズが出演。
司会はビン・コンセプション。(2)

タイトルは「エレキが炸裂する!新春日米リズム競演」。時代を感じるなあ。
ちなみに新宿厚生年金ホールのチケット代は400、600、800、1000円だった。




1月3日~14日に東京は新宿厚生年金会館で4回、リキ・スポーツパレスで6回、
サンケイホールで1回、大阪フェスティバルホールで2回、横浜文化体育で1回、
愛知県文化会館、札幌市民会館でそれぞれ1回、計16回の公演が行われた。


リキ・スポーツパレス(3) では新春大ダンスパーティーとして開催された。
当初公演は3日から13日の15回の予定だったが、大反響により14日に渋谷の
リキ・スポーツパレスで追加公演(ダンスパーティー)が行われ、その模様が
収録され、翌15日に成人の日特集としてフジテレビで放映さた。



                            (写真:gettyimages)
↑今では考えられないような密状態。肩車で踊るわ、二階席から乗り出すわ。
警備はいなかったのか?対照的にステージは高校の文化祭並みに狭い(笑)
アンプは日本側で用意したグヤトーンのようだ。(グリルにGマークがある)
ノーキーとドンはコンボタイプ、ボブのベース用は立て置きの大型アンプ。

(ギターマガジンではこの写真を新宿厚生年金会館としているが間違い。
厚生年金のホールは固定座席のため取り外してダンスホールにはできない。
吹き抜けがあり客席もないことからリキ・スポーツパレス1F会場と判る)



予想以上の演奏レベルの高さと客席の熱気を見た東芝音楽工業は、来日前に
予定されてなかったライヴ録音を提案。ベンチャーズ側もこれを承諾。

急遽1月10日の厚生年金会館での公演が収録され、8月に実況録音盤として
ベンチャーズ・イン・ジャパン(Ventures In Japan)が発売された。
(次の7〜9月の来日公演の最中に1月公演のライブ盤が出たわけだ

このアルバムは当時としては異例の50万枚以上の大ヒットを記録した。




↑ジャケットがいい。ベンチャーズ・ファンじゃなくても見覚えはあるだろう。
1月の来日時に雪が降る赤坂の日枝神社で撮影された写真だ。

(クリックすると1965年1月演奏のウォーク・ドント・ラン’64が聴けます)


<収録曲>

1.ベンチャーズ・メドレー(ボブがリード、ノーキーがベースを弾いている)
(ウォーク・ドント・ラン~パーフィディア~木の葉の子守歌)
2.ドライヴィング・ギター(この曲からボブがベース、ノーキーがリードに交代)
3.ブルドッグ
4.パイプライン
5.アパッチ
6.10番街の殺人
7.ウォーク・ドント・ラン’64
8.バンブル・ビー・ツイスト
9.ワイプ・アウト
10.キャラバン(アンコール)

ベンチャーズのステージは通常約50分位なので、実際に演奏した曲数はもっと
多いと思われる。人気がある代表曲中心に編集されている。



<ベンチャーズ・イン・ジャパンの録音>

録音からミッックスまですべて東芝音楽工業が行なったそうだ。


演奏の完成度の高さゆえ、スタジオ録音ではないか?という疑念の声もある。
観客の声が同じ部分が繰り返し使われている点も不自然視されている。
客席の声は別にマイクを立て収録しているので、編集を加えることは可能だ。

後で手を加えた部分があるか?という質問(1995年)に、メル・テイラーは
「いや、何もしていない。僕らの演奏がそのままが入っているミックスまで
全部、東芝にまかせた」と答えている。




収録日は1965年1月10日 東京厚生年金会館と記載されているが、成毛滋は2006
年のインタビューで「1965年1月のベンチャーズのライブ音源は2回分くらいの
公演からいいとこ録りしてるのでは」と言っている。

また「この時の録音は2トラ一発録り(4)ですよ。この頃はマルチ(トラック・
レコーダー)なんてないですから。ミキサーは大変だったでしょうね。いきなり
ミックスダウンです。音が大きいので(VUメーターの)針が振り切ってしまっ
て(音量レベルがピークを超え音が歪んで)困ったはず」と指摘している。

演奏をミックスしながら録音するだけで精一杯だったのではないだろうか。
立ちマイクで録った客席の歓声は、リダクションした演奏の音源にオーヴァー
ダブした、とも考えられる。それなら歓声が繰り返し〜の指摘にも説明がつく。



↑裏ジャケットもいい。
ステージ上に浮かび上がるNだけ下にずれた赤いTHE VENTURESと、黒い背景
に青字で入れたタイトル、VENTURES IN  JAPANの対比が効果的だ。
ノーキーを見て笑ってるドンの表情がまたいい。ステージの臨場感たっぷりだ。
(写真をクリックすると1965年1月演奏の10番街の殺人が聴けます)


ドンはストロベリー・レッド、ノーキーとボブがサンバーストのモズライト
アンプはフェンダーのピギーバッグをアメリカから持参した。(5)
ツイードの後継機種でヘッド+キャビネットのコンボ・タイプである。


ボブの後にあるアンプはベースマスター・ピギーバッグ。出力は50W。
1961〜1963年に製造されたブロンド・フェイスである。
写真のように傾けて置くこともできた。

ドンとノーキーのアンプは黒のコンボタイプで、大きさや形状、黒いグリル、
傾けて置かれてることを鑑みると、1964年から製造されたブラック・フェイス
のバンドマスター・ピギーバッグ(出力40W)のようにも見えるが、 グリル
にFenderロゴが見えない。
グヤトーンだった可能性が大きい。1月公演の他の写真でもやはり微妙(笑)


<追記> THE M VENTURES さんから情報をいただきました。
1月公演のVENTURES IN JAPANの裏ジャケットの写真では、ノーキーは
フェンダー・ツインリバーブ(パイプ椅子の上)、ドンはフェンダーのバンド
マスターだそうです。
THE M VENTURES さん、どうもありがとうございました。


前述のリキ・スポーツパレスでの追加公演では全員グヤトーンを使用。
会場によって使い分けていたようだ。(後述)




↑1961-1963年製造フェンダー・バンドマスター・ピギーバッグ(ブロンド)



このベンチャーズ・イン・ジャパンではピッチが1/4音くらい高くなっている。
ライブ感を出すためテープのスピードを上げたものと思われる。
(ギターマガジン2018年6月号)
またエフェクター類を使用していないにもかかわらずギターが歪んで聴こえる


しかし、客席にいた多くの人がレコードほど歪んでいなかったと証言している。
当時の写真を見ると、録音マイクはアンプから少し離し(大音量から機材を保護
するためか)低めの位置に垂直に立てられている。
フロアの共振、反響音を拾ってしまったことも一因かもしれない。
ライブ会場の臨場感は出ているが音像はモワッとし、楽器の被りもかなりある

ギターの歪みはモズライトの高出力ピックアップとアンプも関係がありそうだ。
電圧の関係でベンチャーズが持参したフェンダーのアンプでボリュームを上げる
と音が割れていたようで、会場によっては日本側が用意したグヤトーンの大型
アンプを使っている


ドン・ウイルソンが1965年1月公演について「あの頃はPAがなかったから、大会
場でもアンプだけを頼りにして演奏していた。でかい音でやるしかやるしかない。
自然にディストーションがかかったサウンドになってしまうんだ」と言っている。
(THE VENTURES BOOK)

メル・テイラーも「とにかくアンプから出る音がすごいので、それに負けないよう
に思いきり強く叩いてた。それでああいう叩き方になったのさ」と言ってる。



↑キャラバンのドラム・ソロでボブのベース弦をスティックで叩くメル。
ジーン・クルーパーの影響だろう。
(写真をクリックすると1965年1月演奏のキャラバンが聴けます)




<ノーキーのリード・プレイの秘密は使用弦にあった>

生のベンチャーズを体験した日本のバンドマンたちは衝撃を受けた。
同時に目で見るノーキー、ドン、ボブ、メルのテクニックは目から鱗だったろう。
なるほど、こういう弾き方をしてたのか。。。。と。

モズライトとフェンダーの真空管アンプが生む音圧の凄さや、ノーキーのベンディ
ング(チョーキング)奏法やグリッサンド奏法(テケテケ)を可能にしているのが
使用弦にあった点も大発見だったようだ。




1960年代のエレキギターの標準ゲージは以下のようになっていた。
ヘヴィーゲージ 058-013
ミディアムゲージ 056-012
ミディアムライト 054-012 

ジャズ・ギターを前提としたゲージであり、3弦はいずれもワウンド弦(巻弦)。
このセットでノーキーのリード・プレイやドンのリズム・カッティングは難しい。


寺内タケシと加瀬邦彦は3弦で楽々とベンディング(チョーキング)するノーキー
に「アメリカ人は力が強いんだろう」と感心し、二人で指立て伏せをし星飛雄馬か
ロッキーみたいな猛特訓をしていたという笑い話がある。(加瀬邦彦談)

ベンチャーズ来日公演の前座を務めることになった時、二人はこっそりベンチャー
ズの楽屋に忍び込み、ノーキーのモズライトを観察した。
何のことはない。ノーキーの使用弦は細いのだ。3弦は巻弦でなくプレイン
これならギューンと思い切り弦を持ち上げられるのも納得だ。(6)


高校生だった成毛滋もまた1月10日、昼の部の公演の後、楽屋に忍び込んだ。
次のステージに備えてチューニングをしていたベンチャーズに前日に練習した英語
で「どうして3弦をあんなに上げる事が出来るんだ?」と質問したろころ、ボブと
ノーキーが説明してくれたが分からない。
答えが英語で返ってくることまで考えていなかった(笑)
するとノーキーが傍に置いてあった弦を2セットくれて何か言う。
どうやら「これを君のギターに使ってみれば分かるよ」ということらしい。
成毛滋はサンキューとその場を後にし、もらった弦を自分のギターに張り2弦も
3弦もフワッと簡単に上がることに歓喜したという。(成毛滋インタビュー)



↑写真は成毛滋がノーキーにもらったモズライトのライトゲージ弦。
パッケージ名称はLead King Strings。electric spanish guitarの表記。
ベンチャーズのロゴはエンドースメント契約終了後に外された。



ノーキーも最初はレギュラーゲージを1本ずつずらして張り(6弦〜2弦のコースに
そ5弦〜1弦を張る)、1弦にバンジョーの弦を張るなどの工夫をしていた。(7)

ベンチャーズがモズライトを使用するようになってから、セミー・モーズレイが
ノーキーの要望に応えて専用弦ライトゲージ(046-010)を造ったそうだ。
実際は中身はアーニーボール社製
新たに6本1セットを作ったわけではなく、レギュラーゲージの1~5弦を2~6弦
の袋に入れて、010の1弦を加えたもの。
しかも1弦はバンジョーの弦の流用で、ポールエンドをつけただけであった。
(今日、世界標準のアーニーボール社レギュラースリンキーの原型だ)(8)



<1965年1月のベンチャーズ来日がもたらしたもの>

話を1965年に戻そう。
1月のベンチャーズ公演で日本にエレキギター・ブームが起きる。
6月にはフジテレビ系で「勝ち抜きエレキ合戦」という番組が始まった。審査員
は寺内タケシ、湯川れい子、福田一郎、石津謙介(VANジャケット創業者)。




同時にゴーゴー、モンキーダンスが流行。
ゴーゴー喫茶、ゴーゴークラブができ、ゴーゴーパーティーも行われ、エレキギ
ターのインストゥルメンタル・バンドの演奏で踊りに興じる若者が増えた。

一方、大人からはエレキやゴーゴーは非行化の温床だという声も挙がり、PTAや
多くの学校でエレキ禁止令が出るようになった。

そんな最中、7月にベンチャーズ3回目の来日である。


(続く)

今回もベンチャーズ・ファン歴が長くモズライトにも詳しいHさんにいろいろ
質問し、教えていただいた情報を使わせていただきました。感謝です。
また個人で情報をアップされてる方のブログやサイトも参考にさせてもらったが、
コンタクトが取れず許諾のないまま転用させてもらった箇所もある。ご容赦を。
脚注の参考資料に出典を記載しておくので問題がある場合はご一報ください。


<脚注>


(1)協同企画

キョードー東京の前身。代表の永島達司氏は日本初のプロモーター。
ジャズ系から、ビーチボーイズ、ベンチャーズ、ビートルズ、シュープリームズ、
スティービー・ワンダー、ツェッペリン、サイモン&ガーファンクル、エルトン・
ジョン、マイケル・ジャクソン、マドンナ、ホイットニー・ヒューストンを日本に
呼んだことで知られている。
永島氏は舞台美術や照明、音響効果に経費を惜しまず、来日アーティストに対する
ホスピタリティも高く、彼の人格と信頼性は海外でも「日本に行くならタツジに
頼め」有名になった。
その評判からビートルズ来日もマネージャーから永島氏指名でオファーを受ける。
武道館の会長でもある読売の正力オーナーの説得、警察との調整、ホテルに監禁
のビートルズへのおもてなしは語り草になっている。


(2)ビン・コンセプション
1960年代にベンチャーズの公演で曲を紹介してたフィリピン人の司会者。
英語は流暢。カタコトの怪しい日本語が名物になっていた。
もともと日本で仕事をしていた人なのか、ベンチャーズが極東ツアーの時に連れて
きたのか?不明。
初期の頃は午前中のリハーサルで初めて取り組んだ曲をその日の午後にやることも
あったらしく、演奏する曲目を事前に決めずにその都度メルが司会のビン・コンセ
プションに伝えていた、という都市伝説みたいなエピソードもある。
ビン・コンセプションは新東宝や大映の映画にキャバレーの司会者役で出演してる。


(3)リキ・スポーツパレス
力道山が渋谷(道玄坂と南平台の間)に作った総合スポーツレジャービル。
彼は「プロレスにも相撲の国技館のような常設会場が欲しい」と考えていた。
また30代後半で体力の衰えを痛感していて、事業を始めたい気持ちもあった。

1Fはプロレス興行常設会場(三菱ダイヤモンドアワー・プロレスリング中継も
ここから実況放送)。二階席まで吹き抜けになっていた。
その他、プロレス道場、事務所、添付写真にも映ってるリキトルコ(当時サウナ
はトルコ風呂と呼ばた)、ボウリング場、キャバレー、リキレストラン、ボク
シングジム、が入居する、斬新な一大複合ビルだった。(1961年完成)




リキ・スポーツパレス完成の2年後、1963年に力道山は刺殺。
力道山のネームバリューで集客していたリキレストランは利用客が減少。
都内にボウリング場が相次いで開業したことで、リキパレスは経営難に陥る。
赤坂のキャバレー、ミカドの近畿観光に買収され全面改装してキャバレーに。
しかし立地条件の悪さ、キャバレーという業態そのものの衰退、吹き抜けや
サウナ用の配管などオフィスビルとしての転用が難しく1992年に取り壊された。


(4) 2トラ一発録り
スタジオでのレコーディングでは4トラックのレコーダーが使用されていたが、
当時コンサート会場に持ち出せるのは2トラックレコーダーだったと思われる。
3台のアンプとドラムセットの前に立てたマイクから拾った4系統の入力音を、
ミキサーで各楽器の音量バランス、左右の定位を調整しながらその場で2系統の
出力(L/R)から2トラックのレコーダーにステレオ録音するわけだ。
4トラック録音で後からミックスダウンする場合と違ってやり直しが効かない。
現場で演奏をミックスしながら2トラックに録音するだけで精一杯だったはず。
立ちマイクで別途録った客席の歓声を、2トラックの演奏の録音と一緒に4トラ
ックにリダクション(バウンス)し、バランスを取った上でミックスダウン
したのではないかと思う。演奏は本物のライブだが客席音はSEとして被せた。
それなら同じ歓声が繰り返し使われている〜の指摘にも説明がつく。


(5)フェンダー・バンドマスター・ピギーバッグ(出力40W)
ノーキーはエレキ・ギターブック(1998年)のインタビューで、ベンチャーズ
時代に主に使っていたアンプはフェンダーのピギーバッグだと答えている。
フェンダーは1950年代のツイード・アンプの後継機種として、1960年から
ピギーバックを製造し出した。後ろに傾けて置けるようにもなっている。
ヘッド+キャビネットのコンボタイプの真空管アンプで、解像度の高いサウンド
が得られ、ロー〜ミッドの出音が独特だと言われる。
ギター用はバンドマスター・ピギーバッグ(出力40W)、ベースアンプはベース
マン・ピギーバッグ(出力50W)と呼ばれた。
1960-1963年はブロンド・トーレックスでグリルはブロンドかブラウン。
1964年にブラックフェイスが追加された。
1965年1月、7月の来日公演では3人ともブロンドのピギーバッグを本国から持参。
(しかし会場によってはグヤトーンの大型アンプを使用している)

尚、1964年にはVOXがAC30を50WにパワーアップしたAC50を発売。
1965年にはビートルズのために100WのAC100を開発している。
それに比べるとピギーバッグの40Wはたいした出力ではないように思えるが、
収容数2000人の会場では充分すぎるくらいの大音量だったはずである。



(6)寺内タケシがノーキーのライトゲージ弦を知る
1966年7〜8月5回目の来日期間中、息子が落馬で急死したためドンが帰国。
寺内タケシがピンチヒッターとしてステージに立つ。
この時に寺内タケシは楽屋でノーキーのギターを観察したという説もある。
しかし加瀬邦彦は寺内タケシと一緒にノーキー使用の弦が柔らかいのを確認し
たと証言している。
1966年6月に加瀬邦彦はビートルズを客席で見たいため、前座が決まっていた
ブルージーンズを脱退している。(共演者は客席で見れない決まりだった)
この点からも、1966年8月説は間違ってると思える。
また1965年7月に共演後、ノーキーからモズライトを譲ってもらった加山雄三
も弦が柔らかいのを知った。この時点で寺内、加瀬も知っていたはず。


(7)弦をずらして張る工夫
ノーキーはジェームス・バートンにライトゲージを教わったと言われるが、本人
によると、そうではなくて自分で工夫したそうだ。
当時のカントリー・ギタリストはみんな自分なりに色々工夫していたらしい。
誰に教わったではなく、みんな自分で編み出してたということだ。

余談だが僕がエレキを弾き始めた1972年でも国産エレキ弦はミディアムゲージ
で3弦がワウンド弦(巻弦)だった。
ヤマハが出版していた音楽誌、ライト・ミュージックでは、上述のように1弦
から5弦をずらして2-6弦コースに張り、12弦エレキの1弦を1弦コースに張る
よう薦めていた。
だったらさっさとエレキ用ライトゲージを作れよ>ヤマハ、と言いたかった(笑)



(8)後年のノーキーの使用弦
ノーキーはエレキギターブック(1998年)のインタビューでゲージは046-009
を使っていると答えている。(アーニーボールのレギュラースリンキー046-010
とスーパースリンキー042-009を混ぜたような感じ?)

現在モズライト専用ギター弦 0946G014(ノーキー仕様として販売されている
セット)も046-009と1弦が以前の010より細くなっている。


<参考資料: ザ・ベンチャーズ 2015年 シンコーミュージック、
THE VENTURES BOOK ザ・ベンチャーズ 結成から現在まで 1995年河出書房、
洋楽ヒットチャート大辞典 1964年年間チャート、The Ventures in Japan。
THE DATA OF THE VENTURES JAPAN TOUR、
The History Of THE VENTURES、ベンチャーズの黄金時代のライブ、
エレキギターブック ザ・ベンチャーズ衝撃の1965  シンコーミュージック、
伝説のギタリスト成毛滋 衝撃のベンチャーズ日本公演(1965年1月)を語る、
THE DIG Special Edition ザ・ベンチャーズ シンコー・ミュージック、
Mos Rite備忘ファイル モズライトの弦 ライトゲージ、YouTube、
ギターマガジン2018年 あの頃、ぼくらとベンチャーズ。 Wikipedia、他>

4 件のコメント:

provia さんのコメント...

この時代にテレビ放映されたベンチャーズ、アストロノウツ、ビーチボーイズなど、オープンテレコで録音しました。
今じゃ行方不明で聞けませんが、一時は繰り返し聞いたものです。
余談になりますが、東京オリンピックの開会式も録音して、コレが私がマーチ好きになったきっかけです。

当時のライブってオーディエンスの歓声や拍手などが今より小さくて(日本人は大人しかった)、あとで別の音源を曲間に入れ込んで編集という事もやってましたね。

イエロードッグ さんのコメント...

>provia さん
えーっ!1965年のビーチボーイズ来日、TVで放送したんですか?
知りませんでした。
ブライアンは同行せずPet Soundsを録音してたんですよね。
ビーチボーイズの時がPTAや学校の規制がうるさく人が入らなかったとか。
あまり日本人受けしなかったのもあるかもしれませんけど。

当時の日本の観客はおとなしいですよね。
ビートルズでさえ他国と比べると悲鳴は少ない方。
おかげで本人たちも自分たちの雑な演奏を思い知ることになります。

1970年のメリー・ホプキン大阪万博来日公演は録音しました。
テレビのイヤホンジャックからカセットレコーダーにつないで。
後から上書きして何か録音をしましたけど、消さなきゃよかった。。。

匿名 さんのコメント...

1965年1月のベンチャーズ来日公演は、おそらくアストロノウツとのセットライブがずっと続いたのでははないでしょうか?

加えて、日本側プロモーターが用意した前座のグループもいつわけで、『ベンチャーズ・イン・ジャパン』に収録された曲が全てだった可能性が高いと思うのですが。

テレビ放映された曲も同じようですし。

イエロードッグ さんのコメント...

>匿名 さん

協同企画(キョードー東京)はベンチャーズとアストロノウツの2本立てで
公演スケジュールを組んだそうですから、多分全国そうだったのでしょう。
アストロノウツは「太陽の彼方」がヒットしたので安全策で呼んだそうです。

10曲は少ないですが、1グループの持ち時間は30〜40分だったのかな。
ただし会場によってセットリストが多少入れ替わるのはよくあることで、
収録された曲が全てだったかどうかは私には分かりません。