2022年3月29日火曜日

サーフロックの起源/日米で違うベンチャーズの捉え方。

ドン・ウィルソン追悼、2回目はインスト・サーフロックの誕生とベンチャーズ、
アメリカと日本で異なるベンチャーズの位置付け、について深掘りしようと思う。




<サーフロックの起源>

サーフロック、サーフミュージックという言葉が使われるようになったのは1960
年代に入ってからである。
それまでのサーファーたちラジオから流れるロックンロールやポップスをふつうに
聴いていたのだろう。サーファーのための特別な音楽というジャンルはなかった。


1978年公開の映画「ビッグ・ウェンズデー」は1960年代初め、カリフォルニア
を舞台としたサーファーの物語である。

挿入歌は1960年前後にヒットしたR&Bばかりだった。
ビーチボーイズやベンチャーズ、アストロノウツなどのサーフロックが一世風靡
する前という設定なのだろうか。(1)





最初のサーフロックは1960年ベンチャーズがヒットさせた「ウォーク・ドント
ラン」だと言われている。
本人たちが意図したわけではないだろうが、彼らはインストのサーフロック、また
はサーフミュージックとカテゴライズされることになる。

ベンチャーズを起源とするインストのサーフロックとは、1950年代後半に流行した
ロックンロールを基調としたスピード感のあるロックで、多くの場合エレクトリック
・ギターを主役とした演奏である。


サーフロックは1960年から流行り出したツイスト(チャビー・チェッカーがヒット
させた「ザ・ツイスト」がきっかけ)を踊りやすいこともあり全米に広まった。
(1960年代半ばにツイストからゴーゴーが主流になる)





インストのサーフロックはいくつかのグループが出現しブームとなる。
波の音を彷彿させるサウンドを表現するために、フェンダー・アンプに搭載された
「ウェット」というスプリング式リヴァーブが用いられた。


その一つがディック・デイル&ヒズ・デルトーンズの「ミザルー」(1962年)。
この人は全米ではたいしたヒットがないが、西海岸では毎週末2000人を集める
ローカルヒーローだったらしい。
タランティーノ監督の「パルプ・フィクション」(1994年)でも使用された。



西海岸のサーフロック・バンド、シャンテイズの「パイプライン」(1963年)は
エレピとエレキによるghostly(幽霊のような、ほんやりした)サウンドが特徴。
(Pipelineとはオアフ島のノースショアにあるサーフポイントで、6~9m級の波の
きさや質が世界一とも称される)



↑クリックするとシャンテイズの「パイプライン」が聴けます。




↑ベンチャーズの「パイプライン」と聴き比べてみてください。



同じく西海岸からサーファリーズの「ワイプ・アウト」がヒット(1963年)。
(ちなみに原題のWipe Outはサーフィン用語で「波乗り中こけること」)



↑クリックするとサーファリーズの「ワイプ・アウト」が聴けます。





↑ベンチャーズの「ワイプ・アウト」と聴き比べてみてください。



シャンテイズもサーファリーズも西海岸のハイスクール・ガレージバンド。
演奏は良くも悪くもチープである。
2曲とも翌年ベンチャーズがカヴァー。実力の差は歴然で持って行かれてしまう。
今では完全に「ベンチャーズの代表曲の1つ」になっている


アストロノーツはRCAがサーフロックの波に乗って売り出したグループである。
リー・ヘイズルウッド作曲の「太陽の彼方に(Movin') 」が1963年にヒット。

深いリバーブをかけビンビン鳴るギターと駆り立てるドラムビートが特徴。
8小節からなるメロディを転調しながら延々と反復し続ける構成。
何も考えない人が踊るにはうってつけだった。翌年、日本でも発売されヒット。



↑クリックするとアストロノーツの「太陽の彼方に(Movin') 」が聴けます。



そんな中、ベンチャーズの実力と存在感は頭一つ抜けていた
上述のグループは消えていくが、ベンチャーズの人気は衰えなかった。


大西洋を挟んでイギリスではシャドウズがギター・インストの4ピース・バンド
としてベンチャーズと対峙する存在になっていた。
(この人たちはサーフロックとは呼ばれなかった)

ベンチャーズとかぶるカヴァー曲も多い。サウンドはクリーン+リバーブ。
(ギターはバーンズ、フェンダーのストラトキャスター。 アンプはVOX AC-30)





<ボーカル・サーフの登場>

ベンチャーズを筆頭とするインスト・バンドが人気を博す一方、ダイレクトに
サーフィンのことを歌うボーカル主体のグループも現れ人気を博した。
インストと同じくロックンロールを基調としながらもより明るく軽快で楽しい曲
感傷的なバラードが中心である。

1962年にはビーチボーイズがデビュー。
サーフィン、ホットロッド(改造車)、海、女の子、サウス・カリフォルニアを
題材にした(2)美しいコーラスワークで、次々ヒットを飛ばした。





ビーチボーイズもサウンド的にはフェンダーのギター、フェンダーのアンプの
リバーブを効かせたペケぺケ・サウンドで波の音を表現していた。
(もっともビーチボーイズはライブでは本人たちが演奏しているが、レコーディ
ングではレッキング・クルーが演奏したオケに歌だけ入れることが多かった)


先にデビューしていたジャン&ディーンも、ビーチボーイズに刺激を受けサーフ
ロック路線になる。(3)






<ベンチャーズがアメリカのロック・シーンで果たした役割>

ベンチャーズは1964年頃からレコーディングで実験的なサウンドを試みるよう
になり(次回、深掘りする予定)、アニマルズやビートルズ、サーチャーズ、
ゾンビーズといった英国勢のカヴァーなど、レパートリーを広げる。


1965年にはサーフロックという形容は後退し、ベンチャーズは幅広い曲をエレキ
インストにアレンジして演奏するバンドとして認識されるようになって行く。






ベンチャーズがアメリカのロック史の中で果たした重要な役割は、エレキギター
のみで編成されたインスト・バンドの草分けだったということである。
エレキギター2台、エレキベース、ドラムによる最小単位のコンボ編成で、それまで
の歌の添え物としての演奏ではなく、バンドの演奏自体を主役として聴かせた点が
斬新であった。

つまりベンチャーズは、エルヴィス、バディ・ホリー、エディ・コクラン、チャック
ベリーなど1950年代のロックンロールから1960年代の多様なロックへの橋渡し
的役割を担ったといえる。




<日本のベンチャーズ・ブームと音楽史に与えたインパクト>

1965年の2度の来日で日本に一大ムーヴメントを巻き起こしたベンチャーズ。


      

                            (1965年 週刊明星)


彼等が日本の音楽シーンに残した影響力は、いくら評価してもし過ぎることはない。
ベンチャーズが現れなかったら、日本の音楽の歴史は全く違うものになっていたろう。

今日この国でこれほどまでにロックが聴かれ、広く演奏されるようになった経緯は
ベンチャーズ抜きでは語ることが出来ない。

ロックに関する情報が少なく誰もがビギナーであった当時の日本において、ベンチャ
ーズはエレキギターへの大きなモチベーション、最高の入門テキストであった

       (山下 達郎「ザ・ヴェンチャーズ・フォーエヴァー」より引用および加筆)

渡辺香津美、鈴木茂、高中正義、Charも最初はベンチャーズと言っている。




          (「ザ・ベンチャーズ '66 スペシャル~愛すべき音の侵略者達」より)



<日本/アメリカにおけるベンチャーズの評価>

これだけ大きな足跡を残しているにもかかわらず、今の日本でベンチャーズに対する
音楽史的評価は必ずしも正当とはいえない

ブームがあまりにも凄まじかったため、ベチャーズがロック史上最も傑出したインス
トゥルメンタル・バンドの一つであるという認識がある時点から抜け落ちてしまった


当時、日本におけるべンチャーズ人気は、アメリカやイギリスでのそれをはるかに上回
る、熱狂的なものであった。

なぜ日本だけあれほどの大ブームを巻き起こしたのか?そして今も続く根強い全国的な
人気を保持し続けているのか?考えてみれば不思議だ。
要因はいくらでも挙げられるが、今だに決定打となる答えを探すことは難かしい。

       (山下 達郎「ザ・ヴェンチャーズ・フォーエヴァー」より引用および加筆)






ブームが日本だけの特殊なケースであったことから、ベンチャーズの日本での活動は
次第にアメリカ本土とは異なったものとなって行く

日本のマーケットを狙ったシングルやアルバムが発売されるようになり、日本全国を
回るツアーが毎年行われるようになる。
加山雄三ら日本の歌手のヒット曲のカヴァーや、「二人の銀座」「京都の恋」などの
オリジナル作品、いわゆるベンチャーズ歌謡が生まれた。







日本受けするアプローチが成功すればするほど、本来のアメリカのロック・バンドと
しての存在感は逆に低下して行った

アメリカにおいては、べンチャーズが一時期に人気があり、ロック史上重要な役割を
果たしたことは評価されてるものの、今もって人気があるとは言い難い。
日本の歌謡史の中でのべンチャーズの役割は語られるが、アメリカ・ロック史での
位置付けは未整理のまま現在に至っている。


これが災いして、日本においても間違った認識が生まれた。
ベンチャーズは1960年代当時の日本の未成熟な音楽シーンにうまくハマっただけで、
アメリカ本国では本当はたいしたバンドではない、という偏見。
さらに、毎年日本に出稼ぎに来る時代遅れの懐メロ・バンドみたいな捉え方だ。

       (山下 達郎「ザ・ヴェンチャーズ・フォーエヴァー」より引用および加筆)



夏だ!エレキだ!ベンチャーズ・・・ってこれじゃオッサンの夏祭りだ。



<サーフ・ロックは終わったか?>

1967年の6月モンタレー・ポップ・フェスティヴァルでジミ・ヘンドリックスがステー
ジで「サーフィン・ミュージックは終わった」と言ったことで、サーフロック=ダイナ
ソー・ロック(時代遅れのロック)のレッテルが貼られてしまう。





ジミの発言には理由があった。
当初メインアクトとして参加予定だったビーチボーイズが、フリー・コンサートに
なることが決定し、ギャラがもらえないこと、ヒッピーの集まりになりそうなことを
理由に出演を辞退した。
そのビーチボーイズを揶揄してのことだった。(4)




この発言はベンチャーズを指したものではないが、巻き添えを食って一緒くたにダイ
ソー・ロック視されてしまった感は否めない。

実際にこの頃サージェント・ペパーズを発表したビートルズ、ジミ・ヘンドリックス
やクリーム、翌年にデビューするツェッペリンと比べると、ベンチャーズのサウンド
はいささか時代遅れに聴こえてしまうのも事実だ。



しかしベンチャーズの影響はアメリカでも次世代にしっかり受け継がれていた。
1970年代後半に隆盛を極めたフュージョン、AORの名うてのミュージシャンたち
もベンチャーズがルーツだと公言している。

その中にはスティーヴ・ガット、ウィル・リー、デヴィッド・スピノザ、ジョン・
トロペイといったニューヨークの売れっ子のミュージシャンもいた。
後にハイパー・ベンチャーズというユニットでアルバムを発表している。(1992年)



↑クリックするとハイパー・ベンチャーズの「キャラバン」が聴けます。



<ベンチャーズは人々の記憶に生き残れるか?>

ベンチャーズ最盛期のメンバーが一人もいなくなり、リアルタイムでベンチャーズ
体験をした人たちが高齢者となっている昨今。
これからベンチャーズはどのように語り継がれて行くのだろうか。

若いミュージシャン、リスナーにもベンチャーズを聴いてもらいたいものだ。
パクるもよし。サンプリングに使うもよし。ビニール盤懐古趣味から入ってもいい。
きっと得るものがあるのではないかと思う。


<続く>


<脚注>

(1)映画「ビッグ・ウェンズデー」の挿入歌

リトル・エヴァ「ココモーション」、バレット・ストロング「マネー」、
シュレルズ「ママ・セッド」「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ」、リトル
・リチャード「マネー」、チェビー・チェッカー「ザ・ツイスト」、レイ・チャー
ルズ「ホワッド・アイ・セイ」など。
登場人物の服装や髪型を見ると時代考証が甘いように思えるし、製作スタッフの
好みで選曲された可能性も否定できない。
(ちなみに1962年カリフォルニア北部の田舎町を舞台とした映画「アメリカン・
グラフィティ」(1973年公開)ではビーチボーイズが2曲使用されているが、
ベンチャーズの曲はかからない。R&BとR&Rが中心であった)



(2)ビーチボーイズのサーフロック
ビーチボーイズは、メンバーの一人でドラム担当のデニス・ウィルソンが「サー
フィンをテーマにした音楽をやろう」と提案したことがきっかけだった。


(3)ジャン&ディーンとビーチボーイズ
ビーチボーイズとジャン&ディーンはお互いのレコーディングやライブに参加する、
など関係が深かった。コーラスワークもよく似ている。


(4)サーフ・ロックは終わった宣言とビーチボーイズ
これを機にビーチボーイズは「サマー・オブ・ラヴ」と呼ばれる新しい波からワイプ
アウトしてしまう。
(実際は1965年以降のビーチボーイズはサーフィンから脱却し、ビートルズに対抗す
べく実験的な作品作りがブライアン・ウィルソン主導で行われていたが、ライブでは
マイク・ラブ中心にお約束のサーフロックを歌い続けていた)



<参考資料:THE VENTURES BOOK ザ・ベンチャーズ 結成から現在まで 1995年、
山下 達郎:ザ・ヴェンチャーズ・フォーエヴァー、BS音盤夜話、朝日新聞デジタル、
映画で蘇るオールディーズ&プログラム・コレクション、素敵なミュージシャン達、
週刊明星、Chicken Skin Music、Wikipedia、YouTube、他>

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