2016年10月25日火曜日

三億円事件犯人考 「悪魔のようなあいつ」関連資料

<三億円事件の概要>

1968年12月10日、東京都府中市で現金輸送車に積まれた東芝従業員のボーナス
約3億円が偽の白バイ隊員に奪われた。

2016年の消費者物価指数は1968年の約3.5倍。(出典:日本銀行)
今の金額に換算すると10.5億円くらいに相当するだろうか。


1968年の大卒初任給が25,302円、国鉄初乗り運賃が30円、喫茶店のコーヒー代
が80円(出典:昭和の物価)という点を考えると5倍〜7倍に相当しそうだ。
とにかく当時は庶民の生活から想像もできなような額であった。

一方1965年には原宿に最高で1億円を超える、いわゆる億ション第1号のコープ
オリンピアが分譲されており、富裕層には3億円は現実的だったかもしれない。






捜査に当たった警察官は延べ17万人、捜査費用は7年間で9億円以上と警察の威
信をかけた空前の大捜査であったが、1975年12月10日時効が成立し(民事は
1988年)歴史的な未解決事件となった。

捜査線上に上がった容疑者リストは11万人と言われる。
しかし真犯人にはたどり着くことができなかった。




見つかるわけがない。彼は死んでいたのだから。




<早い段階でマークされていた少年S>

事件の5日後、一人の少年が国分寺市の自宅で死んだ。
青酸カリを飲んで自殺したとされているが死因には不審な点がある。


警視庁は事件直後、当時19歳だった少年Sを容疑者としてマークしていた。

Sは多摩地区で窃盗や暴行を繰り返す「立川グループ」という50〜60人の不良
少年の集団(1)のリーダー格であった。
運転技術に長けメカにも精通。車やバイク窃盗の常習者であった。




三億円事件の犯行に使われた車やバイクはすべて盗難車である。
いずれも三角窓を壊してエンジンとスターターを直結する手口だったが、それ
は立川グループの常套手段だった。

発炎筒をダイナマイトと見せかけた強盗も立川グループの手口だ。
三億円事件の半年前、立川のスーパーいなげやがこの方法で襲撃された。(2)








Sの父親は府中管内の第八方面交通機動隊に勤務(3)していた。
警官の制服も白バイもSは見慣れていたと思われる。

白バイは青いバイクを塗装したものだった。
警官の制服は本物か偽物か?入手経路も不明のままだった。

捜査本部は映画関係者を疑い、犯行現場から近い調布の日活撮影所と大映撮影
所、砧の東宝撮影所の美術、衣装、スタントマンの取り調べを行った。


★「悪魔のようなあいつ」では犯人の可門良(沢田研二)が映画のエキストラ
で警官の制服を手に入れたことになっているが、これは長谷川和彦が取り調べ
を受けた現場スタッフから得た情報を脚本に盛り込んだものだ。



現金輸送車に乗っていた4人は「白バイが右から追い越し前に出て、警官が半
身で振り向いて左手で制止するよう合図した」と証言している。
これはかなり運転技術がないとできないことだが、同時に犯人が白バイ警官の
動作をよく知っていたことも伺える。

また犯人が現金輸送車を乗り捨てた国分寺史跡は警邏パトカーの休憩所である
が、犯行直後の9時半頃は誰も来ないことまで犯人は把握していたと思われる。





Sの自宅は国分寺市恋ケ窪。

三億円が入っていたジュラルミンケースが発見された時に付着していた土が、
恋ケ窪の土質と同じであったことが後に判明した。
偽装白バイのメガホンには紙片が付着していたが、それは塗装時に使用した産
経新聞で三多摩地区で配布されたものだった。

Sが中退した明星学苑高校は府中刑務所のすぐ隣。
つまりSは土地勘があり犯行現場付近を知り尽くしていたわけだ。


Sは母校の明星学苑の教職員給与を運ぶ三菱銀行の現金輸送車を襲う計画を立
てその後、標的は立川バス職員の給与に変更された。

事件三か月前Sは仲間に「でかいことをやりたい」「東芝か日立の現金輸送車
を襲えば金になる」と話している。
東芝の総務のコピー係は少年たちの仲間でSはそこから情報を得ていた。







<少年Sの不可解な死>

Sは三億円事件の3か月前に青梅のボーリング場での恐喝事件(国立市内の飲食
店での暴行事件という記載もある)で逮捕され、練馬鑑別所から荒川の保護施
設に移送中に脱走。
行方不明となっていたが、実は国分寺市恋ケ窪の自宅に戻っていた。

三億円事件の2日後から捜査員がS自宅の裏で張り込んでいた。
事件の5日後、立川署の刑事二人が恐喝容疑の逮捕状を持ってS宅を訪問。
母親はSは家にはいないと答え、刑事たちは出頭を促し帰った。
二階から音楽が聴こえた。Sは自室でこのやりとりを聞いていたはずだ。


刑事たちが帰った後、母親が激しくSを叱責。
帰宅後の父親がSと怒鳴り合うのを張り込みの捜査員たちは聞いた。
捜査員たちはその日は一旦引き上げることにした。(4)

しかし夜11時過ぎに119番通報があり、10分後に北多摩中央消防署(現在の国
分寺消防署)の救急車が駆け付け、危篤状態のSを桜堤診療所に搬送。
母親は半狂乱で泣いていたが父親は押し黙ったままで異様な雰囲気だった、
と救急隊員が証言している。
桜堤診療所で「急性青酸カリ中毒」によるSの死亡を確認した。





死因の青酸カリはイタチを退治するため知人からもらい、父親が天井裏に隠
しておいたものだった。
包装紙から父親の指紋が検出されたが自殺したS本人の分はなかった。
Sの部屋にあった2個のコップの1つから青酸反応があった。


不審点が多いものの、警察は自殺と断定。本当にそうだろうか?
札付きのワルが親に諭されたくらいで反省して毒をあおったりするだろうか?
仮にそうだとしても自殺幇助になるのではないか?

Sの仲間たちは「あいつは自殺するようなタマじゃないよ」と語っている。



Sは妹に宛てて遺書とも取れる手紙を残していた。
「死ぬというのは美しい。この世は醜悪だ。父も母も世間体ばかりを考え、
虚栄心だけで生きている」という文面で、「おまえは強く生きてください」
と書いてあった。


★「死ぬのは美しい」というのは「悪魔のようなあいつ」の漫画を手がけた
上村一夫の世界観に通じるような気がする。
ドラマでも同じだが犯人の可門良(沢田研二)は末期の脳腫瘍に侵され、
に死を意識していた。




<モンタージュ写真の真相>

犯人の顔を見た日本信託銀行員4人が監察医に変装しSの通夜に行き、家族
に悟られないようSの遺体の面通しを行い「酷似している」と証言した。


あまりにも有名なモンタージュ写真。実はモンタージュではない。
Sに非常によく似た実在の人物の写真に手を加えたものだった。
その人物とはブロック工事請負の現場で仕事中に事故死したI氏だった。
I氏は微罪で逮捕拘留されたことがあり、その時の写真が流用されたのだ。

目撃証言からSの線が有力であったが未成年のS本人の写真を使えない。
一からモンタージュ写真を作る時間もなく、Sに酷似した人物の写真を拝借
したのだった。
モンタージュ写真は事件発生の11日後、12月21日に公表された。






<犯行時間の少年Sの謎〜共犯者の可能性>

父親は「あれは事件と関係ない」と断言した。
母親は三億円事件の犯行時間にSは「自宅でテレビを見ていた」と証言した。

一方、新宿のスナック白十字の店主でゲイのKは「Sは事件日2〜3日前から事
件前日に自分の新宿のマンションで一緒に夜を過ごした」と証言。(5)
母親の「自宅でテレビを見ていた」という証言と食い違う。



立川グループの仲間は12月3日~6日までSが一緒に遊んでたと語っている。
しかし事件が起こった12月10日と前日の9日だけSの足取りはつかめていない。

事件翌日の11日、Sは福生のバー「あんず」で豚足を食べながら「親に金を出
してもらってスナックをやる、母親名義で。20歳まで逃げるだけ逃げてその後
自首して刑事処分を受けて執行猶予で出る」と仲間に話した。
この自首というのは三億円事件のことではなく、それまでの犯行に対してだと
思うが、Sなりに大仕事の後のことを考えていたのではないか。



Sのアリバイを証言した新宿のゲイKは、事件1年後に店を閉め麻布と新宿の
高級マンションを購入し、事件7年後には福島の実家に豪邸を建てた。
その後はハワイ・オアフ島のワイキキにコンドミニアムを購入し移住していた
ことが確認されているが、現在は消息が分からない。

Sが実行犯でKが共犯だったのではないか?と捜査本部では疑っていた。



★「悪魔のようなあいつ」では犯人の可門良(沢田研二)とクラブを経営す
るゲイの野々村(藤竜也)の関係が描かれている。
犯人とゲイとの関係はたまたまの偶然だろうか?
それとも長谷川和彦が入手した捜査情報(SとKの関係)だったのか?


また福生のバー「あんず」のマスターFは立川グループの兄貴分だったが、事
件後に金回りが良くなりマニラに移住した。
当時主任警部であった鈴木公一はSとFが犯人だったと見ている。






<少年Sをシロと断定した捜査本部の迷走>

捜査開始半年後、最後の切り札として「吉展ちゃん誘拐事件」など数々の難事
件を解決した昭和の名刑事、平塚八兵衛が捜査本部に投入され指揮をとる。
八兵衛はまず少年Sをもう一度洗い直すことから始めたが、その結果「Sはシロ
」と断定し、結果的に捜査範囲を狭くしてしまった。


八兵衛がSをシロとした根拠は単独犯説にこだわったからである。
・多摩農協脅迫事件の脅迫状の投函日8月25日にSは練馬の鑑別所にいた。
・脅迫状の筆跡もSの物とは異なる。
・Sの血液型はA型。脅迫状の切手から採取した唾液のB型で異なっていた。


しかしもしKが共犯であれば、Sが鑑別所にいる間に脅迫書を出すことができる
30代の男に関する目撃証言や電話の声の証言、盗難車に残されていた女性物の
イヤリングにもつながる。



八兵衛は「1人でやったからこそ周到に用意ができた。複数犯なら必ずボロが
出てくる」と単独犯説にこだわり、「これだけの大仕事を十代の若者にできる
わけがない」とS犯行説を一蹴し捜査線状から外した。

自殺に不審な点が多く犯行時間のアリバイ証言も食い違うのに。
父親の言葉を鵜呑みし、Kについても突っ込んだ取り調べはしなかった。
捜査の鬼と異名をとる八兵衛も身内には甘かったのか。


★「悪魔のようなあいつ」では白戸刑事(若山富三郎)が「犯人と脅迫状を書
いた人物は違う」と複数犯説を採っている。
またゲイの野々村(藤竜也)が犯人の可門良(沢田研二)の後ろ盾であること
も見抜いていた。






また八兵衛はSに酷似しているモンタージュ写真を否定した。
「雨の降る中、警官のヘルメットをかぶった犯人を車の中から見た印象など当
てにならない」という主張だった。(それは一理ある)

Sの面通しについても「目をつぶった遺体では判断できない、銀行員4人は同室
で他の意見に引きずられやすい雰囲気の中で証言させられている、三億円を盗
られた後で何か役に立たなければというプレッシャーもかかる」と言った。
(それも一理ある)


★この点は「悪魔のようなあいつ」の白戸刑事(若山富三郎)も「モンタージ
ュ写真が捜査を混乱せせた」と平塚八兵衛と同じ考え方を示している。
犯人役の沢田研二とモンタージュ写真が似ても似つかぬこともあるが(笑)



以降、捜査本部内でSの名を出すことはタブーとなった。
しかし時効直前でもS犯行説を信じる捜査員、幹部は多かった。(6)
もしSが真犯人なら、警察は既に死んでいる犯人を7年間追っていたことになる。
もしKやFを共犯容疑で追い詰めれば、真相が分かっていたのかもしれないのに。


一方7年間の捜査はまるっきり無駄だったわけではなく別な成果を挙げていた。
犯人捜査のローラー作戦によって、中央線沿線に多かった学生運動のアジトを
一掃がすることができたのだ。






<三億円事件を扱った作品>

三億円事件はその後、何度もテレビドラマや映画で作品化されている。
近年のドラマでは以下の作品が記憶に新しい。

「三億円事件〜20世紀最後の謎〜」(2000)主演:ビートたけし、長瀬智也
「刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史」(2009)主演:渡辺謙
「クロコーチ」(2013)主演:長瀬智也、剛力彩芽
「松本清張ドラマスペシャル 三億円事件」(2014)主演:田村正和
「モンタージュ 三億円事件奇譚」(2016)主演:福士蒼汰(原作はコミック)

また犯人は女子高生だったというユニークな設定の映画「初恋」(2006年公開 
、主演:宮﨑あおい、小出恵介)も計画犯は国家権力側の息子であった、新宿
のスナックが溜り場になっていた、など興味深かった。



★「悪魔のようなあいつ」はこうした三億円事件作品の先駆けであり、1975年
当時としてはなかなかいい所を突いていたと思う。
犯行に至るまでの経緯、犯行の描写、盗んだ三億円の処理など初めて見る再現
映像は今見てもリアリティがある。


<脚注>


(1)立川グループ
「立川グループ」という名前の明確な団体があったわけではない。
当時、警察は多摩地区の不良少年たちのリストを作り、グループごとに拠点と
なる地名がつけられていた。
立川グループもその一つであるが、組織だったものではなく50〜60人の中から
必要に応じて何人かが集まって犯行に及ぶというコミュニティだったようだ。
Sは立川グループにおいてリーダー格で犯行を企てその都度、人を集めていた。


(2)立川スーパーいなげや襲撃事件
1968年3月3日、客を装った若い男がダイナマイトに見せかけた発煙筒で店員を
威嚇し、従業員が怯んだ隙に12万円(現在の価値で80万円ほど)を奪った。
犯人は立川グループの一員。Sはこの犯行に加担していない。
金回りがよくなっていた。


(3)交通機動隊に勤務していたSの父親
Sの度重なる犯行のため出世コースから外されたらしい。
三億円事件の後もSの父親は勤務し続け、定年退職まで勤め上げた。
辛い立場で会ったと思うが、辞めないことこそ息子が犯人でないことの証明と
いう信念だったのではないだろうか。


(4)12月15日のSと両親
事件直後、立川署の刑事二人が父親が非番の日にSの自宅を訪れた。
父親は「会わせる理由はない。帰ってもらいたい」と刑事たちを帰した。
事件5日後、15日の昼過ぎに立川署の刑事たちはが青梅での恐喝容疑の逮捕状
を手にSの自宅を再度訪問し母親に会う。
「息子はここにはおりません。どこに出かけたのかも分かりません」 と母親
に居留守を使われた。
二階の部屋からはレコードの音が聴こえSがいることは間違いなかった。
刑事たちは「では明日、必ず出頭させてください」と言って帰る。

刑事たちが帰った後、母親がSを激しく叱る声を張り込みの捜査員たちは聞く。 
「このままでは破滅するしかない。もう破滅だ。一家心中しよう」 と。
夜7時過ぎ、父親が帰宅した後にSと父親が怒鳴り合う声が近所に響いた。 
「おれは明日、立川署に出頭する事になった。これでしばらくは家に帰れなく
なるから、最後に遊びに出してくれよ」 と言うS。
父親は「今、家の外で刑事が張り込んでいるんだ。おまえが捕まったら近所中
の笑い者になってしまうだけではなく、警察全体が白眼視されるんだ。これ
以上、親に恥をかかすな」と怒鳴った。

Sが在宅であることを確認した張り込みの捜査員たちは捜査本部に帰った。


(5)新宿のゲイのSアリバイ証言
Sは事件日2〜3日前から事件前日に自宅の新宿のマンションで一緒に夜を過ごし、
明るくなった朝8時頃に自宅を出るのを見送ったと証言した。
ただし朝8時というのは時計を見ていたわけでなく、冬の外の明るさでの判断で、
雨が降っていたが傘やレインコートを貸した記憶がないなど、曖昧な点があった。
またKの証言では初めてSと会ったのは事件の20日前となっているが、夏に一緒
に旅行に行った時に撮影したSの写真を飾っていたことなど不可解な点がある。
資料によってはSはゲイバーの経営者で、11月上旬に新宿の24時間営業の喫茶店
シローでSと出会いそれ以来、何度か家に泊めてあげた、と記されている。


(6)時効直前でのS犯行説再浮上
時効まで残りわずか5ヶ月となった1975年7月、Sの周辺人物の再捜査をせよとい
う特別命令が下った。既に平塚は引退していた。
★ちょうど「悪魔のようなあいつ」が放映されていた頃である。

立川グループでSと親しかったZ(事件当時18歳)が急に金回りが良くなったと
いうことが分かった。

Zの家は貧しかった。父親は入院中。
無職のAはスナックを経営していた母親に金の無心をしていたという。
ところが事件翌年の1969年になるとZは喫茶店を開業し、不動産会社も設立。
1970年には六本木に事務所を構えて株の仕手戦に参加、家賃が当時で10万円以上
の代々木の家具付きマンションに住まい。ムスタング、コルベットなど高級外車
を乗り回し、ハワイに高級別荘まで所有していた。

時効まで残り25日に迫った11月15日に捜査本部は最後の大勝負をかけた。
Zを別件の恐喝容疑で逮捕したのだ。
金の出所を追及したところZは自傷行為を繰り返し取調べは打ち切られた。

※警察は事件発生1年後の1969年12月にモンタージュ写真に酷似していた府中市
在住の運転手Aを逮捕した。が、彼にはアリバイがあり誤認逮捕であった。
その際、新聞各社が本名、顔写真、学歴、職歴、性格、家庭環境まで暴露。
このためAは職を失い一家は離散。世間の偏見と執拗なマスコミ関係者に悩まされ
職を転々とした。(Aは2008年9月に自殺て入る)
「人権忘れた強制捜査」と揶揄された経験から、警察もZの取り調べに対しては
慎重にならざるをえなかった。

Zの血液型がAB型であり脅迫状の切手のB型とは異なる、筆跡も異なる点からシロ
と判断され釈放されたが、これも複数犯なら意味のないことであったはずだ。


<参考資料:「別冊宝島 20世紀最大の謎 三億円事件」「戦後史開封 昭和40
年代編」「三億円事件45年目の新証言!最後の告白」(フジテレビ)、「三億円
事件」一橋文哉、「三億円事件の謎」三好徹、週刊文春、週刊新調、Wikipedia他>

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