2020年9月28日月曜日

フェンスの向こうはアメリカ。本牧とゴールデンカップス(3)



本牧ゴールデンカップ専属バンド、平尾時宗とグループ・アンド・アイ
横浜で評判になる。

すごいバンドがいるという噂は東京にまで広まった
多くの音楽業界関係者が見に来て、彼らの虜になった。




同じ横浜出身のジョー山中はカップスを見て衝撃を受けたそうだ。
スパイダーズのメンバーたちと一緒に見に来たかまやつひろしは、
カップスの演奏を見て「俺たちは終わった」とつぶやいたという。


ミュージックライフの水上はるこ編集長はカップスの取材に力を入れる。
彼らがポール・バターフィールド・ブルースバンドのWalkin' Blues
(ロバート・ジョンソンの曲)をカヴァーしているのに驚いたそうだ。

まだ輸入盤しか入手できず、日本では知るひとぞ知るバンドだった。
水上氏は「カップスは日本で洋楽ロックを広めてくれた」と語る。


バターフィールド・ブルースバンドではマイク・ブルームフィールド
というブルース・ギターの一人者(1)が弾いている。
エディ藩はブルームフィールドのブルースギターを研究したはずだ。

実はカップスにポール・バターフィールド・ブルースバンドを教えたの
は前ミュージックライフ編集長の星加ルミ子氏だったそうだ。
彼女もまたカップスのファンで親交を深めていた。





活動開始から1週間後、メジャー・デビューにつながる出来事があった。
ゴールデンカップに来店していたカミナリ族(当時の暴走族)ナポレオン
を取材していたTBS撮影スタッフはカップスの演奏に惹きつけられる。

ナポレオン党はマリンタワー下のハンバーガーショップ、ワトソン(店名
Dog House)に夕刻集結し、外車を乗り回しながら山下のグレープハウス、
中華街、本牧ゴールデンカップ、イタリアンガーデンを遊び場としてた。
比較的、裕福な不良が多かったと思われる。服装もオシャレだ。
鎌倉の朝比奈峠、第三京浜のタイムトライアルを楽しんでいたらしい。

↑雑誌BRUTUSに掲載されたナポレオン党の記事。


彼らと親しいクレオパトラ党(2)という女性の遊び人グループもあった。
キャシー中島(記事の写真に映っている)、山口小夜子も在籍していた。
彼女たちもまた本牧ゴールデンカップやリンディで踊り明かしていた。


↑こういうマブイ(死語)おネエさんたちが踊ってたわけです。



TBS撮影スタッフの目に止まったのがきっかけで「ヤング720」に初出演
その反響は大きかった。
黛ジュンが東芝音楽工業の関係者を連れて(鈴木邦彦を伴ってという説も
ある)ゴールデンカップを訪れた。
黛ジュンは彼らの演奏を気に入り、東芝音楽工業に契約を薦めた

スパイダーズの田邊昭知もスカウトしたが、既に黛ジュンと東芝が動い
ていることを知り断念した。


デビューに際して、平尾時宗とグループ・アンド・アイというバンド名
が分かりにくい、とゴールデンカップスに改められた
また東芝音楽工業が「全員ハーフ」というふれ込みで売るため、メンバー
のニックネームもこの時つけられた






こうして1967年6月「いとしのジザベル」でレコードデビューを果たす。
作詞はなかにし礼、作曲は鈴木邦彦。
英語でしか歌ってこなかったデイヴ平尾は日本語での歌い方がわからず、
坂本九の歌唱法を参考にしたという。


東芝音楽工業は3rd.シングル(1968年4月)で売れ筋を狙う。
「長い髪の少女」はさらに哀愁ある歌謡曲に仕上がった。

作曲の鈴木邦彦はマモル・マヌーの甘い声の方が曲に向いていると判断
デイヴ平尾は「どうぞ」の部分だけ歌うことになった。




この曲のヒットでカップスは全国区のGSとして名が売れるようになる。
「長い髪の少女」はゴールデンカップスの代表曲となった。
新宿ACBにも出演し、全国でコンサートを行うようになる。

しかし歌謡曲路線も、GSと見られることも彼らは望んでなかった
地元のファンもヒットを祝う一方で、こんなのカップスじゃないよね、
と思ってたようだ。


メンバーたちはライブでは作家から提供された曲はほとんど演奏せず、
自分たちのやりたい洋楽のカヴァーを中心に演奏した。




↑1968年テレビ出演で演奏した「I'm So Glad」(3)が視聴できます。
スポンサーの「大学ミオピン目薬
」のテロップが時代を感じる
ゴーゴーガールたちはクレオパトラ党と比べるとイモだなあ。
ズームで画面を揺らす演出、当時はこれがナウ(死語)だったのか?




小学生だった矢野顕子はカップスの追っかけで新宿ACBに見に行った。
態度の悪さが好きだったという。
子供心に「長い髪の少女」を聴いた時はなんか違う〜と思ったそうだ。


チャーは豊島園など遊園地で行われるカップスのショーを見に行った。
当時は小学生で親の同伴がないとジャズ喫茶やクラブには入れない。
後にチャーはカップスがクリームのI'm So Gladやツェッペリンの
Communication Breakdownをカヴァーしてるのに驚いたそうだ。

チャーはカップスをヤバイ先輩たちと評し、カップスのメンバーも彼を
チャー坊と可愛がった。

カップス解散後、渡米していたルイズルイス加部をチャーは熱心に口説き、
ジョニールイス&チャー(後にピンク・クラウドに改名)を結成。(4)



16歳でカップスのボーヤ(ローディー)に志願した土屋昌巳は、レコード
で聴くツェッペリンのCommunication Breakdownよりカップスが目の
前で演奏する同曲の方がリアリティーがあった、と言ってる。




クリックするとカップスのCommunication Break Downが聴けます。
(1969年10月 東京渋谷公会堂でのライブ)



故・忌野清志郎も日本一好きなバンドと評していた。

同じGS界の人気グループ、テンプターズ(5)で活躍していた故・萩原健一
は自由奔放に活動しているカップスをうらやましく思っていたそうだ。



ゴールデンカップスは奔放で自由。不良のままだった。
芸能界の決まり事とか制約なんて、俺たちの知ったことか!と。




それゆえ、ありえないような武勇伝や素っ頓狂なエピソードも多い。



ステージでの態度が悪い。ふてぶてしい。笑顔も愛想もない。
歌謡曲の世界では当然のファン・サービスへの反骨心を見せていた。
これはハマっ子気質もあるのだろう。東京に媚びるのは嫌という。

ルイズルイス加部にいたってはアンプに腰掛けて弾いたり、アンプに
もたれかかって、かったるそうに弾いてた。




◆当時GSはミリタリールック(6)、王子様キャラのフリフリ袖の制服、
もしくはスーツがお約束だった。
カップスはステージはもちろん、テレビ出演時も揃いの衣装ではなく、
めいめいが好きな服を着ていた。



◆とにかく集まらない。ちゃんと来ない。
誰かメンバーが欠けたまま、演奏するのは日常茶飯事だった。


◆ボーカルのデイヴ平尾とドラムスのマモル・マヌーしか集まらず、
2人だけでステージに上がったこともあった。
さすがにバカバカしくなったデイヴが帰ろうとすると、ステージの袖
でマネージャーが泣きそうな顔で両手を合わせてお願いしてる。
人のいいデイヴは仕方なくステージに戻りまた歌い出す。




◆時間になってもメンバー全員が会場に現れないこともあった。
「ゴールデンカップスのみなさんはXXXXにお集まりください」と
アナウンスを流すと、女性ファンがキャーとそこに押し寄せ大混乱。


◆当時、月刊明星の正月号では若手歌手の集合写真のグラビアが
恒例になっていた。女性は振袖、GSは揃いの制服。

下の写真を見て欲しい。
カップスだけが全員、普段服で寝起きみたいな顔をしている。
マネージャーがメンバー全員の家を回って叩き起こして車に乗せ、
やっと撮影に間に合いました、というのがバレバレだ。





GS界の異端児、反逆児であったカップスだが、そもそもGSという
カテゴリーで捉えるべきではないかもしれない。

僕もカップスの代表曲といえば「長い髪の少女」を思い浮かべる。
でも好きじゃない。「本牧ブルース」の方がましかな。
この人たちが他のGSのような歌謡曲を歌ってもあまり面白くない。


カップスはGSではなく日本初のロック・バンドだったと思う。
日本人がまだ知らない洋楽ロック、白人ブルースを聴かせてくれる
本格的なライヴ・バンドだった。
それは本牧が最もアメリカに近かったことが影響しているだろう。




ゴールデンカップスを聴いてみようかな?と思う方へ。

ベスト盤はやめた方がいい。
聴くなら、ライヴ盤を聴くべし!

なぜなら、
1)カップスのパワフルな演奏はライヴでしか味わえない。
2)ライヴでは彼らの本領である洋楽ロックが聴ける。
3)カップス全盛期のステージの熱気が伝わるから。



カップスは3枚のライヴ盤を残している。
いずれも廃盤なので中古を探すか、MP3ダウンロードするしかない。

個人的には最初に挙げるスーパー・ライヴ・セッションがお薦め。
オリジナル・メンバーによるカヴァー曲が堪能できる。



スーパー・ライヴ・セッション(1969年4月 横浜ゼンでの実況盤)
最後のZen Bluesはケネス伊東がボーカルをとるオリジナル曲。
この曲だけ陳信輝がギター、柳ジョージがベースで参加。
それ以外はオリジナル・メンバーによる洋楽のカヴァー。
クリーム、バターフィールドBBなど、白人ブルースの選曲中心。
ミッキー吉野のハモンド・オルガンも聴きどころの一つ。



クリックすると収録曲のBorn Under The Bad Sign(8)が聴けます。
ちなみにジャケットのサイケなイラストはルイズルイス加部が描いた



ゴールデン・カップス・リサイタル (1969年10月 東京渋谷公会堂)
A面はシングルの歌謡曲中心。ダン池田&ニューブリードが入っている。
B面はクリーム、ツェッペリン、ザ・バンド、ベックなどのカヴァー。
エディ藩とケネス伊東が脱退。ルイズルイス加部がギターに転向。
林恵文がベースで参加している。
藩のブルース色が薄れ、加部好みのブリティッシュ・ロック寄り。
一方でザ・バンドのThe Weight(9)もカヴァーしている。



↑クリックすると収録曲のThe Weightが聴けます。



ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス(1971年10月発売)
カップス最後のメンバー構成によるラストアルバム。
ミッキー吉野脱退後、ジョン山崎がエレクトリック・ピアノで参加。
エディ藩が復活。マモル・マヌーの後任でアイ高野がドラムス。
ルイズルイス加部が脱退。柳ジョージがベースで参加。
R&B色は払拭され、アメリカン・ロック中心のカヴァーが多い。
かと思うとナンタケット・スレイライドなんてやってるし。
内容はいまいちかな。オリジナル・メンバーじゃない時点で残念。





今回の記事を書くために「ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム」
という2004年の映画をざっと見直してみた。既に16年も経っている。
この映画ではデイヴ平尾、マモル・マヌー、ルイズルイス加部、後から
参加した柳ジョージ、アイ高野もまだ健在である。

インタビューを受けているショーケン、裕也さん、かまやつさん、
井上堯之、清志郎も既に故人となっている。





米軍ハウスはなくなり、本牧はアメリカに近い街ではなくなった
バブル期にできたマイカル本牧(10)も今では廃墟と化している。



2005年に久しぶりで元町と中華街に行ってみた。
行きつけの寿園で牛バラ蕎麦とピータンに舌鼓を打ったのだが、
その翌年に鴻昌が閉店したとことは知らなかった。
若者向け新業態の店が増え、老舗は苦戦を強いられてたらしい。




エディ藩は自ら肉切り包丁を握り、レジも自分でやり、暇な時は店内
で新聞を読んでいたそうである。
カップスのメンバーが集まりOB会をやることもあったようだ。

店を畳んだエディ藩は、残りの人生を音楽にと活動を再開。
昨年秋に予定していたライヴは心臓疾患で入院のため中止したらしい。



オリジナルメンバーで残ってるのはエディ藩、一人だけになってしまった。
そして後から加入したミッキー吉野。
しかし伝説のバンドは語り継がれて行くだろう。




<脚注>

(1)マイク・ブルームフィールド

1960年代アメリカのブルースロックを代表するギタリストの一人。
バターフィールド・ブルース・バンドに加入してリード・ギターを担当。
1965年にはディランの「追憶のハイウェイ 61」のレコーディングに参加。


(2)クレオパトラ党
深夜のゲーセン(今と違ってピンボール・マシンーンなどがあった)で
知り合って仲良くなった女性の不良グループ。
ナポレオン党と親しく、山下や本牧を拠点に遊んでいた。
1980年代の特攻服を着たレデイースとは違う。
ファッションやダンスに命をかけ、酒とケンカはOK、煙草とセックスNG、
とけっこうストイックなルールが設けられていた。


(3)I'm So Glad 
オリジナルはスキップ・ジョーンズ。
カップスはクリームの演奏を参考にしたと思われる。


(4)ジョニールイス&チャー(後にピンク・クラウドに改名)
1978年元イエローのジョニー吉長、元ゴールデンカップスのルイズルイス
加部、Charの3人が集まりバンド結成。




翌年、日比谷野外音楽堂で1万4千人を動員したフリー・コンサートを開催。
1980年大阪吹田の万博公園で開催されたロックフェスティバルに出演。
この時、仕事で行ってた僕はステージ後方で彼らの演奏を見せてもらった。
BB&Aのような迫力。日本最強のロックバンドだと思った。

1982年バンド名をピンククラウドに改名。1994年活動停止。
ジョニー吉長は2012年に、ルイズルイス加部は2020年9月に他界。


(5)テンプターズ
カップスが本牧のゴールデンカップで演奏していた頃、テンプターズは
山下町のゼブラクラブで演奏していた。
米軍関係者向けのクラブで、日本人は従業員とバンドしか入れなかった。



(6)GSのミリタリールック
たぶん1967年発売ビートルズのサージェント・ペパーズの影響だろう。


(7)揃いの衣装ではなく、めいめいが好きな服を着ていた。
GSで制服を着てなかったのはカップスとモップスだけだった。
どちらもGS界では骨太のブルースロック志向のフループである。
モップスは見た目が女子受けしない(笑)、服に金をかけられない、
という事務所とレコード会社の判断だった。(故・鈴木ヒロミツ談)




(8)Born Under The Bad Sign
ブッカー・T・ジョーンズとウィリアム・ベルによるブルース。
アルバート・キング、ジミ・ヘンドリックス、ポール・バターフィールド、
クリームなど多くのアーティストにカヴァーされてる。
カップスはクリームの演奏(邦題:悪い星の下に)を参考にしている。
人生がこれ以上最悪になることなんかない!という心の叫びだ。


(9)ザ・バンドのThe Weight
ザ・バンドが1968年に発表した彼らの代表曲の一つ。
作詞作曲はロビー・ロバートソン。スワンプ・ロックの典型である。
翌年、映画「イージー・ライダー」に使用された。
はっぴいえんどより先にカップスがザ・バンドを取り上げていたのだ。


(10)マイカル本牧
本牧の米軍接収地は1982年3月をもって返還された。
その後もアメリカンハウスの跡地は残っていたが、1989年4月に
マイカル本牧がオープンした。バブル景気の始まった頃だ。
バブル崩壊、1993年にランドマークタワーなど、みなとみらいに
に客を奪われたこと、みなとみらい線の本牧延伸が遅れたことから、
マイカルは衰退し2011年に閉鎖され、廃墟と化した。


<参考資料:ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム、BARKS、
本牧グラフィティ、総合文学ウェブ情報誌 文学金魚、TAP the POP、
goldencups.com、横浜の渋い空間散策日記、Wikipedia、YouTube、他>

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私はやっぱりダイナマイツが1番だとおもうけどな。

イエロードッグ さんのコメント...

「トンネル天国」がヒットしましたね。
一括りでGSにされてますが、ワイルドな音が出せるバンドでした。
ザ・フーやキンクスの影響を受けてたのかな。