2020年9月22日火曜日

フェンスの向こうはアメリカ。本牧とゴールデンカップス(2)




平尾時宗とグループ・アンド・アイとしてゴールデンカップの専属バンド
となった彼らだが、最初は寄せ集めだった。



<オリジナル・メンバー>

◆リーダーのデイヴ平尾の実家は外国航路船員専門のクリーニング店だった。
姉の影響で音楽に親しみ、バンドを組むようになったという。
この時代にアメリカ放浪の旅に出て音楽の見聞を広める、というのは経済的
に恵まれていたのではないかと思う。
R&Bなど生のアメリカの音楽に触れたことは平尾にとって大きな成果だった。




渡米中にコンサート会場(1)でエディ藩と再会し、帰国したら一緒にバンドを
やろう、と約束する。
1966年のバンド結成から1972年の解散まで在籍した唯一のメンバー
トキちゃんの愛称で親しまれ、歴代のわがままメンバーをまとめあげた。
2008年63歳で他界。



エディ藩は横浜中華街の名店「鴻昌」の後継息子。華僑である。
インターナショナル・スクールから関東学院中学・高校・大学に進学。
(余談だが、関東学院は寺内タケシ、エディ藩、ダウンタウンの和田静男、
キャロルの内海利勝と優れたギタリストの出身校である)


関東学院大在学中、本場のR&Bに触れギターの腕を磨くため、新しい楽器
を買うために渡米。
父親とは「帰ったら音楽を辞めて料理人になる」という約束であった。
初期カップスで弾いているテレキャスターはアメリカで購入したのだろう。




GS全盛期に日本でブルース・ギターが弾けたのはモップスの星勝とカップス
のエディ藩だけだった、と言われ音楽業界での評価も高い。



ケネス伊東(愛称:ブッチ)は日系アメリカ人二世。父親は PXの高官。
そのため米国のレコードを入手でき、本場のR&Bやロックに精通してた。
初期カップスの音楽性を方向づけるのに重要な役割を果たしていた
カップスがカヴァーする渋い曲は彼が選んだものが多かったらしい。

裕福だったのだろう。結成時からモズライトやギブソンSGを使用している。
エフェクターも早くから使用。彼のリズムギターはエッジが効いていた。
ヴォーカルも取れる。英語が母国語だということも大きな強みだった。




ケネス伊東は他のメンバーとは違い、白人感覚でR&Bを解釈していた。
11歳までハワイで育たったため、根はアメリカ人だったのだろう。
メンバー間で喧嘩になると、Remember Pearl Harbor になるらしい。

1968年にビザの問題で一時帰国。
再び来日しカップスに復帰するが、1969年秋に兵役のために脱退。
日本で就労ビザ取得を目指すが叶わずハワイに永住。1997年51歳で他界。



マモル・マヌーは葉山・逗子界隈の不良仲間では知らない者はいないという、
あんなワルは他に見たことがない、と言われる根っからのワルだったらしい。
叔母が米軍人と結婚していたため、幼い頃から米軍キャンプに出入りしていた。
子供の頃から米軍キャンプで、バンドのボーカリストとして活動する

デイヴ平尾が渡米中、スフィンクスでボーカルの代役を務めた。
カップスでドラムスを担当することになるが、まったく経験がなかった




甘いルックスと美声で女性ファンを虜にし、アイドル的な人気を博した。
男性ファンが多かったゴールデン・カップスが、女の子がキャーキャーいう
GSのカテゴリーで成功を収めたのも彼の存在が大きい。

もともとボーカルでそれまで経験のないドラムスを担当することになった。
短期間で習得したのだろうが、しっかりしたテクニックを身につけている。
晩年の再結成の際はドラム・セットに座っててもほとんど叩いておらず、
ボーカルに専念している。2020年9月1日、71歳で他界した。



ルイズルイス加部はもともとギター(ケネス伊東に教わった)だが、
ベーシでカップスに加入。(武相高校の後輩マモル・マヌーに誘われた)
そのためベースらしからぬ、リードベースともいえる、枠にとらわれない、
自由なプレースタイル、攻めの力強い演奏を身上としている。




エディ藩が一時脱退した後はギターに転向している。
1969年末にマモル・マヌー、林恵文と共にカップスを脱退。
1978年チャーの熱心に説得を受け、ジョニー、ルイス&チャー(後に
ピンククラウドに名称変更)を結成。

ルイズルイス加部もまたワルそうである。
売れてテレビに出演するようになっても、アンプに座ったりもたれかかって
演奏することも多く、その態度の悪さがまた人気だった
この記事を投稿後の2020年9月26日、71歳で他界した。
奇しくも同じ武相高校の後輩、マモル・マヌーと同じ月である。


メンバーのニックネームはレコード会社が「全員がハーフ」というふれ
込み(2)で売り出したため。横浜本牧→ハーフ。実に安直である。
本当にハーフ(クオーター?)なのはルイズルイス加部だけだった。
ケネス伊東は本名。オアフ島出身の日系アメリカ人二世。


メンバーの変遷を見ると分かるように頻繁にメンバーが入れ替わっている
(1972年1月の解散までとした。以降、活動再開と活動停止を繰り返してる





<後から加入したメンバー>

ミッキー吉野は1968年7月に若干16歳でキーボード担当で参加した。
幼少からクラシック・ピアノを習う。
15歳からナイトクラブや米軍キャンプなど、横浜本牧界隈で活動していた。
エディ藩、ジョー山中と交友を持つようになる。
ケネス伊東がビザの関係で帰国してる間、エディ藩に誘われカップスに参加。
ズバ抜けたテクニックと音楽的素養アレンジ力はカップスに無くてはなら
ない存在となった。



解散後、バークリー音楽大学を卒業し帰国後、ゴダイゴを結成した。



林恵文はエディ藩が一時脱退していた短い期間にベーシストとして参加。
(その間、ルイズルイス加部がギターを担当してた)
エディ藩復帰で林恵文は脱退。ルイズルイス加部はまたベースに戻る。





アイ高野はカーナビーツ解散後、マモル・マヌー脱退後のカップスに加入。
カップスのファンは男が多く、高野は軟弱、カップスに不向きと揶揄された。
そのためアイ高野は男らしく渋く見えるよう、つけ髭を使用してステージに
上がっていたそうだ。
2006年、55歳没。


柳ジョージは1970年9月兵役のため脱退したケネス伊東の代わりに参加。
ベースを担当。解散まで在籍した。
1972年元旦、沖縄のディスコでカップスが演奏中に火事が起き機材を焼失。
デイヴ平尾は解散を決意する。柳だけはベースを持って避難したそうだ。




後に柳ジョージ & レイニーウッドとして成功を収める。
ブルースロックを基調にした和製ロックでのヒットは当時は異例だった。
ストラトキャスター(グレコ製)の泣きのギターとダミ声が売りで、和製
クラプトンと称されたが、本人はデイヴ・メイソンと言われたいそうだ。
2011年、63歳没。



ジョン山崎はカップス解散直前にキーボードで参加。
ティンパン・アレイ系の人脈にに連なり、フュージョン創世記にも活躍。
音楽をやめてから、ハワイで牧師になったらしい。



これだけ個性が強いというか、アクの強い、一癖も二癖もあるような不良
たちをうまくまとめてきたのはデイヴ平尾の人徳と言っていいだろう。




そしてR&Bへの思い入れ。寄せ集めバンドは着実に腕を上げていった。
初期のカップスはデイヴ平尾のR&B愛エディ藩の卓越したブルースギター、
ケネス伊東の日本人とは違う角度からのR&Bへの知見が大きかったと思う。


カップスは日本ではまだ誰も取り上げたことがない英米のブルースロック、
R&Bを好んでカヴァーした。
ポール・バターフィールド・ブルース・バンド、マディ・ウォーターズ、
ウィルソン・ピケット、ジミ・ヘンドリクス、クリーム、ザ・バンド、
レッド・ツェッペリン、など。

彼らがやりたかったのは英語のブルースロックであり、王子様キャラの制服
を着せられて甘ったるい曲を歌うGSなんて冗談じゃない、と思ってたはずだ。
だからやる気がない。客に媚びない。態度が悪い。それがカップスだ。




それゆえ彼らには破天荒なエピソードがいっぱい残っている。
次回はデビューのきっかけとカップスの武勇伝、音楽性について書きたい。
(続く)


<脚注>
(1)デイヴ平尾とエディ藩が渡米中に再開したコンサート会場

サンフランシスコでのゼム(ヴァン・モリソンが在籍した)のライブ会場。
ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズのコンサート会場とも言われる。


(2)「全員がハーフ」という設定で売り出した。
実際にハーフなのはルイズルイス加部だけ。
(父親はフランス系米国人、母は日本人)
エディ藩の父親は中国広東省生まれ、母親は神戸の在日華僑。
エディは彼の洗礼名「エドワード」から。
ケネス伊東はオアフ島出身の日系アメリカ人二世。国籍はアメリカ。
11歳の時に父親が本牧のPX赴任のため日本に来た。


 (3)経験のなメンバーに楽器を担当させる。
GSの多くはライブハウスや米軍キャンプなどで実績を積んできたバンド
だが、GSブームになると未経験者を合宿で鍛えて楽器を覚えさせるという
売り方も出だした。
中には年少上がりを集め鞭で叩いて楽器を覚えさせた、という話もある。


<参考資料:ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム、BARKS、
(公)横浜中法人会インタビュー、goldencups.com、Wikipedia、他>

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