2020年9月12日土曜日

フェンスの向こうはアメリカ。本牧とゴールデンカップス(1)

「東京なんてハマの残りカスみたいなもんさ」


1960年代、横浜の不良たちはそう言っていた。








本牧の丘に広がるベースキャンプ。フェンス越しのアメリカ


ベトナム帰休兵が持ち込む音楽、ファッション、ドラッグ、ライフスタイル、

横浜の若者はいち早くそれらを取り入れた。







東京なんて目じゃない。
ハマっ子のプライドは強く、横浜に遊びに来る東京モンをバカにしてた。

特に品川ナンバーの車は目の敵。煽るわ、乗っている人の目を傘でつく、

駐車してれば勝手にこじ開け乗り回して川に捨てる、という狼藉ぶり。

井上堯之は初めてゴールデンカップに行った時、常連客の女に「ここは

あんたたちが来るとこじゃないよ、帰んな」と言われ心底ビビったらしい。






実際に本牧は、いや横浜はコワイ、かなりヤバイ街だった。

「横浜は異国情緒があるハイカラな街」と東京人の多くが思っていた。

ユーミンがドルフィンのことを歌うと、山手は聖地巡礼の地になった。
JJでハマトラが流行し元町のフクゾー、ミハマ、キタムラに女の子が殺到。

彼女たちは知らなかっただろう。

石川町の元町と反対側に職安通り(寿町)(1)というドヤ街があること。
フェリス女学院がある丘の裏側が昔チャブ屋(2)(売春宿)街だったこと。


黒澤明監督の「天国と地獄」となった富裕層が住む浅間台の下に、黄金町

というアヘン街、赤線地帯があった(3)ことも知らないだろう。
山下公園や伊勢佐木町でも日常的にドラッグの売買が行われていた。




↑映画「天国と地獄」より。黄金町のアヘン街。




映画「天国と地獄」より。地獄(黄金町)から見た天国(浅間台の邸宅)。
(実際は京急南太田駅南から見ている)




↑映画「天国と地獄」より。浅間台の邸宅から見下ろす黄金町。(実際は平沼)
クライマックスのパートカラーが効果的だった。


山手、根岸、磯子の高台には洋館や屋敷。

その下に貧しく粗末なバラックが並ぶ。

中華街(昔のハマっ子は南京町とかチャン街と呼んでいた)は日本人、中国人

(近くに中華学院がある)、朝鮮人の三つ巴の喧嘩が絶えなかったという。
それでも殺しに至らないのは、みんな喧嘩慣れしてて限度を心得ていたから、
今の子たちと違ってね、とエディ藩は言っている。


本牧でも米兵と地元の不良との喧嘩は日常茶飯事だった。

腕力では白人・黒人兵に勝てるわけない。
ゴールデンカップ常連の不良たちは木刀を携えていた。(上西マスター談








ハマっ子たちはアメリカ人に必ずしも敵対していたわけではない。
むしろフェンスの向こう側に広がる豊かなアメリカ広い緑の芝生に立ち
並ぶアメリカンハウス(4)を羨望の目で見ていた。

そこにはアメリカ人が生活を完結できるだけの環境が整えられていた

学校、銀行、映画館・PX(物品販売所)、ボーリング場、テニスコート、
野球場、教会など。








フェンスを隔ててこちら側は焼け野原とバラック。

目の前にあるのに立ち入ることができない。近くて遠いアメリカ
PXの従業員、米軍人のゲストなど限られた日本人しか立ち入れない。







鉄条網をくぐってを小さなアメリカを冒険した少年もいた。

アメリカ人の子とフェンス越しに石を放り投げ遊んだ子供たちも。
それは喧嘩ではなくエールの交換だったという。






当時は山手警察署の前、小湊を市電が走っていた。

停留所でGIたちに声をかけられ顔を赤らめた女子高生もいる。






思春期には果敢にもフェンスを乗り越えて潜入する強者(たいてい見つ

かるとつまみ出された)もいた。
知人や家族がPXで働いていると、月1回のバザーに入ることができた。


ロックやR&Bの輸入盤をいち早く手に入れハマっ子は吸収して行った。

そして横浜発祥の新しい音楽文化が築かれていったのである。






当時アメリカ本土から極東と呼ばれた日本への慰問は少なく、進駐軍クラブ

(日本人禁止のオフリミット)程度しかフェンスの外に娯楽がなかった。


1961年にリキシャ・ルーム(5)、1962年にイタリアンガーデン(6)、1964年

にはゴールデンカップ(7)が開店する。








↑1960年代のイタリアン・ガーデン店内。


1973年にはリンディ(8)、1976年にアロハ・カフェ(9)が小湊に開店した。








元町方面から麦田トンネルを抜けると、そこはさながらリトルアメリカ。


どの店も多国籍の外国人であふれ、R&Bやロックやジャズが流れ派手な

ネオン管が夜を彩っていた。時代はベトナム戦争の真っ只中である。






ゴールデンカップにも連日連夜GIたちが訪れ、地元の不良たちと一緒に踊り、

朝まで饗宴が繰り広げられていた。乱闘騒ぎも日常茶飯事だったらしい。


オーナーの上西氏は、アメリカ旅行から帰国したばかりのデイヴ平尾に

「店の専属バンドを探している」と話を持ちかける。







平尾はスフィンクスというバンドに在籍していたが、アメリカで最先端の

音楽に生で触れてきたばかりの彼は自身のバンドの演奏を物足りなく感じた。
そこでアメリカ旅行中にライブ会場で再会したエディ藩を誘った。
藩も音楽シーンの見聞を広めるのと楽器購入のため渡米していたのだ。

エディ藩はファナティックスというバンドでギターを担当していた。

ファナティックスは平尾のスフィンクスと共に横浜を代表するバンドだった。

藩はケネス伊東を誘った。

平尾の渡米中にスフィンクスのボーカルを代行していたマモル・マヌー
がドラムスを担当することになった。
マモルは高校の先輩のルイズルイス加部を誘う。






5人は「平尾時宗とグループ・アンド・アイ(10)」として活動を開始する。



ゴールデンカップスを語る上で当時の本牧、横浜は切り離せない

前振りが長くなってしまった。次回はカップスについて書きたい。(続く)


<脚注>



(1)横浜の職安通り(寿町)

台東区の三谷、大阪の西成区あいりん地区と並ぶ日本の三大ドヤ街の一つ。
路上で浮浪者が暮らし、冬は焚き火している。
当たり屋が飛び出すこともあるの。車では近寄らない方が賢明だ。
川崎の日進町(京急八丁畷駅付近)も同様だがあまり知られていない。


(2)チャブ屋

戦前の港町において日本在住外国人、外国船員、軍人を相手にした宿の俗称。
語源は英語の軽食屋CHOP HOUSE(チョップ・ハウス)が訛ったものらしい
1階はダンスホールとバーカウンターでピアノの生演奏やSPレコードで踊り、
2階に娼婦の個室が並んでいた。(西部劇の酒場+宿が近いかもしれない)
遊廓と違い、チャブ屋はモダンで女性も上品で英語を話しダンスを嗜んだ。






チャブ屋は横浜独自の売春宿といわれる。(函館や神戸などの港町にも存在)

本牧の小湊、石川町の大丸谷(イタリア山中腹)に集中していた。
大丸谷は下級船員が中心、本牧は上級船員と日本人が顧客だったようだ。
特に小港のキヨホテルは設備やサービス、女性も粒揃いで海外でも有名だった。
なんと乗馬クラブまであったというからすごい! 


敗戦後、本牧のチャブ屋があった小港周辺はアメリカ占領軍により接収。
米軍海浜住宅一号地に。小港町3丁目と本牧町2丁目に慰安所が設置された。
1958年に赤線が廃止され、チャブ屋も消滅した。







(3)「天国と地獄」の舞台、浅間台と黄金町

山崎努演じる誘拐犯は黄金町から、浅間台の三船敏郎の邸宅を見ている、と
いう設定であるが、実際には野毛山に遮られ黄金町から浅間台は見えない。
浅間台を望む撮影は京急南太田駅付近で行われている。
また浅間台の邸宅から見下ろしている景色は平沼橋付近である。
左手に見えるのは県立平沼高校の旧校舎。
ピンクの煙があがる煙突は横浜精糖で、今はない。


(4)アメリカンハウス

進駐軍の家族の為の住宅はディペンデントハウスと呼ばれた。
連合国軍総司令部(GHQ)より発令され、横浜には1200戸が割り当てられる。
アメリカ側は少々勘違いしていた。敗戦した日本に物資があるわけない。
急務として建造されたハウスは意外と簡素で、和洋折衷的な部分もあった。






本牧ではないが、僕も中学生の頃、進駐軍のハウスに住んでた経験がある。

デュプレックスという2棟対称になった2階建で、ドアにナンバーの表示、
玄関のアプローチ、跳ね上げ式窓、洋式トイレ、猫足バスタブ、温水ヒーター、
芝生と歩道、スプリンクラー、消火栓など映画で見るアメリカの住居だが、
瓦屋根だったり中途半端な和洋折衷建築だった。

それでも焼け野原とバラックから見た米軍ハウスは憧れだったはずだ。

しかし高度成長で日本でも富裕層が邸宅を持ち、団地、さらにマンションが
普及するようになると、老朽化した米軍ハウスが質素に見えるようになる。


(5)リキシャ・ルーム

1961年に米国人船乗りのハリー・コルベット氏が開店したレストランバー。 
店名はコルベット氏が日本で初めて見た人力車にちなんだもの。
客の大半は米兵。ジャスが流れる素敵なレストランバーでイタリア料理中心。
本牧名物の四角いピザ(後述)が食べられることでも有名だった。


(6)イタリアンガーデン

1962年イタリアから来たアントニオ氏が開店したレストラン。
本牧の四角いピザ発祥の地としても有名。後にピザ店としてベニスを開業。

本牧ピザが四角い理由は諸説ある。

1. イタリアンガーデン開店時のコックが元潜水艦コックで、狭い厨房で四角い
 ピザを焼いていたため。
2. 当時、日本にピザを焼く石窯がなく、四角いオーブンで焼いたため。
3. 当時の業者では丸い型を造れなかったため。





山下町のホフブロウでも四角いピザが食べられた。

歴史のある北欧系のレストランで店名はドイツのビアホールに由来している。
ドイツ人のお婆ちゃんが切り盛りしてたっけ。本牧ピザが伝播したのか?


(7)ゴールデンカップ

京都で洋服屋を営んでいたが上西四郎氏が、紆余曲折を経て横浜に流れ着き、
1964年に店をオープンする。
専属バンドのオーディションで、デイヴ平尾の声にほれ込み採用。


(8)リンディ

日本で最初のディスコは1973年にオープンした赤坂のビブロスと言われるが、
前後して本牧ではリンディというディスコが開店した。
もともとディスコはフランス発祥のディスコティークで、それまでの生バンド
の演奏で踊るスタイルではなく、DJがかけるレコード(ディスク)で踊る。
リンディは流行の最先端を行く店で、他店より遅くまで営業していたこともあり、
外人、横浜の遊び人、東京からも多くの客が訪れ賑わった。
入店の際の服装チェックや男性同士での入店禁止もビブロスと同じだった。



(9)アロハ・カフェ

1976年に小港で開業。本牧から山手警察署の交差点を左折してすぐの場所。
ビリヤード、ピンボール、ネオンライトなど古き良きアメリカを感じさせた。
本牧から小湊に広がるアメリカンハウスに近く、GIとその家族が利用した。
また1980年のカフェバー・ブームの頃は東京から訪れる客も多かった。
田中康夫の「なんとなく、クリスタル」にも登場する。


(10)平尾時宗とグループ・アンド・アイ

平尾時宗はデイヴ平尾の本名。時坊、時ちゃんと呼ばれみんなに親しまれた。
レコードデビューの際、グループ名が分かりにくいということで出演していた
店名にちなんで、ゴールデンカップスに改名させられた。
デイヴ平尾という芸名も、東芝音楽工業が全員ハーフとして売るための策。


<参考資料:goldencups.com、ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム、

はまレポ.com、みんなで作る横濱写真アルバム、横浜・本牧1967年の追憶、
荻窪東宝、Wikipedia、他>

<写真提供: 横浜市史資料、長沢博幸氏、生駒實氏、町田昌弘氏、

アルタミラピクチャーズ、goldencups.com、他>


2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私(70歳)の高校も本牧、ディブ平尾さんは同窓で8期先輩です。
高校1年の頃カップスがブレイク、が、進学校の真面目な?高校生には敷居が高すぎたなぁ。
3~4歳年上のマモルや加部がカッコ良かった。
当時柔道部の部長だったが、ハウスの子供達が興味深そうに見に来る事があった。
道場に入れて、基本的な受け身等を教えてあげた事もあった。
数日後、親御さんが来てフライドポテトやコーラをたくさん差し入れてくれた。
50年以上前の懐かしい思い出です。

イエロードッグ さんのコメント...

コメントをいただき、ありがとうございます。

緑高だったのですね。自由な校風だったとか。
友人が言ってました。
1960年代の本牧がリアルタイムで身近にあったなんてうらやましすぎです。
山手にはインターナショナル・スクールもありましたよね。
1980年代にはマイカル本牧ができて、昔の面影はまったくなくなりました。
そのマイカルも今や廃墟と化しているとか。。。

柔道部の部長さんだったとのこと。硬派だったのですね。
ハウスの子供たちは初めて体験した柔道を興奮しながら家で話したのでしょう。
親御さんとの交流も微笑ましい。
アメフトとか部活といえばコーラのイメージですもんね。

マモル・マヌーやルイズルイス加部は有名なワルでカッコよかったそうです。
きっとモテまくったんでしょうね。
昔の横浜はワイルドだったんだろうなあ。