2021年1月30日土曜日

フィル・スペクターの黄金期とウォール・オブ・サウンド。



音楽プロデューサーのフィル・スペクターが2021年1月16日に死去。享年81歳。

女優ラナ・クラークソン射殺で懲役19年の判決を受け収監されていた。
当初は自然死と発表されたが、全米各紙により彼がコロナに感染し治療を受け
回復したものの再び悪化し、刑務医療施設で亡くなったことを報じた。

後年は殺人の実刑、偏執狂的で異常な性格、狂人ぶりや奇行が取り沙汰されたが、
フィルが音楽業界に残した功績は切り離して考えるべきではないかと思う。


フィル・スペクターは、迫力あるヴォーカルと分厚いバックサウンドが融合した
独特の音像ウォール・オブ・サウンドと呼ばれる独自の録音技法を確立した。





<テディ・ベアーズでのデビュー、多重録音の試み>

フィルは1940年ニューヨークのブロンクス地区でロシア系ユダヤ人家庭に生まれ、
彼が13歳の時に一家はロサンジェルスに移り住んだ。
少年期は黒人系ラジオ局で流れるジャズ、R&Bを聴きながらギターを弾いたり、
クラシック(重厚なワーグナーが好みだった)も聴いていたという。

高校時代(1)はR&Rの波に刺激され、曲を作りバンド活動を開始する。
大学生の頃、家庭用テープレコーダーでスピーカーから鳴らした音をマイクで
拾い、それに音を重ねるという初歩的な多重録音を試みる。(2)




1957年に高校時代の仲間と男性2人、女性1人でコーラス・ユニットを結成。
高校の同級生のエンジニアに頼んで、ゴールドスター・スタジオ (後にフィル
の本拠地となる) で前述の多重録音でシングル盤を自主制作する。


この自主制作盤を地元のローカル・レーベルに持ち込み、フィルは契約を獲得。
テディ・ベアーズ(3)名義で1959年にデビュー。

A面のDon't You Worry My Little Petは鳴かず飛ばず。
だがB面のTo Know Him Is To Love Himは地元のラジオDJたちが流すよう
になり、TVにも出演し、ついに全米1位を獲得する大ヒットとなる。(4)



↑テディ・ベアーズのTo Know Him Is To Love Himが聴けます。


これも同じ方法でダビングを繰り返した劣悪な音質だったが、エコーたっぷりの
独特のサウンドはインパクトがあった。
これがウォール・オブ・サウンドの原点といえるだろう。

テディ・ベアーズは続けてシングル、アルバムを発売するが惨敗で解散する。




<音楽業界での人脈作り、プロデューサーとしてのスタート>

1959年フィルはリー・ヘイゼルウッドと組み音楽プロデューサーをしていた
レスター・シルとソングライター兼プロデューサーとして契約を結ぶ。
デュアン・エディ(トゥワンギー・ギターで有名)のレコーディングを見学した
フィルは、その深いエコー効果の秘密などを会得した。

レスターと共にニューヨークを訪れたフィルは作曲家チームのジェリー・リーバ
ー&マイク・ストーラーと交流を深め、彼らの下で修行をする。

ニューヨークでフィルは「黄金の耳を持つ男」の異名を持つ音楽出版のドン・
カーシュナー (5)、ジェリー・ゴフィン&キャロル・キング、バリー・マン&
シンシア・ウェイルら作曲家コンビとも親交を深める。



パリス・シスターズとフィル・スペクター。


1960年からレイ・ピーターソンやパリス・シスターズのプロデュースを手がけ、
ヒットを生み出した。
パリス・シスターズI Love How You Love Me(6)は深いエコー、重厚な
コーラスとストリングスは既にスペクター・サウンドを思わせる。



↑クリックするとI Love How You Love Me が聴けます。


こうした実績での信頼を得たフィルは、レスター・シルがリー・ヘイゼルウッド
と袂を別った機会に共同経営の話を持ちかけ、フィレス・レコードが設立される。



<プロデューサーとしての黄金期。ウォール・オブ・サウンドの確立>

これまで築き上げた人脈を駆使し強力なスタッフを集めたフィルは、フィレス・
レコードで独自のサウンドを作り上げ、多くのヒットを生み出した。

その成果の一つが、クリスタルズHe's A Rebel(1962)だろう。
フィルはダーレン・ラヴと彼女のバッキング・グループ、ブロッサムズを使って
録音し、その音源をクリスタルズ名義でリリース。つまり本人たちが歌ってない。
が、皮肉なことに全米No.1獲得し、クリスタルズ最大のヒット曲となった。(7)

ダーレン・ラヴの迫力あるヴォーカルとバッキングの分厚いサウンドが融合。
独特の音像はウォール・オブ・サウンド(音の壁)と呼ばれた。



↑ダーレン・ラヴとフィル・スペクター。


クリスタルズやロネッツのヒットで順調にスタートしたフィレス・レコードだっ
たが、自我が強いフィルはしだいにレスター・シルと対立するようになる。
1962年にレスターを追い出しフィレス・レコードはフィルの独裁体制となる。

ゴフィン&キング、グリニッチ&バリー、マン&ウェイルなどヒットメイカーの
作曲家たちを起用。
ハリウッドのゴルドスター・スタジオで、自分が理想とする制作を本格化する。




後にレッキング・クルー(8)と呼ばれるようになる一流のセッションマンたち
を集め納得いくまでレコーディングを続ける。
自分の求めるサウンド、ヒットのためなら一切妥協せず、容赦ない行動に出た。


翌1963年全米2位の大ヒットを記録したロネッツBe My Babyではレコーデ
ィングを42回やり直したという。完璧主義者なのだ。
フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドの傑作として高い評価を受け、
後の音楽シーンに多大な影響を与えた。



↑ロネッツとフィル。クリックするとロネッツのBe My Babyが聴けます。



↑せっかくなのでTV出演で歌っている姿もご覧ください。



ヴォーカルのヴェロニカ・ベネット(ロニー・スペクター)は後にフィルと結婚
するが、6年後に破局。(理由はフィルの異常な性格と暴力


Be My Babyを生涯で一番好きな曲と公言するビーチボーイズのブライアン・
ウィルソンはオマージュとしてDon't Worry Babyを(1964)を作曲した。



↑ブライアンと愛犬。Caroline Noで吠えてるのはこの子ともう1
匹のワイマラナー。
クリックするとビーチボーイズのDon't Worry Babyが聴けます。



同1963年にアルバムA Christmas Gift for You from Phil Spectorを発表。
恒例のクリスマス・ソングをフィレス・レコード所属のロネッツ、クリスタルズ、
ダーレン・ラヴ、ボブ・B・ソックス&ブルージーンズが歌っている。
最後にはフィルからのクリスマス・メッセージも入る。


プロデューサーが裏方だった時代に、プロデューサー名義のコンピレーション・
アルバムという試みは画期的であった。(9)






ライチャス・ブラザーズYou've Lost That Lovin’ Feelin'も全米1位。(10)
ブルーアイド・ソウル(白人が歌うソウル)の先駆けとなった。


しかし、フィル・スペクターの黄金期は1960年代半ばまでであった。

1964年にアメリカを席巻したビートルズを皮切りに英国のロック・グループの
(いわゆるブリティッシュ・インヴェイジョン)が押し寄せる。
サイケデリック・ロック、ライブ志向のバンド・サウンドを基本とするロックの
時代の到来で、フィル・スペクターはout of date(時代遅れ)な存在になった。





<フィル・スペクターの功績>

フィル・スペクターがプロデュースした曲は1959〜1971年の米国ビルボード
のチャートを席巻し、19曲がTOP10入り。そのうち5曲が首位を獲得した。

ジョン・レノンは「エルヴィスが兵役に就いていた2年半の間、ずっとフィル
がロックを守ってくれた」と発言している。(11)


フィルの独自のウォール・オブ・サウンドは音楽業界に大きな影響を与えた。

彼のスタジオ・ワークを見学したブライアン・ウィルソンは、その光景に感銘
を受け1965年のビーチボーイズのアルバム、ペット・サウンズ制作時に同様の
独裁体制(レッキング・クルーと納得いくまでレコーディングを繰り返す)
録音方式を採った。




そのペット・サウンズはビートルズ、山下達郎、大瀧詠一らに影響を与えた。

フィルの黄金期は1960年代前半でそれ以降、忘れられた存在になるが1970
年代始めに再び脚光を浴びることになった。
それはビートルズの最後のアルバムとなったレット・イット・ビーの編集、
ジョン、ジョージのソロ作品を手がけたことにある。(後述)


※次回はウォール・オブ・サウンドの秘密について深掘りします。

<脚注>
(1)フィル・スペクターが通った高校

ユダヤ人が多く住むウエストハリウッドのフェアファックス・ハイスクール。
公立高校で特別な音楽的環境ではないが、数多くミュージシャンを輩出している。
フィルの後輩ではウォーレン・ジヴォン、ジャクソン5、P・Fスローン、
ガンズ&ローゼズのスラッシュ、レッドホット・チリ・ペッパーズなど。
先輩ではA&Mレコードを設立するトランペット奏者のハーブ・アルパート、エル
ヴィスのヒット曲を手がけたリーバー&ストーラーの作詞家ジェリー・リーバー。


(2)多重録音
多重録音技術は1947年にレス・ポールが考案。1950年にNolaをヒットさせた。
同年パティ・ペイジの多重録音による二重唱Tennessee Waltzもヒットした。
さらにレス・ポールは1953年に8トラック・レコーダーを完成させている。
1960年には多重録音は既に珍しいものではなくなっていた。
フィル・スペクターがテディ・ベアーズで行なった多重録音は、スピーカーから
鳴らした音をマイクで拾いながらそれに音を重ねるという、素人芸である。
が、ここにウォール・オブ・サウンドの原点があるのだ。(後述)


(3)テディ・ベアーズ
グループ名はエルヴィスのヒット曲 (Let Me be Your)Teddy Bearに由来。


(4)To Know Him Is To Love Him
9歳の時に自殺した父親の墓碑に刻まれたTo Know Him Was To Love Him
に着想を得たもの。
後にナンシー・シナトラ、レターメン、ピーター&ゴードンがカヴァー。ビート
ルズも初期レパートリーとしデッカのオーディション、BBCラジオで演奏した。


(5)ドン・カーシュナー
音楽プロデューサーで、ヒット曲を聴き分ける黄金の耳を持つ男(The Man With 
The Golden Ear)と言われていた。
’50年代~'60年代のアメリカのポピュラー音楽、ロックの発展への功績は大きい。
まだ無名だったニール・ダイアモンドを起用しモンキーズの楽曲を書かせヒット
させたのも、ティーンエイジャーの心をつかむカーシュナーの天性の勘である。
自我が芽生えたモンキーズは自身もアルバム制作に関わることを要求。
カーシュナーは約束を反故にしたため、更迭された。


(6) I Love How You Love Me
1968年にフィルのプロデュースでボビー・ヴィントンがカヴァーし再ヒット。
モコ・ビーバー・オリーブの日本語カヴァー盤「忘れたいのに」も発売された。
尚パリス・シスターズのリマスター盤ではボーカルのエコーは抑えめである。



クリックするとI Love How You Love Me リマスター が聴けます。


(7)クリスタルズとフィル・スペクターの関係
フィルはロサンジェルスが本拠地だが、クリスタルズはニューヨークで活動。
スケジュール調整が付かず、早くリリースしたいフィルは代役で録音した。
ダーレン・ラヴの迫力あるヴォーカルの方が売れるという読みもあっただろう。
だとしても本人たちの許諾なしのリリースはやり方がまずかった。
続くHe's Sure the Boy I Loveも同じくダーレンとブロッサムズの歌唱でヒット。
替え玉による録音が続いたこと、フィルがロネッツに力を入れ始めたことでクリ
スタルズとフィルの関係は悪化し、彼女たちは別なレーベルに移籍した。


(8)レッキング・クルー
ドラムスのハル・ブレイン率いるL.A.の腕利きスタジオ・ミュージシャン集団。
1960年代〜1970年代のアメリカのヒット・チャートを支えてきた猛者たちだ。
一つのバンドではなく、必要な時に必要なミュージシャンをスタジオに派遣する
流動的なセッションマンのユニットである。

ベーシストのキャロル・ケイ、ジョー・オズボーン、ライル・リッツ。
ピアノのラリー・ネクテル、レオン・ラッセル、キーボードのドン・ランディ。
ギターはトミー・テデスコ、グレン・キャンベル、ビリー・ストレンジ、アル・
ケイシ、ビル・ピットマン、バーニー・ケッセル、デヴィッド・ゲイツ。
サックスのプラス・ジョンソン、サックスとクラリネットのニノ・テンポ、
ドラムスのアール・パーマーらが名を連ねていた。




フィル・スペクターがレコーディング時に起用したミュージシャンたちだが、
高度な演奏技術が評価され、色々なレコーディングで起用されるようになる。
当時のアメリカの音楽シーンは分業制が多かった。
歌手やバンドがツアーに出ている間にスタジオ・ミュージシャンが演奏を録音。
完成したオケにボーカルを重ねる。
また本人たちの演奏力では難しいとプロデューサーが判断した場合、メンバーが
忙しくレコーディングに参加できない場合もレッキング・クルーが代役を務めた。
ロネッツ、フランク・シナトラ、ナンシー・シナトラ、ビーチボーイズ、バーズ、
モンキーズ、カーペンターズ、サイモン&ガーファンクル、フィフス・ディメン
ション、バーブラ・ストライサンド、ママス&パパスのヒット曲で貢献している。


(9)フィル・スペクターのクリスマス・アルバム
ローリングストーン誌のオールタイム・グレイテスト・アルバム500において
第142位に選ばれている。
音楽評論家の萩原健太氏はポップスでクリスマス・アルバムを4枚選ぶとしたら、
エルヴィス、ベンチャーズ、ビーチボーイズ、フィル・スペクターとしている。


(10) You've Lost That Lovin’ Feelin' (邦題:ふられた気持ち) 
ブルーアイド・ソウル(白人が歌うソウル)の先駆けとなった。
バリー・マン、シンシア・ワイル、フィル共作のこの曲はエルヴィス、グラディス
・ナイト&ザ・ピップス、ホール&オーツもカヴァー。


(11)エルヴィスの徴兵とフィル・スペクターの黄金期
エルヴィスが徴兵されてた期間は1958〜1960年。
フィルがテディ・ベアーズでデビューしたのは1959年だが、プロデューサーとし
てヒット・メイカーになるのは1960年以降で、ジョンの指摘は少しずれている。

除隊後のエルヴィスは野卑で刺激的なロックンロールやR&Bを歌わなくなり、カン
ツォーネやバラード、メロディアスな作品が増えた。
エルヴィス主演の他愛もない映画を年3本も作り、劇中で新曲を披露、その楽曲が
入ったLPを売るという商法が5年も続いた。
リーバー&ストーラーのような優れた作曲陣は離れ、作品の質は落ちて行く。
エルヴィスが死んだ時ジョンは「エルヴィスは戦争から戻った時、既に死んでいた
」と発言したのはそこを突いたのだろう。上述のエルヴィス不在の間〜発言も同様。

それでも1960年代前半まではエルヴィスは何を歌っても売れていた。
やがてビートルズを始めとする英国勢、ディランと新しい波が押し寄せ、エルヴィス
は過去の人になってしまう。


<参考資料:アメリカ音楽ルーツ・ガイド、レコード・コレクターズ、HMV、
billboard JAPAN、Sound&Recording、OVO、Wikipedia、YouTube、他>

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