2021年10月24日日曜日

ロックにおけるPAの歴史。



<PAとは何か>

そもそもPA(ピーエー)って何なん?

ライブ、クラブでPAという言葉を耳にしたことはありますよね。
音楽イベントで音を出すためには不可欠なものというのは漠然と分かる。
が、いまいちPAが何なのかよく分からないというという人もいるのでは?


ざっくり言うと、PAとは。。。
楽器や歌などの音を増幅させたりバランスをとり会場全体に充分な音量の
H-Fi音を届ける(言い換えるとどの席でも迫力のあるいい音が聴ける)ため
の音響システムのことである。

武道館やドームなどの大会場や野外音楽フェス、ライブハウス、モールでの
ミニコンサートや特撮ヒーローショー、さまざまな場所で使われている。


PAエンジニアはアーティストが使用する楽器や機材、彼らが出したい音、
会場の音響特性(客の入り状態でも変わる)、不測の事態への対応などを
考慮しながらベストな音を出せるようシステムを構築する。

よく客席の真ん中くらいでミキシングコンソールを操作しているスタッフを
見かけますよね。あの人たちがPAエンジニアです。




複数の楽器、ボーカル、コーラス隊、客席の声などを個別に拾い(エレキギタ
ーはアンプの音をマイクで拾うことが多いが、ダイレクトにコンソールにイン
する場合もある)、マルチトラックで音量や音質、ステレオ定位のバランス
をとった上で、アンプで増幅した音を会場のモニタースピーカーから流す。
(ライブ収録の場合はマルチトラックの音源を後日スタジオでミックスする)
近年はPCでミキシングが行われることも多い。



では、どこからどこまでがPAなのか?

ステージ上で使用している楽器やアンプ、エフェクターはミュージシャンの
機材であり、PAシステムの領域に入らない。
マイク、ケーブル、ミキシングコンソール、アンプ、大型モニタースピーカー
(ステージ両脇に積まれた黒いスピーカー群を見た事がある方も多いだろう)
がPAシステムである。※現在はラインアレイスピーカーが主流。




演奏者や歌手が全体の音を確認するための足元にあるモニタースピーカ
(返し、はね返りと呼ばれていた)もPAに入る。
歌手や演奏者がイヤホンでモニターしている光景もよく見られる。




<PAの起源>

PAとは電気的な音響拡声装置の総称を意味するPublic Addressのこと。
語源であるPublic AddressのAddressには「演説」という意味がある。

1919年に米国のウィルソン大統領が庁舎前の広場で演説する際、マグナヴォ
ックス社の電気拡声装置(ホーン型スピーカー)を使用したのが始まりらしい。

1923年から1938年にかけてヒトラーもナチス党大会でプロパガンダを行う際
に拡声装置を重要視し、より遠くまで音声の届く平面型スピーカーを使用した。

こうした拡声装置はトーキー映画が始まってから広く普及し、野球場、学校、
デパートでのアナウンス、選挙カーなどで用された。

この場合、音声メッセージを一定の音圧で(他の騒音に負けない充分な音量で)
死角を生まずに聞かせることが重要である。Hi-Fi(音質)は要求されない。



<音楽とPAの発展>

音楽では1940年代にジャズのビッグバンドにおいてボーカルやエレキギター
を他の楽器の大音量に負けないよう拡声するために使用されるようになった
といっても現在のように全体の楽器のバランスを取るPAシステムではなく、
ボーカルアンプ、ギターアンプで増幅した音を出していただけである。


1960年代のロック・ムーヴメントにおいて全ての楽器をスピーカーで拡声する
ようになったが、ステージ上のギターアンプ、ベースアンプから出る音、ドラム
の前や上にセットしたマイク、ボーカルマイクを増幅した音を一斉に出していた
だけで、統合的にバランスをとって音量をコントロールしていたわけではない



<ビートルズの時代はPAがなかった>

ビートルズが現役でツアーを行っていた頃は現在のようなPAは存在しなかった。

1965年のシェイ・スタジアムでは客席の至る所にスピーカーを設置していたが、
ファンの金切り声にかき消されて、焼け石に水であった。
なにしろ演奏してる本人たちが聴こえていなかったと証言しているくらいだ。
(PAがないから当然ステージ上に返り用のモニターもない)





↑バックヤードではこんな感じで調整していたようだが。。。なんか無線機器みたい。



武道館のコンサートは前年に設立された東京音研(東京音響通信研究所)がPA
を担当したという記録があるが、まだPA専用のシステムがなかった時代である。

VOXのアンプAC-100とSHUREのマイクSM-58はビートルズ側の指定で、招聘元
の協同企画(キョードー東京)が手配した。
(日本で用意したAC-100は不調のため本国から空輸で代替品が翌日届けられた)


100WのVOXアンプからの出音はそのままであり、マイクとドラムは国産の貧弱
なボーカルアンプのスピーカーを数本でしのいでいたと思われる。

ステージ前のプレス席で聴いた尾藤イサオと内田裕也は「凄い音」と驚いたが、
1〜2Fの客席では(観客が比較的静かだったにもかかわらず)よく聴こえなかっ
たと証言している人が多い。



↑武道館の初日、および翌日の昼の部(2回目)の写真を見るとアンプの前に立ち
マイクが置かれているのが確認できる。
これはTV収録のための集音用であってPAではない。




ビートルズ来日の前年1965年、2回来日して公演を行ったベンチャーズは大きい
会場でも東京厚生年金会館大ホール(収容席数は2,062席)であった。
観客も拍手くらいでおとなしく聴いていた(リキ・スポーツパレスの追加公演=
ダンスパーティーでは騒いだでたようだが)ので演奏は会場全体に響いた。

出力50Wのフェンダー・バンドマスター・ピギーバッグ(会場によってグヤトー
ンが使用された)でも、充分に後ろまで音が届いたはずだ。
生で聴いた人の多くがダイナミックで迫力のある音だったと証言している。


<追記> THE M VENTURES さんからご指摘をいただきました。
東京公演は全てグヤトーンだった(グヤトーンとの契約があった)だそうです。
7月公演を収めたALL ABOUT THE VENTURES、CD化されたコンプリート・
ライヴ・イン・ジャパン'65に写っているにはグヤトーンのGA1200だそうです。
1月公演のVENTURES IN JAPAN」の裏ジャケットの写真では、ノーキーは
フェンダー・ツインリバーブ(パイプ椅子の上)、ドンはフェンダーのバンド
マスター、映画BELOVED INVADERSではドンとノーキーはフェンダーの
ショウマンを使用しているのが確認できるそうです。
THE M VENTURES さん、丁寧に教えていただいてありがとうございました。


厚生年金会館での1月、7月の公演は東芝音楽工業が収録しライブ盤を発売した。
その場でバランスを取りながら2トラックレコーダーにミックスダウンしている。

写真を見るとライブ収録が行われた日のステージはアンプ、ドラムの前に立ち
マイクが置かれているが、それ以外の公演ではマイクがない。
録音のためのマイクであり、客席に聴こえていたのはステージ上のギターアン
プからダイレクトに出ていた音だったということになる。




1969年1月アップル本社ビル屋上でのビートルズ最後のコンサートはミキサーで
8トラックレコーダーに録音されているが、現場での出音はPAを通してではなく
生音だったのではないかと思われる
屋上にはPAらしき機材は確認できないし、足元にモニターも見当たらない。
(1968年に英国でステージモニターが始まったという記載もあるが)

仮に既にPAシステムがあったとしても、屋上でゲリラライブをやるのは直前に
決まった話で、PA機材の調達、またエンジニアがそれを使いこなすことは難しか
ったのではないだろうか。




複数のカメラにシンクロしているナグラテープの音源を聴くと、ジョージの近く
のカメラではやけにジョージの声が大きく入ってる、他のカメラ側ではポールの
ベースが大きい、と音量がバラバラ。
屋上で鳴っていたのはPAで整えられた均一な音ではなかったと推察できる。

屋上や近隣のビル、下の街中の人たちはギター/ベースアンプやボーカルアンプ、
ドラムをアンプで増幅した音を聴いてたのだろう。


ビートルズが現役だった時代は音響的には前世紀である。彼らが退場する頃やっと
PAシステムや16トラック・レコーダーがロックに導入され始めたのだ。


★追記:上記の訂正(12/1)
11/25-27ディズニー・プラスで配信された「ゲット・バック」を見たら1969
年1月のゲット・バック・セッションではPAを使用してました
トゥウイケナム映画スタジオ、アップル・スタジオ、屋上すべてPAが映ってるし、
PAについて会話でも出てきます。PAスピーカーはフェンダーとVOXでした。


1968年10〜11月のクリーム解散コンサートもマーシャル2段積みで大音量を出して
おり、まだPAがなかったようだ。WEMのスピーカーはドラムかボーカル用だろう。
(アンプやドラムにセットされたマイクはライブ収録用と思われる)





<ロックのPA創世期>

ではロック・コンサートにいつ頃からPAが導入されたのか?

1970年にフリートウッド・マックがコンサートで客席内でのミキシングを始めた
という記録がある。



同年8月、60万人を動員した英国ワイト島フェスではザ・フーが伝説的なステージ
で観客を熱狂させたが、この時はPAを使っていたはずだ。
ハイワットのアンプを2段積みしているが、それでもPAで増幅しないと60万人には
届かないだろう。

ステージ上に見えるWEMのモニタースピーカーがPA用だったのではないか。
後ろの観客にも聴こえるように会場の何箇所かに設置されていたのだろう。




このコンサートには前年のウッドストックにも出演したジミ・ヘンドリックス、
スライ&ザ・ファミリー・ストーン、テン・イヤーズ・アフターの他、ドアーズ、
シカゴ、ELP、フリー、ムーディー・ブルース、プロコルハルム、など多くの
ミュージシャンが参加しており、音響はフェスの成否を担っていたといえる。

おそらく1969年8月に40万人を動員した初の大規模野外フェス、ウッドストック・
コンサートで既にPAが実用化されていたと推測される。





ステージ袖にはギターアンプより大型のモニターが設置されているし、客席にも
ヤグラを組んで大型モニターが置かれている。
また客席の中にヤグラを立てて機材を調整しているのが確認できる。
エンジニアがここでミキシングを行なっていたのだろう。

40万人の観客に音が届くようにPAシステムが組まれていたのだ。
電気系統が雨に弱く何度か中断という野外フェスの泣き所も明らかになった。





1969〜1970年のロック・コンサートでPAが急速に発展したことは間違いない
大規模なコンサートが可能になり、サウンド面での質を大きく向上させた



またミュージシャンたちもよりよい音響を求め、独自のPAを追求するようになる。
グレイトフル・デッドはコンサート会場の音質を極限までハイファイ化しようと
モンスター級のPAシステム、ウォール・オブ・サウンズに経費が掛かり過ぎ、
1974年にはライブ活動の停止を余儀なくされた。(他にも理由があったが)





ピンクフロイドもまたレコードの音をコンサートで完璧に再現するために、PA、
照明、舞台装置は常に最新の技術を投入し、進化を続けていた。
1973年のThe Dark Side of the Moonのライブ盤を聴くと、スタジオ盤を凌駕する
ほどのクオリティーの高さに驚く。




↑1973年アールズコートで行われたピンクフロイドのコンサートPA。
マーチンオーディオ(1971年創業の英国製PAスピーカー)が山積みされている。
このPAはELPも使用していた。



1970年代はいろいろなバンドが全米ツアーを行い、より良い音を求めてPAも年々
進化し大型化していった。照明もステージの設営も独自の演出が求められる。
それに伴いスタッフも増える。機材は本国から専用ジェットで運搬。
1976年のウイングス全米ツアーでは天板にWings Over Americaと書かれた大型
トレイラー数台に機材を積み移動する様子が見られた。


<日本でのPAの歴史>

日本で最初にPAを導入したのは加藤和彦だと言われている。
1972年サディスティック・ミカ・バンドの活動を開始した頃である。
ロンドンで最先端のロックやファッションを体験した加藤和彦はこれからのライブ
にPAは欠かせないと確信。

300万枚近くの大ヒットとなった「帰ってきたヨッパライ」の印税の大半を惜しげも
なく使い、英国でPAシステムを購入。翌1973年にPA会社「ギンガム」を設立
これで(来日アーティスト以外でも)日本で大音量のステージが可能になった




ウッドストックを体験した成毛滋も同年4月にロンドンからWEMのPAを購入
その後、渡英するため大半を加藤和彦が譲り受けたという。

ステージ脇に積まれた二人分の黒いモニタースピーカー群を仰ぎ見ながら、二人は
「ピンクフロイドみたいだなー」と語り合ったとか。
ミュージシャン自らインフラも手がけないと欧米並みのロックが出来なかったのだ。



ヒビノ音響(現HIBINO)の社史によると、1971年にPA事業部を立ち上げ、シルヴィ
・バルタンの日本ツアーでSHUREのボーカルアンプを使用した、という記述がある。



↑当初はこんな感じだったのだろう。


海外の一流アーティストの中には音に徹底したこだわりを持ち、世界中のどの会場
でも満足のいく音が出せるように、PA機材をわざわざ本国から持ち込んだり、専属
のPAスタッフをツアーに帯同させるケースも少なくなかった。
日本で輸入音響機材を持つ業者は少なく、ヒビノは招聘元に重宝されたそうだ。

1971年8月に箱根芦ノ湖畔にある成蹊学園所有の広大な土地に特設ステージが作られ、
日本初の野外フェス、箱根アフロディーテ開催され2日間で4万人を動員した。
ヒビノは音響を受注し、SHUREのトーンゾイレ型スピーカーを40台用意した。



↑箱根アフロディーテのステージ。演奏してるのは日本のグループ。
ステージ脇にPA用のSHUREトーンゾイレ型スピーカーが映っている。


このコンサートには国内のフォーク、ロック、ジャズのグループや歌手が出演。
海外からは1910フルーツガム・カンパニー、バフィー・セントメリー、そして大トリ
を務めたのは、初来日のピンクフロイドであった。


ピンクフロイドは本国からWEMのスピーカーシステムを持ち込んでいたが、野外
ライブで十分な音を出すには本数が足りず、ヒビノが用意したSHUREのスピーカー
も併せて使うことになった



↑ステージ両サイドに設置したSHUREのトーンゾイレ型スピーカー。


Atom Heart Motherが始まると、他の出演バンドとはまったく違う音の迫力、圧倒的
な音量と重低音に、多くの観客は驚嘆したという。



↑箱根アフロディーテのスタッフTシャツを着たロジャー・ウォーターズ。
ちょっと南沙良に似てる気がするのは私だけでしょうか(笑)



翌1972年3月ピンクフロイド2回目の来日公演において、ヒビノ音響が客席中央で
24chミキサーを使ったミキシングを行なったという記録もある。
前年末にはJBLのプロ用スピーカーシステムとの代理店契約を結び、ウドーなど大手
招聘元からの受注が増える。

1970年代、コンサート会場のPA機材はヒビノ音響かギンガムのどちらかだった



<1970年代の来日公演でPAは発展する>

折しも1971年以降、海外アーティストの初来日ラッシュが続く。

1971年にはBST、フリー、シカゴツェッペリングランドファンク(雨の後楽園)、
エルトン・ジョン、前述のピンクフロイド(箱根アフロディーテ)。



↑観光中のZep。日本での狼藉ぶりは語り草になっている(笑)


1972年はディープパープルELP、カーペンターズ、ビージーズ、チェイス、CCR、
Tレックス、、スリー・ドッグ・ナイト、ジェームス・テイラー、プロコル・ハルム。
そしてツェッペリンピンクフロイド、エルトン・ジョンの2度目の来日。

1973年はイエス、ユーライアヒープ、サンタナ、デヴィッド・ボウイ、マウンテン、
BBA、ハンブル・パイ。
2度目の来日となったCCR、ジェームス・テイラー、シカゴ、Tレックス。
NHKホール、中野サンプラザホールがオープンしコンサート会場の定番となる。

1974年はムーディブルース、フェイセズ、クラプトン、シュープリームス、ウォー
が初来日。カーペンターズ、エルトン・ジョンもまた来ている。



↑1974年エリック・クラプトン初来日。武道館でのサウンドチェック。



↑積まれた大型スピーカーはJBLだろう。16chミキサーを2台使用していた。


この年、日本初の本格的PAミキサーYAMAHA PM1000が発売された。


1975年はウィッシュボーン・アッシュ、バッド・カンパニークイーンが初来日。
ディープパープル、グランドファンク、クラプトンも公演を行なっている。



↑東京タワーをバックに芝公園を歩くクイーン。レアなショット。


1976年にはドゥービーイーグルス、ニール・ヤングの西海岸勢が初見参。
ベイシティ・ローラーズ、オリヴィア・ニュートン・ジョン。レインボー、BTO、
フランク・ザッパ、トッド・ラングレン、アメリカも初来日。
サンタナ、カーペンターズ、クイーン、ウィッシュボーン・アッシュも再来日。

1977年はレーナード・スキナード、エアロ・スミス、キッス、デイヴ・メイソン、
ブライアン・フェリー、イアン・ギラン・バンド、10CC、フリートウッド・マック
と新しい顔ぶれが来日。
ジャクソン・ブラウン、ジャニス・イアンといったシンガー&ソングライター、
この後のフュージョン・ブームの先駆けとなるリー・リトナーも初来日している。

海外アーティストの来日、および国内アーティストの音へのこだわりを受けて、
日本のPAシステムは1970年代には海外に引けを取らないくらい進化して行った


<参考資料:disicovermusic.jp、RollingStone、R.E.P. PAとは、明け方の更新、 
プロが答えるサウンド&レコーディングQ&A百問百答+20 リットーミュージック、
NDIGO DESIGN STUDIO INC.日本のロック創成期のおはなし、PAの歴史、
来日公演年表1965-1984、DTMforU簡易PAシステムのススメ、YAMAHA、HIBINO、
よいこのPA講座、初心者のためのPA情報サイト、ロック・コンサートの変遷、
Wikipedia、他>

4 件のコメント:

THE M VENTURES さんのコメント...

ザ・ベンチャーズの1965年1月と夏の来日公演、「エレキギターブック ザ・ベンチャーズ衝撃の1965」のP16からP20にかけての、清野さん・大高さん・遊佐さんによる座談会で当時の状況が色々と判ります。私は個人的に3氏と交流があり、座談会の内容と似た事を色々と聞いていました。遊佐さんによると東京公演は全てグヤトーンだったとか。それはグヤトーンとの契約があったからだそうです。遊佐さんによるとレコード「VENTURES IN JAPAN」の裏ジャケットの写真、ノーキーはツインリバーブ(パイプ椅子に乗せている)、ドンはバンドマスターで、「BELOVED INVADERS」に映っているのはドンとノーキーはショウマンだそうです。ボブのベースアンプは特定出来なかったそうです。「ALL ABOUT THE VENTURES」とCD「ベンチャーズ・コンプリート・ライヴ・イン・ジャパン'65」に写っているのはグヤトーンのGA1200だそうです。
日本のロックは1965年のベンチャーズ来日で始まった(3)にもコメントを投稿させて頂きました。

イエロードッグ さんのコメント...

>THE M VENTURES さん

こんにちは。コメントをありがとうございます。
グヤトーン、そういう事情で使ってたんですね。知りませんでした。
フェンダーもピギーバッグだけでなく、ツインリバーブ、ショウマンも使って
いたとは。。。
会場によって出ていた音色もずいぶん違ってたことになりますね。
本文中に追記させていただきました。
貴重な情報をいただき感謝です。それにしてもお詳しい!

1965年のベンチャーズ来日(3)にもコメントをいただきありがとうございます。
改めて返信させていただきますね。

THE M VENTURES さんのコメント...

>客席に聴こえていたのはステージ上のギターアンプからダイレクトに出ていた音だった
もし、facebookをご利用なら、下記にある私の投稿から、1966年3月に東京公演を客席から個人録音した音源を聴く事が出来ます。
その他にもTVで放送された「ベンチャーズ・ショウ」や、ザ・ベンチャーズが勝ち抜きエレキ合戦に出演した際の内容も聴く事が出来ます。
勝手にシェアしたりユーチューブ等に転載されるのを防ぐ為、基本的に各投稿の「コメント」として音源は投稿してあります。
ですので、「コメント**件」という部分をクリックして、全てのコメントを表示させて下さい。
https://www.facebook.com/groups/262238363909378/user/100005813041391/

イエロードッグ さんのコメント...

>THE M VENTURES さん

ご親切にありがとうございます。
FaceBookはアカウントを作ってないんですよ。お誘いは受けるんですが。

TVのベンチャーズ・ショーの音源があることは聞いたことがあります。
僕自身ははそれほど深く掘り下げようとは思わないし、Hi-Fiも重視派です。
1965年7月のMC抜き、1月のピッチが補正された音源があればいいのに、
とは思ってますけど。
ベンチャーズ・ショーの映像が残ってるなら見てみたいですね。
加山雄三、星由里子との共演も。東宝映画育ちなので(笑)