ベトナム戦争が終わった1975年、新宿テアトルビル5Fに大箱ディスコ、椿
ハウスが誕生する。
オープン当初、新宿二丁目のゲイを積極的に店に招き入れたことから、感性が
豊かな彼らの影響で新たな流行、カルチャーの発信地となる。
DCブランドの成長期に「ファッション性が高いディスコ」という付加価値は、
ディスコ乱立の新宿において椿ハウスの大きな強みとなった。
新宿は大衆性&デザイナーズ系の尖ったファッション性、六本木や赤坂は外人、
金持ちの遊び人が集う街として、二極化して行く。
六本木と新宿ではかかる曲や踊り方も異なり、新宿がヒット曲中心で全員が同じ
ステップを踏むラインダンスだったのに対し、六本木は新しいファンク、ソウル
がかかり踊り方も自由だった。
しかし、この翌年あたりから六本木のディスコもミーハー化して行く。
(1975年にディスコでかかった曲)
●カール・ダグラス「Kung Fu Fighting」→カンフー・ダンス(バカっぽい)
●アース・ウインド&ファイアー「Shining Star」
●スタイリスティックス「Can't Give You Anything (But My Love)」
●KC&ザ・サンシャイン・バンド「That's the Way (I Like It)」
●シルバー・コンベンション「Fly Robin Fly」
●ヴァン・マッコイ&ソウルシティ・シンフォニー※
「The Hustle」「Disco Baby」→ハッスルというステップが流行。
↑ヴァン・マッコイ&ソウルシティ・シンフォニー「The Hustle」が聴けます。
↑シングル盤の裏にはステップの解説が。これじゃ小学生のお遊戯レベル。
当時、新宿では独自の腰を低くする変な踊り方が流行っていた。
アメリカのミュージックビデオでは、ぜんぜん違う踊り方をしてるが。
アメリカのドラマ「アリー my Love」でもこの曲で踊るシーンがあるが、
ラインダンスでものすごく簡単なソウルチャチャであった。
↑関連動画でPerfumeのカヴァーが出てきた。ポップな解釈で新鮮。
※ヴァン・マッコイは黒っぽさとポップのバランス感覚が素晴らしかった。
その点ではクインシー・ジョーンズと同じと言えるかもしれない。
※ソウルシティ・シンフォニーはニューヨークの一流ミュージシャンが参加。
ゴードン・エドワーズ(bs)スティーヴ・ガッド(ds)リチャード・ティー
(kb)エリック・ゲイル(9)ジョン・トロペイ(g)。悪いわけがない。
トロペイ以外の4人はコーネル・デュプリー(g)を加え、ジョー・コッカー
のバックバンドを経てスタッフ名義での活動を開始する。
スタッフの2枚目のアルバム「More Stuff」(1977)はヴァン・マッコイが
プロデュースした。
<1976年-ディスコ・ブームの多様化、歌謡曲にもディスコ・ソング>
六本木スクエアビルは床面積が狭い地下2階、地上10階建ての雑居ビル。
2台のガラス張りエレベーターが有名で、夜の六本木のランドマークだった。
エレベーターに乗ると不思議な高揚感があった。
前述のキャステル以降、ネペンタ、フーフー、ギゼ、チャクラマンダラ、
レオパードキャット、マジックなどが次々と開店。
ほとんどのフロアがディスコで、ディスコ・ブームの象徴となった。
お金持ちは外側の階段を降りてキャステルへ、それ以外の人はエレベーター
で上階のディスコのどこかへ。スクエアビルにもカースト制があった。
差別化が難しくなった新宿や渋谷の大型ディスコは、低価格路線や飲み放題
・食べ放題が一般化し。学生や低賃金労働者などを取り込もうとする。
その究極形が吉祥寺にできたインデペンデントハウスだった。
時間制(10分200円で飲み放題・食い放題)が売りの格安ディスコ。
食べ物はビュッフェ形式だが、焼き蕎麦の屋台まであり、学園祭のノリ。
中央にはやぐらが組まれ、ディスコというより盆踊り大会だった。
(1976年にディスコでかかった曲)
●KC&ザ・サンシャイン・バンド「Shake Your Booty」
●ミラクルズ「Love Machine」
●ワイルド・チェリー「Play That Funky Music」
●トランプス「Disco Inferno」
●ヒートウェイヴ「Boogie Nights」
●リッチー・ファミリー「The Best Disco In Town」
●シルヴァーズ「Hotline」
●ドナ・サマー※「Try Me I Know We Can Make It」
※ドナ・サマーは「Queen of Disco」と呼ばれ一世を風靡。
アルバム「A Love Trilogy」は1曲が長く延々と踊れるので人気だった。
↑ドナ・サマーの「Try Me I Know We Can Make It」が視聴できます。
<1977年-R&Bからブラコンへ、アメリカ以外からもヒットが誕生>
R&B色が薄れ、フュージョンやAOR色の強い、洗練されたブラック・コンテ
ンポラリーがディスコでも中心になる。欧州の白人グループもヒット。
ABBA、バカラ、ノーランズ(1980年)はキャンディ・ポップと呼ばれた。
「Dancing Queen」は世界的な大ヒットとなり、サブカルだったディスコ
をメインストリームに押し上げた。
(1977年にディスコでかかった曲)
●スティーヴィー・ワンダー「Isn't She Lovely?(可愛いアイシャ)」
●ラブマシーン「Desperately」
●アース・ウインド&ファイアー「Fantasy」
●エモーションズ「Best Of My Love」
●ボニー M.「Sunny」
●ヒートウェイヴ「Boogie Nights」
●ABBA「Dancing Queen」※スウェーデン発、世界的ヒット
●バカラ「Yes Sir, I Can Boogie」※ドイツの女性2人組、ABBAのパクリ?
●ホットブラッド「Soul Dracula」※フランスのグループの企画モノ
※「Soul Dracula」はいわゆるキワモノ。この曲がかかるとフロアを去った。
↑エモーションズの「Best Of My Love」が視聴できます。
<1978年-サタデーナイト・フィーバーの影響でディスコブーム>
映画「サタデーナイト・フィーバー」が空前の大ヒット。
世界的なディスコ・ブームを巻き起こし、大きなうねりのような社会現象
となった。
このエポックメイキングな映画はディスコ史を語る上で、最も重要だと思う。
できれば改めて取り上げたいと思う。
映画が商業的成功を収めただけでなく、劇中で使われたビージーズの曲、
イヴォンヌ・エリマンの歌もヒット。
2枚組サウンドトラック盤はビルボード24週連続1位のメガヒットを記録。
グラミー賞最優秀アルバム賞を獲得した。
アース・ウインド&ファイアー、シック、シェリル・リンは都会的で洗練さ
れた、ディスコ以外の様々なシーンで聴ける大人の音楽として人気だった。
ディスコブームは音楽界全体に影響し、ローリングストーンズやロッド・
スチュアートなどのロックまでもがディスコ・サウンドの影響を受けた。
(1978年にディスコでかかった曲)
●ビージーズ「Stayin' Alive、Night Fever、You Should Be Dancing」
●イヴォンヌ・エリマン「If I Can't Have You」
●アース・ウインド&ファイアー「September」
●シック※「Le Freak」
●シェリル・リン「Got To Be Real」
●ローリングストーンズ「Miss You」
●ロッド・スチュアート「Da Ya Think I'm Sexy ?」
●バリー・マニロウ「Copacabana」
●アラベスク「Hello Mr. Monkey」※ドイツの女性トリオ
●レイフ・ギャレット「I Was Made For Dancin'(ダンスに夢中)」
↑シックの「Le Freak」が視聴できます。
※シックの中心メンバー、ギターのナイル・ロジャースとベースのバーナ
ード・エドワーズはもともとジャズ畑のミュージシャン。
2人はプロデューサーとして活躍。
(1977年にディスコでかかった曲)
●スティーヴィー・ワンダー「Isn't She Lovely?(可愛いアイシャ)」
●ラブマシーン「Desperately」
●アース・ウインド&ファイアー「Fantasy」
●エモーションズ「Best Of My Love」
●ボニー M.「Sunny」
●ヒートウェイヴ「Boogie Nights」
●ABBA「Dancing Queen」※スウェーデン発、世界的ヒット
●バカラ「Yes Sir, I Can Boogie」※ドイツの女性2人組、ABBAのパクリ?
●ホットブラッド「Soul Dracula」※フランスのグループの企画モノ
※「Soul Dracula」はいわゆるキワモノ。この曲がかかるとフロアを去った。
↑エモーションズの「Best Of My Love」が視聴できます。
<1978年-サタデーナイト・フィーバーの影響でディスコブーム>
映画「サタデーナイト・フィーバー」が空前の大ヒット。
世界的なディスコ・ブームを巻き起こし、大きなうねりのような社会現象
となった。
このエポックメイキングな映画はディスコ史を語る上で、最も重要だと思う。
できれば改めて取り上げたいと思う。
映画が商業的成功を収めただけでなく、劇中で使われたビージーズの曲、
イヴォンヌ・エリマンの歌もヒット。
2枚組サウンドトラック盤はビルボード24週連続1位のメガヒットを記録。
グラミー賞最優秀アルバム賞を獲得した。
アース・ウインド&ファイアー、シック、シェリル・リンは都会的で洗練さ
れた、ディスコ以外の様々なシーンで聴ける大人の音楽として人気だった。
ディスコブームは音楽界全体に影響し、ローリングストーンズやロッド・
スチュアートなどのロックまでもがディスコ・サウンドの影響を受けた。
(1978年にディスコでかかった曲)
●ビージーズ「Stayin' Alive、Night Fever、You Should Be Dancing」
●イヴォンヌ・エリマン「If I Can't Have You」
●アース・ウインド&ファイアー「September」
●シック※「Le Freak」
●シェリル・リン「Got To Be Real」
●ローリングストーンズ「Miss You」
●ロッド・スチュアート「Da Ya Think I'm Sexy ?」
●バリー・マニロウ「Copacabana」
●アラベスク「Hello Mr. Monkey」※ドイツの女性トリオ
●レイフ・ギャレット「I Was Made For Dancin'(ダンスに夢中)」
↑シックの「Le Freak」が視聴できます。
※シックの中心メンバー、ギターのナイル・ロジャースとベースのバーナ
ード・エドワーズはもともとジャズ畑のミュージシャン。
2人はプロデューサーとして活躍。
シスター・スレッジ、マドンナ、ダイアナ・ロス、デヴィッド・ボウイ、
パワー・ステーションを手がけヒットさせた。
ドラムのトニー・トンプソンは黒人でありながら縦ノリのヘヴィーな8ビ
ートも叩けるため、多数のロックのアーティストのバックを務めた。
<1979年-サーファーディスコ、音楽はブラコン中心になる>
ハマトラ流行 原宿歩行者天国に竹の子族出現、サーファー・ブームの中、
六本木にサーファー・ディスコ、キサナドゥが開店。
(キサナドゥは1年半で改装しナバーナになるが閉店。1980年、跡地にレ
キシントン・クイーンが開店。男性客だけの入店不可、服装チェックあり。
マドンナなど海外アーティストが来日の際、立ち寄る店として有名だった)
老舗のメビウスもサーファー・ディスコ、レオパード・キャットとなる。
同じく老舗のビブロスはその名を残して営業していたが、客層は一変。
サーファーでごった返し状態でガラが悪くなる。ステータスもなくなる。
他の店もサーファー・ディスコ化。ヤンキーやマッチョもサーファー・
ファッションを真似するようになり紛らわしくなる。
(1979年にディスコでかかった曲)
●マイケル・ジャクソン「Don't Stop 'Til You Get Enough」
「Rock With You」「Off The Wall」
●アース・ウインド&ファイアー「Boogie Wonderland」
●ヴィレッジ・ピープル「Y.M.C.A.、In The Navy」
※「Y.M.C.A.」は西城秀樹、「In The Navy」はピンクレディーがカヴァー。
●ABBA「Summer Night City、Gimme! Gimme! Gimme!、Voulez-Vous」
●エレクトリック・ライト・オーケストラ「Last Train to London」
●クルセーダーズ「Street Life」※歌はランディー・クロフォード。
●ドゥービー・ブラザーズ「What A Fool Believes」
●KISS「I Was Made For Lovin' You」
マイケルの3曲はクインシー・ジョーンズのプロデュースによる大ヒット・
アルバム「Off The Wall」から。(次作「Thriller」への布石となる)
↑マイケルの「Don't Stop 'Til You Get Enough」が視聴できます。
アース・ウインド&ファイアーの「Boogie Wonderland」はフィリー・
ソウルをにコンテンポラリーな演奏を加えたような感じだ。
この年の新しい風はゲイを売りにしたヴィレッジ・ピープルだろうか。
AOR化したドゥービーズやKISSもディスコと親和性が高い。
ジャズ系のクルセーダーズは1曲ゲスト・ボーカルを入れて成功した。
この他テクノを取り入れたグループの癇に障る曲もあった。
<補足:1980年以降-ディスコの隆盛と衰退>
1980年、六本木スクエアビルにギゼ開店。お立ち台と寿司バーを設置。
ブラザーズ・ジョンゾンの「Stomp」、マイケルの「Rock With You」、
ジョージ・ベンソンの「Give Me The Night」とクインシー・ジョーンズ
がプロデュースした曲が立て続けにヒットしディスコでも人気。
レイ・パーカーJr.&レイディオの「It's Time To Party Now」など、ブラ
コンがメジャーでヒットしディスコでもヘビロテだった。
1982年、原宿に日本初のクラブ、ピテカントロプス・エレクトスが開店。
アートギャラリーを併設。キース・ヘリング、バスキア、デペッシュ・モード
、UB40、ブライアン・フェリーとデヴィッド・バーンも来店した。
1983年カフェバー・ブームでディスコ冬の時代。
六本木の喧騒に嫌気がさした遊び人たちは、西麻布や飯倉、原宿と渋谷の間
など一般人が行かない隠れ家的なカフェバーに集うようになる。
そうした店ではファンカ・ラティーナやレゲエ、1960年代のアートロック
やプログレなどをかけていて、AORやブラコンに辟易した耳に新鮮だった。
ダンスフロアを設けてる店もあったが、風俗営業ではないため摘発されては
しばし営業停止を繰り返していた。
↑西麻布のレッドシューズ
一般ディスコでもブラック・ミュージック離れ現象がが起きていた。
一般ディスコでもブラック・ミュージック離れ現象がが起きていた。
ポリスの「Every Breath You Take」、カジャグーグーの「Too Shy」、
カルチャークラブの「Karma Chameleon(カーマは気まぐれ」、ポリス
の「Every Breath You Take」、デヴィド・ボウイの「Let's Dance」、
デュラン・デュランの「The Reflex」、ワム!の「Club Tropicana」
デュラン・デュランの「The Reflex」、ワム!の「Club Tropicana」
などイギリス勢が主流になる。R&B、ソウルはいずこへ?
メリサ・マンチェスターの「You Should Hear How She Talks About
You」、ラヴァーボーイ「Working for the Weekend」、アイリーン・
キャラの「What a Feeling(フラッシュダンス)、マドンナの「Lucky
Star」「Like A Virgin」などもよくかかった。
1985年頃から小部屋のクラブができ始める。
1986年、日比谷ラジオシティ。ついに銀座にもディスコができたと話題に。
店内は宮殿をイメージし、ライオンや古代エジプト風の彫刻が配置された。
巨大ミラーボール、数々のライトが大理石を敷き詰めたダンスフロアを照らす。
会社帰りのサラリーマンとOLで大盛況。ネクタイ着用が求められた。
同年、青山キング&クイーン開店。マハラジャ出店ラッシュ。
1987年、六本木にトゥーリアがオープン。山本コテツ氏がプロデュース。
近未来惑星に不時着した宇宙船をイメージ。
翌年、照明落下事故で3名の死者を出し閉店。
事故により照明は売りだったバリライトではなく国産であることが発覚。
また、六本木ディスコ族の実態が明るみに出た。
1991年、同じく芝浦にメガディスコのジュリアナ東京がオープン。
お立ち台で踊る女性たちの姿はバブル経済の象徴となった。
お立ち台で踊る女性たちの姿はバブル経済の象徴となった。
1992年、神楽坂にツインスターが開店。ハイテクとレトロが同居した空間。
1994、六本木ヴェルファーレ開店。
1995年、渋谷・円山町を中心に小箱のクラブ、DJバーが出現。
ヒップホップ、ハウス、テクノを好む若者が集う。ディスコは時代遅れになる。
DJバーが集まる街へと姿を変えて行った。
<参考資料:History of Disco、ディスコの歴史、The list of DISCO、
1970年代のディスコフィーバー、Wikipedia、Youtube、他>
※個人のブログやSNSに掲載された写真も使わせていただいてます。
問題がある場合はすぐに削除しますのでご一報ください。
12 件のコメント:
こんにちは。
イエロードッグさんの記事はボリュームが多くてなかなか先に読み進めないのですが(笑)
私は音楽を時系列に整理して、イエロードッグさんほど深くないですが、作品が誕生した
バックボーンをサブカル的な視点で調べ知識を蓄えながら聴くのが好きなのですが、
昨年、P-Funkを中心としたにわかなファンクマイブームが起こり
何故、80年頃にファンクが失速してしまったのだろう?ということを探っているうちに
「ディスコ排斥運動の貰い事故」という結論に達しましたのでご参考までにリンクを
貼らせていただきましたので、今後予定されている?「サタデーナイトフィーバー」ネタの
参考資料としてご笑照ください。
縞梟さん
コメントをいただきありがとうございます。
いつも調べてるうちについ長くなってしまうんですよ。脚注に逃してるんですが。
そうですね。本当は時系列かつ体系的にまとめた方がいいと思います。
そうなるとブログという形式よりもサイトの方が向いてるでしょうね。
音楽のストライクゾーンはそんなに広くないし、好き嫌いもあるので、何か「切り口」
があった時にそこにフォーカスして書く、という極めてマイペースです(笑)
さて、ファンクの失速。。。「ディスコ排斥運動」のことは知りませんでした。
リンクがどこか見つけられなかったのですが、ググってみて概要を知りました。
もともとマイノリティーのサブカルであったはずのディスコがメインストリームに
なって流行りすぎて、従来のロックなど多様なフォーマットのラジオ局のDJたちを
失業に追い込み、ディスコはダサい、ディスコ排斥運動が起きたわけですね。
ビートルズ排斥運動もそうですが、アメリカの保守層のマグマのような怒りと暴動
は我々にはちょっと理解不能ですね。
1970年台後半以降のファンクの失速は、R&Bからブラコンへ、ABBAやバカラの
ようなキャンディポップ、AOR化したロックがディスコの主流になったことが主要因
かなと思ってました。
大きな転換点がサタデーナイト・フィーバーです。
もともとRSOのロバート・スティングウッドの企画で、RSO所属のビージーズに
音楽をやらせることが最初から前提でした。
英国の白人グループの音楽がディスコ・ブームを頂点まで押し上げてしまいました。
もう一つ、あの映画は格差社会を描いてます。
トラボルタが演じた主人公はブルックリンの塗装屋で週末のディスコが唯一の娯楽。
ブルックリン橋の袂からマンハッタンの摩天楼を眺めるシーンがありますよね。
トラボルタはブルックリンを出ることを誓うんですが、映画を見た人の多くは単純
にディスコ=青春と捉えブームになっちゃたんじゃないでしょうか。
そしてヴィレッジ・ピープル。
マイノリティーであったゲイのグループが一躍ディスコ音楽のトップに立ちます。
アメリカの保守層の反感を買ったんじゃないか、という気がします。
推測ですが、これもディスコ排斥運動を焚きつけた一要因かもしれないですね。
こんにちは。
リンクは本コメントの私の名前をクリックすると飛ぶようになっているようですが
一応書いておきます。
http://musicnightwhisper.blog.fc2.com/blog-entry-5219.html
>ブログという形式よりもサイトの方が向いてる
もしイエロードッグさんのビートルズに対する無限の知識と愛情を時系列かつ体系的に整理したら
ネットで読めるビートルズ大辞典になるでしょうね。
ただイエロードッグさんのブログに注文をつけるわけではありませんのでご安心を(笑)
私のブログはアルバムデータベースを構築することを目的としていますので
書いた記事を不定期にアルバム制作日or発売日に置き換えています。
(例:Live In Japan記事)
http://musicnightwhisper.blog.fc2.com/blog-category-17.html
私も普段は思いつきの切り口で脈絡なく記事を書くのですが、時々思いっ立ったように
プチ特集をやることがあり(現在、昨夏頃からハードバップ特集をやっています)、
最初からかしこまって聴き進めるのは好き嫌いやその時の自分の気分などに大きく左右され、
書き続けるのはかなりしんどく、マイルスやコルトレーンを大風呂敷広げて書き続けていると
単なる義務感にさいなまれ事務的な記事になってしまい何度も挫折しましたが
こうすることでアルバム制作前後の思わぬ関連性(人脈の流れ)を発見することがあり
又その関連性を辿っているうちにどんどん横道に逸れて行ったりと今まで全く興味のなかった
音楽に辿り着ける楽しみがあることをご報告いたします。
(ファンクなど全然聴いたことのない私がたまたまビル・ラズウェルさん関連作品を
聴いているうちにどんどん収集のつかないファンク大特集になってしまいました(笑)
イエロードッグさんの記事を読むと世代や文化などサブカル視点で書かれているようですので
ご存じかもしれませんがNHKの「世界サブカルチャー史」はとても面白いので
お時間がありましたら是非ご覧ください。
https://www.nhk.jp/p/ts/GLP33Y7513/
縞梟さん
あ、名前をクリックすれば飛ぶんですね。失礼しました。
>もしイエロードッグさんのビートルズに対する無限の知識と愛情を時系列かつ体系的に整理したら
ネットで読めるビートルズ大辞典になるでしょうね。
いえ、知識はないですよ。
ただ興味がある点についてはとことん調べます。
書いてしばらく経つと忘れる。また調べる。
たまに検索してると自分のブログが出てくることがあります(笑)
知りたいのはスタジオで4人が何をしてたのか?
作曲〜アレンジの経緯、音作りの秘密です。
来日についても、個人の思い入れとか青春だった、ばかりですよね。
それより公演に関する「現場寄りの事実」が知りたいわけです。
マイクのアンプはどうしてたのか?楽器の出音とのバランスはどう取ったのか?
なぜAC-100から7120に変えたのか?録画は2inchVTRで行ったのか?とか。
東郷かおる子が「どうでもいい、男のロックはめんどうくさい」と吐き捨てる
ような部分に興味があるんです。
>思わぬ関連性(人脈の流れ)を発見することがあり
又その関連性を辿っているうちにどんどん横道に逸れて行ったりと今まで全く興味のなかった
音楽に辿り着ける楽しみがある
それはありますね。
縞梟さんのブログを拝見していて、すごく広範囲に網羅されてるのに驚き
ましたが、興味の対象が違う面もある(当然ですけど)と思いました。
縞梟さんが取り上げているのは通好みのアーティストが多いですね。
それと掘り下げ方が深いです。
ところで縞梟さんのブログにコメントを入れようとしたら「不正な投稿と
判断されました」と弾かれてしまいました。
クッキーやキャッシュを削除し何回か試みるもまた駄目。
明日、改めて挑戦してみますね。
こんにちは。
私はビートルズは勿論後追いですし、ベンチャーズは完全にスルーしていますので
イエロードッグさんの次世代(ハードロック~プログレ)ですね。
ご指摘の通り通好みと言えば聞こえがいいですが、例えばビートルズとかでこちらのような
膨大な記事を読んでしまうと、書くことがないというか、まぁ一種の逃げですけど(笑)
あまり皆さんの扱わないアーチストを掘り下げているものでコメントも年に数回ほどしかなく(苦笑)
あまりに気にしてなかったのですが私のブログ時々そういうエラーが起こるようで、
以前同じ指摘をいただいたのですが原因がわからず、数日たったら直ってたみたいなことも
多々あります。
ただリンクurlとか英文字羅列とかはもしかしたらエラーではじかれるかもです。
それでは私の本記事よりも長いコメントを気長にお待ちしております!
(追記)
原因は不明ですが迷惑コメントとしてはじかれてしまっていましたので
修正しました。ご迷惑おかけしました。
縞梟さん
私のブログもコメントを入れようとして拒否られたという人が多いです。
「ロボットじゃない」の写真選択でつまずくのかなと思ってましたが、
自分自身もコメントを入れられない時があります。
原因不明。ブラウザとの相性みたいなものがあるのか。。。
私は入り口が加山雄三→タイガース→モンキーズでしたからミーハーです。
ビートルズは解散前の2年はリアルタイムで聴いてました。
あとクリーム、ツェッペリン、ピンクフロイド、EL&P、パープル。
その後はイーグルス、ドゥービー、ジャクソン・ブラン、ジェイムス・テイラー
リンダ、などウエストコースト系。クラプトンのレイドバック時代。
でもスワンプやR&Bは詳しくない。
ザ・バンドもライ・クーダーもいい仕事してるなーとは思うけど、どうも
愛聴盤にならない。昔から通な人たちからはお叱りを受けます(笑)
ベンチャーズは小学生で耳にしたくらいで、実は後体験なんですよ。
チェット・アトキンスが好きで、マール・トラヴィス、マルセル・ダディ、
などフィンガーピッカーのインストを聴くようになってからノーキー・
エドワーズも聴き出して。
ベンチャーズ→振り出しの加山雄三に戻るになりますね(笑)
チェットのことも書きたいのですが、膨大過ぎて今のところクリスマス・
アルバムのことしか書けてません。
縞梟さん
こんにちは。完全削除はされてなかったんですね。
蘇生していただきありがとうございます。
さきほど追加でコメントを入れたらまた不正投稿になりました。
(イーノの記事についての続きです)
FC2との相性なんですかね?(使ってるブラウザはSafariです)
何度も申し訳ありません。
原因不明ですが、再び迷惑コメントに振り分けられていましたので
修正しました。
しばらく「コメント承認制」に変えて様子をみようと思いますが
又エラーが起こる場合は教えていただけると幸いです。
こんにちは。
奇遇ですが、今スティーヴ・ハウさんの記事を再編集してまして
その作業からハウさんが影響を受けたチェット・アトキンスに
興味の枝葉がからみつき2月中旬頃から記事をUPする予定ですので
至らぬ点はフォローアップしてくださると幸いです。
縞梟 さん
何度もお手数をおかけしてすみません。
今回は少なくとも拒否rされていないようです。
縞梟さん
イエスの頃はプログレは聴かなくなってたので、スティーヴ・ハウ
もよく知らないのですが、実はフィンガーピッキングの名手でも
あるという話はよく読んだり聞いたりしてました。
1950年代のマーティン00-18が彼の愛器で、20年くらい前でしょうか
マーティンがそのリイシュー00-18SHを発売した時は検討しましたよ。
なにしろ老後は00-18とギブソンのB-25の2台と決めてたので(笑)
試奏してみてVネックだったので00-18SHは断念しましたけどね。
スティーヴ・ハウがチェットの影響を受けてたとは知りませんでした。
縞梟さんの記事を心待ちにしてます。
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