<CCRのライヴ最高傑作と言われるロイヤル・アルバート・ホール>
クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)のライヴ・アルバム
「Creedence Clearwater Revival At The Royal Albert Hall」が
クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)のライヴ・アルバム
「Creedence Clearwater Revival At The Royal Albert Hall」が
発売された。
1970年4月14日ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのライヴ音源を
収録したものであるが、これまで幻の存在と言われていた。
1970年4月14日ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのライヴ音源を
収録したものであるが、これまで幻の存在と言われていた。
それって発売されてたんじゃなかったっけ?と思う方も多いだろう。
確かに1980年に「The Royal Albert Hall Concert(邦題:ライヴ・イン・
ロンドン'70)」というアルバムがリリースされている。
実は1970年1月31日カリフォルニア州オークランド・コリセウム公演のライヴ
音源を間違えて発表してしまったことが、発売後に判明。
アメリカのレコード会社がWE GOOFED!(やっちゃいました!)と書かれた
ステッカーを貼って店頭に並べた、という逸話がある(笑)
(このアルバムは現在「The Concert(ザ・コンサート)」と改題されている)
本物のロイヤル・アルバート・ホールの音源はマルチトラック・テープのまま
(一度もミックスダウンされることなく)ロンドンの倉庫で約50年間保管さ
れていた。
半世紀の時を経て日の目を見ることになった貴重なテープは、ビートルズの一
連のリミックスを手がけたプロデューサーのジャイルズ・マーティンとエンジ
ニアのサム・オケールによって、丹念にレストア(復元)され、ミックス(1)、
マスタリングが行われた。(2)
(収録曲)
1. Born on the Bayou
2. Green River
3. Tombstone Shadow
4. Travelin’ Band
5. Fortunate Son
6. Commotion
7. Midnight Special
8. Bad Moon Rising
9. Proud Mary
10. The Night Time Is the Right Time
11. Good Golly Miss Molly
12. Keep on Chooglin’
12曲で45分前後は短いように思えるが、当時はこれくらいが普通だったのか。
Suzie Q、I Put A Spell On You、Down On The Corner、Who'll Stop
The Rainは演奏されなかったのか、録音されたが編集でカットされたのか?
(尚、このコンサートが行われた1970年4月時点でHave You Ever Seen
(尚、このコンサートが行われた1970年4月時点でHave You Ever Seen
The Rain、Hey Tonight、Sweet Hitch-Hiker、Someday Never Comes
はまだリリースされてない)
さっそく全盛期のCCRの臨場感満点のライヴを聴いてみよう。
↑写真をクリックすると「Bad Moon Rising」が聴けます。
おそらく8トラックで録音されたのではないかと思う。
アメリカから機材を持参したのか、ロンドンで調達した(3)か分からないが。
ギター2台、ベース、ドラム、ボーカル、コーラス、観客に1トラックずつ
割り当てられている。
センターにドラム、ベース、ボーカル。
左右にギター2台を振り分ける、ときわめてオーソドックスなミックスだ。
それしかやりようがない。
御大ジャイルズ・マーティンが手がけるまでもない、とも言えなくもない。
それでもワイルドで野太い音、どっしりとしたバンドの一体感のある音が
再現されていて、CCRの迫力あるステージを擬似体験してる気分に浸れる。
CCRが他のバンドと違うのはレコードと同じ音をステージで出せる点。
それは彼らの演奏力の証であるが、裏返せばレコーディング自体がライヴ
と同じシンプルな4人編成で行われているということだ。
CCRの音楽はいい意味で原始的なロックであり、それゆえ聴く人を喜び
と興奮へと駆り立てるのだろう。特にライヴでは。
11月に2CD+Blue-Ray+2LPのボックスセットも発売されるらしい。
(CD2は本CDに収録されてない曲が聴けるのか?別な日の公演収録か?
Blue-Rayは映像ではなくオーディオと思われる)
また本作に合わせ北米とイギリスでは、ドキュメンタリー・コンサート
長編映画「トラヴェリン・バンド」が同時公開される。
11月に2CD+Blue-Ray+2LPのボックスセットも発売されるらしい。
(CD2は本CDに収録されてない曲が聴けるのか?別な日の公演収録か?
Blue-Rayは映像ではなくオーディオと思われる)
また本作に合わせ北米とイギリスでは、ドキュメンタリー・コンサート
長編映画「トラヴェリン・バンド」が同時公開される。
映画はバンドの初期時代から名声を得るまでの急成長の過程を描いている。
豊富な未公開映像を含み、ロイヤル・アルバート・ホールでのライヴ映像
も初めて公開される。
↑写真をクリックすると「Proud Mary」のライヴ映像が視聴できます。
<なぜロイヤル・アルバート・ホールが最高傑作と言われるのか?>
CCRは1969年だけで3枚のスタジオ・アルバムを発表。
ウッドストック・フェスティヴァル、エド・サリヴァン・ショーにも出演。
シングル5枚、アルバム3枚がトップ10入りのヒット。
ローリングストーン誌は彼らを「最高のアメリカン・バンド」と評した。
商業的成功だけでなくCCRはアメリカのロックの象徴でもあった。
CCRはカリフォルニア出身だが、彼らの音楽は南部色豊かな泥臭いスワンプ
・ロック(4)であり、保守層やブルーカラーなど幅広い層に支持された。
100マイル走っても景色が変わらない国道をデカいアメ車を転がしながら、
あるいはハーレーに跨って、あるいは大型トレーラーを運転しながら聴くの
に最高の音楽だ。
CCRは海外でも売れた。
今ではあまり語られることが少ないが、日本でもCCRへの期待値がツェッペ
リンと同じくらい高く、ポスト・ビートルズと見做された時期があった。
(写真:gettyimages)
全米を代表するロックバンドとなったCCRは1970年春に初のヨーロッパ・
ツアーを行う。
彼らはロンドン公演をツアーの成功度を計る試金石と位置づけていた。
ロンドンでの2公演はソールドアウト。4人の演奏も絶好調で観客は総立ち。
最後の曲が終わっても誰も帰ろうとせず、スタンディング・オヴェーション
が15分間も続いたという。(5)
翌日、タイムズ、NMEなど有力音楽誌は「CCRは世界で最も偉大なロック
ンロール・バンドであることを証明した」絶賛した。
ロンドンでの2公演はソールドアウト。4人の演奏も絶好調で観客は総立ち。
最後の曲が終わっても誰も帰ろうとせず、スタンディング・オヴェーション
が15分間も続いたという。(5)
翌日、タイムズ、NMEなど有力音楽誌は「CCRは世界で最も偉大なロック
ンロール・バンドであることを証明した」絶賛した。
ロンドン公演は彼らにとっては特別な意味を持つものだった。
CCRのドラマーだったダグ・クリフォードは次のように語っている。
「当時世界で一番人気があったのがビートルズ。我々は二番目だね。だから
勝手にライバル視して(ロンドン公演は)敵陣に斬り込むつもりでいた。
ビートルズに敬意を持ってたから、彼ら以上のライヴをやろうとしたんだ」
だが皮肉なことに、ロンドンに到着した彼らを待っていたのは「ビートルズ
が解散した」というニュースだった。4人はショックを受ける。
その結果ロンドン公演はエモーショナルなライヴ・パフォーマンスとなった。
前述の1月に行われたオークランドでのライヴの出来もいいが、ロイヤル・
アルバート・ホールの方がさらに良いライヴだった、とダグも認めている。
↑写真をクリックすると「Midnight Special」が聴けます。
<CCRの来歴、下積み時代〜4年の短い活動期間でヒットの連発>
CCRが大物バンドになる10年前の1959年、カリフォルニアのバークレー
でまだティーンエージャーだったジョン・フォガティ(g,vo)ダグ・クリフ
ォード(ds)ステュ・クック(b)による3人編成のバンドが誕生。
彼らは当時のヒット曲、ロックンロール、R&Bを演奏していた。
ジョンの兄、トム・フォガティ(g)が加入し4ピース・バンドとなる。
彼らは当時のヒット曲、ロックンロール、R&Bを演奏していた。
ジョンの兄、トム・フォガティ(g)が加入し4ピース・バンドとなる。
人気はさっぱりで他の仕事で稼ぎながらの財政難のバンド活動であった。
1966年ジョンとダグの二人が徴兵され、バンドは解散状態に。
1967年、二人が兵役を終え戻りバンドは再結成された。
この時バンド名を「Creedence Clearwater Revival」と改める。
Creedenceは彼らの共通の友人の名前、ClearwaterはビールのCMから、
再結成のRevival、を繋げたものだが、当時カリフォルニアで長いバンド名
が流行っていた(7)影響もあるだろう。
そうした長い名前のバンド多くがサイケデリック、アート志向であったが、
CCRのサウンドはそれらと対極にある。
ストレートなロックンロールへの原点回帰であり、アメリカ南部の泥臭さ。
そのブレない音楽性が受けたのかもしれない。
再デビュー曲「Susie Q」(デイル・ホーキンスのカヴァー)、スクリー
ミン・ジェイ・ホーキンズのカヴァー曲「I Put A Spell On You」はブルース
・ロックでサンフランシスコ・ベイエリアやシカゴのラジオ局でもオンエア
された。
1966年ジョンとダグの二人が徴兵され、バンドは解散状態に。
1967年、二人が兵役を終え戻りバンドは再結成された。
この時バンド名を「Creedence Clearwater Revival」と改める。
Creedenceは彼らの共通の友人の名前、ClearwaterはビールのCMから、
再結成のRevival、を繋げたものだが、当時カリフォルニアで長いバンド名
が流行っていた(7)影響もあるだろう。
そうした長い名前のバンド多くがサイケデリック、アート志向であったが、
CCRのサウンドはそれらと対極にある。
ストレートなロックンロールへの原点回帰であり、アメリカ南部の泥臭さ。
そのブレない音楽性が受けたのかもしれない。
再デビュー曲「Susie Q」(デイル・ホーキンスのカヴァー)、スクリー
ミン・ジェイ・ホーキンズのカヴァー曲「I Put A Spell On You」はブルース
・ロックでサンフランシスコ・ベイエリアやシカゴのラジオ局でもオンエア
された。
「Susie Q」は全米11位を記録。
続く「Proud Mary」は全米2位のヒットとなった。
Bad Moon Rising、Green River、Down On The Corne、Travelin' Band、
Lookin' Out My Back Door、と全米2〜3位のヒットを立て続けに放つ。
さらに、Fortunate Sun(14位))、Who'll Stop The Rain(13位)とB面曲
もヒットさせる、という快挙(8)も彼らは成し遂げている。
続く「Proud Mary」は全米2位のヒットとなった。
Bad Moon Rising、Green River、Down On The Corne、Travelin' Band、
Lookin' Out My Back Door、と全米2〜3位のヒットを立て続けに放つ。
さらに、Fortunate Sun(14位))、Who'll Stop The Rain(13位)とB面曲
もヒットさせる、という快挙(8)も彼らは成し遂げている。
基本的に彼らはアルバム・セールスのバンドではなくシングル・ヒットを
狙うバンドだった。
コンセプト・アルバム、アルバムで売って行くのが時流だった1970年代初
頭に、CCRはシングルを次々リリースしヒットさせるスタイルであった。
その点においても昔ながらのロックンロール・バンドだったと言える。
快進撃を続けたCCRだが、4年余りの活動で解散してしまう。
原因はほとんどの楽曲の作曲、ボーカル、リードギターを担当したジョン
・フォガティのワンマンぶりで、メンバー間の軋轢が生じたためだ。
1971年にはマネージャーも兼任していたトムが脱退(9)し3人編成となる。
7枚目のアルバム「Mardi Gras」(1972)では他メンバーが手がけた曲、
ジョン以外のボーカル曲を入れて再起を図る(10)が結局、解散した。
その頃にはツェッペリンが全米ツアーで動員記録を塗り替え、世界一のス
ーパー・ロックバンドとして君臨していた。
<コンサバティブな音楽性とリベラルなメッセージ性>
CCRがアメリカを代表する国民的人気バンドに上り詰めたのはなぜか?
超人的なテクニックやステージでの見せ場、見栄えはないものの、長い
下積みで培われた大地に根を生やしたようなどっしりした力強いロック
ンロールが聴衆の心を掴んだのだろう。
<コンサバティブな音楽性とリベラルなメッセージ性>
CCRがアメリカを代表する国民的人気バンドに上り詰めたのはなぜか?
超人的なテクニックやステージでの見せ場、見栄えはないものの、長い
下積みで培われた大地に根を生やしたようなどっしりした力強いロック
ンロールが聴衆の心を掴んだのだろう。
↑写真をクリックすると「Good Golly Miss Molly」が聴けます (写真:gettyimages)
そして泥臭いサウンド、4人のいかにも労働者っぽい風貌は、多くのアメ
リカ人が抱く開拓者精神や郷愁など、心の琴線を動かした。
そして泥臭いサウンド、4人のいかにも労働者っぽい風貌は、多くのアメ
リカ人が抱く開拓者精神や郷愁など、心の琴線を動かした。
保守層、労働者階級(特にレッドネックと呼ばれる白人労働者)に受ける
ということは支持層が拡がるということだ。特に南部では票を獲得できる。
それにしてもカリフォルニア出身の4人がなぜサザンロックだったのだろう?
アメリカ人でもCCRは南部出身のバンドだと勘違いしてる人もいるらしい。
それを追求し始めると、カナダ出身のザ・バンドが何でサザンロックを?
LA出身のリトルフィートがなぜニューオーリンズ・ファンクを?という
出身地と音楽の紐付けの話になってしまう。(11)
CCRは泥臭い南部のロック、スワンプが好きで自然とそうなったのだろう。
サウンドは保守層受けするサザンロックだが、CCRの歌詞には反戦という
リベラルなメッセージ性もあった。
4人の出身地バークレーは反戦運動やヒッピー文化の発祥地であり、今でも
環境問題などリベラルな活動はサンフランシスコから始まると言われる。
出してる音は泥臭い南部の土の匂いがするが、思想的にはリベラルだった
のだろうか。
またジョンとダグの二人はメジャー・デビュー前に徴兵されている。
ベトナムで戦火を見たかどうか分からないが、その経験から反戦の立場を
取っていたのかもしれない。
サウンドは保守層受けするサザンロックだが、CCRの歌詞には反戦という
リベラルなメッセージ性もあった。
4人の出身地バークレーは反戦運動やヒッピー文化の発祥地であり、今でも
環境問題などリベラルな活動はサンフランシスコから始まると言われる。
出してる音は泥臭い南部の土の匂いがするが、思想的にはリベラルだった
のだろうか。
またジョンとダグの二人はメジャー・デビュー前に徴兵されている。
ベトナムで戦火を見たかどうか分からないが、その経験から反戦の立場を
取っていたのかもしれない。
当時、米軍放出品を着るのは退役軍人だけでなく、反戦の象徴でもあった。
「Have You Ever Seen The Rain(雨を見たかい)」(1971年)は
全米8位のヒットとなった。
余談だが、高校で初めてバンドを組んだ時にこの曲をやった。
コードが簡単でテンポもゆったりしてるから初心者にはやりやすい曲だ。
が、CCRの重いグルーヴ感が出るわけない。青かったな>自分。。。
余談だが、高校で初めてバンドを組んだ時にこの曲をやった。
コードが簡単でテンポもゆったりしてるから初心者にはやりやすい曲だ。
が、CCRの重いグルーヴ感が出るわけない。青かったな>自分。。。
この曲が「ベトナム戦争の反戦歌である」という話は後から知った。
「雨」は米軍が爆撃で使ったナパーム弾のことを指してる、という説だ。
アメリカではいくつかの州で放送禁止になった。
作詞作曲者のジョン・フォガティ自身は反戦歌であることを否定している。
「ベイエリアでは陽が照ってるのに雨が降ってくることがある。
風が吹くと、ゴールデンゲート・ブリッジを超えてサンフランシスコ湾に
雨が飛ばされてくるんだ。
"Have you ever seen the rain coming down, sunny day?"
この曲はCCRの崩壊についての歌だ。"sunny day"は黄金時代のCCR。
俺たちに雨が降りかかって来るのが見えたって言ってるわけさ」
ドラムのダグは「ひとつ前のアルバム(Cosmo's Factory)に収録された
"Who'll Stop The Rain"と混同されたのではないか」と語っている。(12)
(全米2位となった「Travelin' Band」のシングルB面曲として収録され、
この曲自体も全米13位を記録しAB両面ヒットとなった)
この曲の「雨」はニクソン政権によるベトナム空爆を指しているという。
Long as I remember, The rain been comin' down
Clouds of mystery pourin' Confusion on the ground
Good men through the ages, Try'n' to find the sun
And I wonder, still I wonder, Who'll stop the rain?
俺が覚えてる限りずっと雨は降り続いてる
わけの分からない雲のせいで地上は混乱してる
善人たちは何年も太陽を見つけようとしてきた
で、俺は思うんだ 今もね 誰がこの雨を止めるんだろう?
(作詞作曲:ジョン・フォガティ 拙訳:イエロードッグ)
↑写真をクリックすると「Who'll Stop The Rain」が聴けます。
<CCRの野暮ったさ=1970年代のアメリカのロックだった>
10代の頃、バイト先の先輩(彼は日本ビクターに就職が決まってた)
から「アメリカのロックは聴かないの?」と訊かれたことがある。
僕は「聴かないですね。なんかダサいじゃないですか」と答えた。
頭のどこかではCCRをイメージしていたんだと思う。
何で木樵みたいな服装をしてるんだろう?
ギターよりチェーンソーでも持ってた方が似合うんじゃないか?
↑ジョン・フォガティはどの写真を見てもチェックのワークシャツ。
ロンドンブーツでヘソ出しの英国バンド全盛の時期に、あれはないな、
いい曲もあったけど今は違うな、と思っていた。
先輩は「そんなことはない。アメリカのロックだってカッコいいぞ」
と僕を社員休憩室に連れて行き、ジュークボックスでイーグルスの
「One Of These Nights」を聴かせてくれた。
僕は自分の思い込みが間違っていたことを認めた。
それが転機で、ウエストコースト・ロックばかり聴くようになった。
服装に関してはニール・ヤングもイーグルスも同じようなものだった。
CCRと違うのはツギハギのベルボトム、より長髪、などヒッピーイズム
を感じさせる点。(グランジにも通じる)着崩し感があった。
それがアメリカのミュージシャンなのかもしれない。
ただしジェイムス・テイラーにしてもニール・ヤングにしても、後の
世代のカート・コバーンにしても、若さゆえにいい加減な服でもサマ
になっている、という面はあった。
その点CCRの4人はメジャーデビューした時点でオッサンっぽかった。
シアーズとかランズエンドの通販かJCペニーあたりで買ってきたよう
な、おとうさんの休日的なカジュアル・ファッション。
そこが僕には「アメリカのロック=CCR=野暮ったい」と映った。
今ではそれも含めて、アメリカのロックならではの味わいと思えるが。
<脚注>
(1)ミックス
マルチトラックをデジタルデータに変換して音のバランスを整え、2チャン
ネル・ステレオまたは5.1チャンネル・サラウンドに落とし込む作業。
テープにダメージがあり音が欠落してる部分もデジタルで補正できる。
(2)マスタリング
LPはエンジニアのマイルズ・ショーウェルがアビ・ロード・スタジオでハー
フスピードでマスタリングを行ない、高品位の音質を得ている。
(3)マルチトラック・レコーダーの調達
CCRはカリフォルニア州バークレーのジャズ系レーベル、ファンタジー・
レコードの所属であるが、イギリスではデッカがディストリビューターで
あった。(ちなみに日本ではビクター・エンターテイメント)
デッカはクラシックでは名門だが、ロックでの音作りには疑問符がつく。
またイギリスの大手レコード会社は8トラックの導入が遅く、アメリカの
バンドのライヴに快く機材を貸し出してくれたとは思えない。
(4)スワンプ・ロック
スワンプとは「沼」とか「湿地帯」の意味。
アメリカ南部のルイジアナ州には広大な湿地帯があり、そこから転じて南部
の土の匂いを感じさせる泥臭い白人ロック・サウンドのことを、1969年辺り
から1970年代にかけて「スワンプ・ロック」と呼ぶようになった。
サザンロック、カントリーロックとの境界線は曖昧である。
オールマン・ブラザース・バンド、ザ・バンド、デラニー&ボニー、CCR、
J. J. ケール、レオン・ラッセル、ジェシ・エド・デイヴィスはその代表格だ。
イギリスではデイヴ・メイソン、エリック・クラプトン、ジョージ・ハリソン
、ローリング・ストーンズらがスワンプに傾倒していた。
1970年代にはLAのリトルフィート、ドクター・ジョン、ライ・クーダーが
スワンプ色の強いアーティストが活躍。
初期のドゥービー・ブラザーズも影響を受けていると思われる。
(5)5分間に及ぶスタンディング・オヴェーション
当然アンコールを期待しての行為だが、当時CCRはバンドのポリシーとして
ライヴでアンコールを行わなかった。
(6)ゴリウォッグス
ゴリウォーグ(Golliwog)は19世紀末にイギリスの児童文学・挿絵画家、
アプトンが考案したキャラクター。
1960年代以降子ども向け人形になり、黒人を表す差別的な名称となった。
"Who'll Stop The Rain"と混同されたのではないか」と語っている。(12)
(全米2位となった「Travelin' Band」のシングルB面曲として収録され、
この曲自体も全米13位を記録しAB両面ヒットとなった)
この曲の「雨」はニクソン政権によるベトナム空爆を指しているという。
Long as I remember, The rain been comin' down
Clouds of mystery pourin' Confusion on the ground
Good men through the ages, Try'n' to find the sun
And I wonder, still I wonder, Who'll stop the rain?
俺が覚えてる限りずっと雨は降り続いてる
わけの分からない雲のせいで地上は混乱してる
善人たちは何年も太陽を見つけようとしてきた
で、俺は思うんだ 今もね 誰がこの雨を止めるんだろう?
(作詞作曲:ジョン・フォガティ 拙訳:イエロードッグ)
↑写真をクリックすると「Who'll Stop The Rain」が聴けます。
<CCRの野暮ったさ=1970年代のアメリカのロックだった>
10代の頃、バイト先の先輩(彼は日本ビクターに就職が決まってた)
から「アメリカのロックは聴かないの?」と訊かれたことがある。
僕は「聴かないですね。なんかダサいじゃないですか」と答えた。
頭のどこかではCCRをイメージしていたんだと思う。
何で木樵みたいな服装をしてるんだろう?
ギターよりチェーンソーでも持ってた方が似合うんじゃないか?
↑ジョン・フォガティはどの写真を見てもチェックのワークシャツ。
ロンドンブーツでヘソ出しの英国バンド全盛の時期に、あれはないな、
いい曲もあったけど今は違うな、と思っていた。
先輩は「そんなことはない。アメリカのロックだってカッコいいぞ」
と僕を社員休憩室に連れて行き、ジュークボックスでイーグルスの
「One Of These Nights」を聴かせてくれた。
僕は自分の思い込みが間違っていたことを認めた。
それが転機で、ウエストコースト・ロックばかり聴くようになった。
服装に関してはニール・ヤングもイーグルスも同じようなものだった。
CCRと違うのはツギハギのベルボトム、より長髪、などヒッピーイズム
を感じさせる点。(グランジにも通じる)着崩し感があった。
それがアメリカのミュージシャンなのかもしれない。
ただしジェイムス・テイラーにしてもニール・ヤングにしても、後の
世代のカート・コバーンにしても、若さゆえにいい加減な服でもサマ
になっている、という面はあった。
その点CCRの4人はメジャーデビューした時点でオッサンっぽかった。
シアーズとかランズエンドの通販かJCペニーあたりで買ってきたよう
な、おとうさんの休日的なカジュアル・ファッション。
そこが僕には「アメリカのロック=CCR=野暮ったい」と映った。
今ではそれも含めて、アメリカのロックならではの味わいと思えるが。
<脚注>
(1)ミックス
マルチトラックをデジタルデータに変換して音のバランスを整え、2チャン
ネル・ステレオまたは5.1チャンネル・サラウンドに落とし込む作業。
テープにダメージがあり音が欠落してる部分もデジタルで補正できる。
(2)マスタリング
LPはエンジニアのマイルズ・ショーウェルがアビ・ロード・スタジオでハー
フスピードでマスタリングを行ない、高品位の音質を得ている。
(3)マルチトラック・レコーダーの調達
CCRはカリフォルニア州バークレーのジャズ系レーベル、ファンタジー・
レコードの所属であるが、イギリスではデッカがディストリビューターで
あった。(ちなみに日本ではビクター・エンターテイメント)
デッカはクラシックでは名門だが、ロックでの音作りには疑問符がつく。
またイギリスの大手レコード会社は8トラックの導入が遅く、アメリカの
バンドのライヴに快く機材を貸し出してくれたとは思えない。
(4)スワンプ・ロック
スワンプとは「沼」とか「湿地帯」の意味。
アメリカ南部のルイジアナ州には広大な湿地帯があり、そこから転じて南部
の土の匂いを感じさせる泥臭い白人ロック・サウンドのことを、1969年辺り
から1970年代にかけて「スワンプ・ロック」と呼ぶようになった。
サザンロック、カントリーロックとの境界線は曖昧である。
オールマン・ブラザース・バンド、ザ・バンド、デラニー&ボニー、CCR、
J. J. ケール、レオン・ラッセル、ジェシ・エド・デイヴィスはその代表格だ。
イギリスではデイヴ・メイソン、エリック・クラプトン、ジョージ・ハリソン
、ローリング・ストーンズらがスワンプに傾倒していた。
1970年代にはLAのリトルフィート、ドクター・ジョン、ライ・クーダーが
スワンプ色の強いアーティストが活躍。
初期のドゥービー・ブラザーズも影響を受けていると思われる。
(5)5分間に及ぶスタンディング・オヴェーション
当然アンコールを期待しての行為だが、当時CCRはバンドのポリシーとして
ライヴでアンコールを行わなかった。
(6)ゴリウォッグス
ゴリウォーグ(Golliwog)は19世紀末にイギリスの児童文学・挿絵画家、
アプトンが考案したキャラクター。
1960年代以降子ども向け人形になり、黒人を表す差別的な名称となった。
「醜い面相の男たち」の意味もある。
レーベル・マネージャーはCCRのメンバーの容姿からゴリウォッグスという
バンド名を思いついたらしい。
4人は顔を黒く塗ってカツラをつけて演奏させられたこともあった。
(7)カリフォルニアで長いバンド名が流行っていた。
ジェファーソン・エアプレイン(後にジェファーソン・スターシップ)
クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ビッグ・ブラザー&
ザ・ホールディング・カンパニー、バッファロー・スプリングフィールド、
クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、スライ&ザ・ファミリー・
ストーン、イッツ・ア・ビューティフル・デイ、グレイトフル・デッド、
オールマン・ブラザーズ・バンド、デラニー&ボニー&フレンズなど。
ビートルズのサージェント・ペパーズ・・・はそのパロディーである。
(8)B面曲もヒットさせる。
1960年代にシングルAB両面ヒットさせられるのはビートルズ、モンキーズ、
サイモン&ガーファンクルだけと言われていた。
1970年代初頭、CCRがそれを引き継いだとも言える。
(9)マネージャーも兼任していたトムが脱退。
ボーカルも曲間のリードギターもすべてジョン・フォガティがやっていた
ため、もう一人のギタリストのトム・フォガティはいつもバッキングで
地道にコードを弾いていた。たまにコーラスを入れることもあるが。
これでは面白くないだろう。
さらにトムは本来の演奏だけでなくマネージャーも兼任させられていた。
トムの脱退後、ジョンが新マネージャーに雇おうとしたアラン・クレインは
「ビートルズを解散させた男」として悪評高い人物だった。
(10) 7枚目のアルバム「Mardi Gras」で再起を図る。
ジョンの了解のもと、あえてジョン以外のメンバー中心で録音された。
しかしジョン中心の過去のアルバムを越えることはできなかった。
レーベル・マネージャーはCCRのメンバーの容姿からゴリウォッグスという
バンド名を思いついたらしい。
4人は顔を黒く塗ってカツラをつけて演奏させられたこともあった。
(7)カリフォルニアで長いバンド名が流行っていた。
ジェファーソン・エアプレイン(後にジェファーソン・スターシップ)
クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ビッグ・ブラザー&
ザ・ホールディング・カンパニー、バッファロー・スプリングフィールド、
クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、スライ&ザ・ファミリー・
ストーン、イッツ・ア・ビューティフル・デイ、グレイトフル・デッド、
オールマン・ブラザーズ・バンド、デラニー&ボニー&フレンズなど。
ビートルズのサージェント・ペパーズ・・・はそのパロディーである。
(8)B面曲もヒットさせる。
1960年代にシングルAB両面ヒットさせられるのはビートルズ、モンキーズ、
サイモン&ガーファンクルだけと言われていた。
1970年代初頭、CCRがそれを引き継いだとも言える。
(9)マネージャーも兼任していたトムが脱退。
ボーカルも曲間のリードギターもすべてジョン・フォガティがやっていた
ため、もう一人のギタリストのトム・フォガティはいつもバッキングで
地道にコードを弾いていた。たまにコーラスを入れることもあるが。
これでは面白くないだろう。
さらにトムは本来の演奏だけでなくマネージャーも兼任させられていた。
トムの脱退後、ジョンが新マネージャーに雇おうとしたアラン・クレインは
「ビートルズを解散させた男」として悪評高い人物だった。
(10) 7枚目のアルバム「Mardi Gras」で再起を図る。
ジョンの了解のもと、あえてジョン以外のメンバー中心で録音された。
しかしジョン中心の過去のアルバムを越えることはできなかった。
「Someday Never Comes」はいい曲だったけど。
「いつかなんて来ない」はCCRの境地だったのだろうか。
(11)出身地と音楽の紐付け。
反対にウエストコースト・ロックではグレン・フライとJ.D.サウザーがデ
トロイト出身、ドン・ヘンリーはテキサス州出身、ジェイムス・テイラー
はボストン出身、ジョニ・ミッチェルとニール・ヤングはカナダ出身、
リンダ・ロンシュタットはアリゾナ州ツーソン出身、キャロル・キングは
ニューヨーク出身、グラハム・ナッシはイギリスのランカシャー出身、
と各地からLAに集まっている。
(11)出身地と音楽の紐付け。
反対にウエストコースト・ロックではグレン・フライとJ.D.サウザーがデ
トロイト出身、ドン・ヘンリーはテキサス州出身、ジェイムス・テイラー
はボストン出身、ジョニ・ミッチェルとニール・ヤングはカナダ出身、
リンダ・ロンシュタットはアリゾナ州ツーソン出身、キャロル・キングは
ニューヨーク出身、グラハム・ナッシはイギリスのランカシャー出身、
と各地からLAに集まっている。
(12)Who'll Stop The Rain
この曲は好きだった。でも反戦歌だとは当時は思いもしなかった。
それに「Fool Stop The Rain」かと思ってた(笑)
だったら頭にTheかAが付くはずだけど、それにも気が付かず。。。
同じ頃イギリスのバンド、クリスティの「イエローリバー」が流行った。
サンシャイン・ポップと呼ばれる軽快なフォークロックだがこれも反戦歌。
南北戦争の終わりに兵士が家に帰る、という話に触発された曲だそうだ。
ベトナム戦争中に発売されたため、徴兵期間の終わりに米軍を去る兵士の
心境を歌ってると解釈され、放送禁止にしたラジオ局もあった。
(インディアナ州にはイエロー・リバーという川があるらしい)
当時の米兵たちは故郷に帰れる日を夢見てこの曲を口ずさんでいた。
<参考資料:レコードコレクターズ、amass、ユニバーサルミュージック、
udiscovermusic.jp、20世紀ポップカルチャー史とその後、Yahoo!ニュース、
サンデー銀次 スワンプ・ロックのすすめ、MUSIC LIFE CLUB、Wikipedia、
YouTube、VEVO、gettyimages、他>
2 件のコメント:
こんにちは。ジェフ・ベック経由で遊びにきました。
私の簡易な作品紹介と異なり、一つ一つの音楽ネタの深堀の奥深さと情報量の多さに
戸惑いながら(笑)少しづつ読ませていただいております。
このライヴ盤発売はコンコードがファンタジーを買収したため実現したのではないかと思いますが
バンド解散後バンドの中心人物ジョン・フォガティとファンタジーとの泥沼の法廷闘争については
ご存じかと思いますが、この影響でソロ活動でフォガティがC.C.Rの楽曲を歌えないという
異常事態が続きましたが、最新情報によると2023年1月フォガティは遂にファンタジーを
買収したコンコードの誠意ある対応でC.C.R楽曲の世界的な音楽出版権の過半数を非公開の金額で
取得したとのことです。
フォガティさんのコメント
「この1月から、また自分の曲を持つことができるようになりました。
こんなことは絶対にあり得ないことだと思っていました。50年の時を経て、
ようやく自分の曲と再会することができました。
また、自分の曲をどこで、どのように使うかについての発言権もあります。
今年まで、それは決してできなかったことでした。今年もツアーとお祝いを楽しみにしています。
このようなことを実現するために協力してくれたコンコードに感謝したい。
そして、新しいアイデアと、私の音楽への新たな関心に期待しています......
まるでリバイバルのようにね」
縞梟さん
ジェフ・ベックの件ではご協力いただき、ありがとうございました。
いえいえ。何か取り上げようと調べ出すと、改めて自分の無知さが露呈してしまい、
それで書くことが予定より増えてしまう、というのが実情です(笑)
でも、40年前に何も知らず聴いてた音楽を深掘りするというのは楽しい作業でもあります。
ロイヤル・アルバート・ホール、久しぶりの快挙と言えるいいライヴ盤でしたね!
ジョン・フォガティとファンタジーとの係争の件は知りませんでした(恥)
原盤権だけでなく楽曲出版権もファンタジーが握っていたということですね。
そういえば、ソロになってからCCRのセルフカヴァーやらない人だなー、過去への決別
なのかなー、と思ってましたが。。。
コンコードは一時スタバとヒア・ミュージックというレーベルを立ち上げて、賛同する
アーティストを集め音楽業界に新風を起こしてましたよね。
デッカ時代のストーンズの原盤権がアラン・クレインのアブコに持っていかれた件といい、
ビートルズも節税のために1966年以前の出版権を売ってしまい(ノーザンソングズ→
マイケル・ジャクソン→ソニー)自由に使えない、ポールとオノヨーコでさえ買い戻せない
件といい、まだアーティストが疎かった時代なんでしょうね。
かと思うとツェッペリンみたいにバート・ヤンシュやハウリン・ウルフ、ジェイク・ホルムズ
、マディ・ウォーターズ、サニー・ボーイ・ウィリアムソンII、アン・ブレドン(Babe
I'm Gonna Leave You)をパクって、クレジットしなかったという問題も生じました。
著作権意識が甘かったんでしょうね。
その彼らがツェッペリン・ブランドの著作権・肖像権・音源についてめちゃくちゃ厳しくて
がっつり管理してる、というのも笑える話ですが。。。
いかん、いかん、また長くなってしまいました(笑)今後もよろしくお願いします。
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