2023年12月24日日曜日

知ってるようで知らない?スパイダーズのあれこれ。

スパイダーズのメンバー、全員わかりますか?
田辺昭知、かまやつひろし、井上堯之、大野克夫、堺正章、井上順・・・
あと一人!印象が薄いですよね。ベースを担当していた加藤充です。





<グループ名>

ザ・スパイダーズだと思ってたがザ・スパイダース。スに濁点がない。(1)
でも英語Spidersの発音はスパイダーズ。その方が言いやすい。
メンバーたち自身もスパイダーズと言っている。




<スパイダーズ結成の経緯>

ジャッキー吉川とブルー・コメッツと共に日本のグループサウンズ(GS)
の老舗と見られることが多い。活動歴は長い。GSブームの5年前からだ。

ホリプロ(2)所属のドラマー、田辺昭知は新しいバンドを計画してた。
才能と人柄を見込み、1962年にホリプロ所属のかまやつに参加を求める。


田辺は子役あがりの堺正章(3)、神戸から上京した井上堯之、京都のカントリー
界で名を馳せていた大野克夫、大野の紹介でベーシストの加藤充(4)、六本木野
獣会(六本木で遊ぶ良家の若者たちのグループ)(5)のメンバーだった井上順を
加入させ、1964年2月には7人体勢が整う。

ビートルズがアメリカを初制覇した頃。GSブームが起きる3年前である。




※ホリプロに所属していた加瀬邦彦が事務所の指示でスパイダーズに参加してい
た時期もあるが、3ヶ月足らずで脱退し寺内タケシとブルージンズに加入。
その後、加瀬はワイルドワンズを結成し、渡辺プロに移籍する。(6)




<かまやつひろしの音楽性1:カントリー>

ムッシュかまやつがスパイダーズの音楽の方向性を決めていた。

ムッシュの音楽ルーツはカントリーだ。
最初に買ったレコードはハンク・ウィリアムズだったという。

ワゴンマスター、サンダーバード、キャノンボールでバンド活動を行い、
米軍キャンプで演奏し、日劇ウェスタンカーニバルにも出演した。
田辺昭知や堀威夫とはこの頃からの付き合いらしい。(7)




ロカビリー歌手として日劇ウェスタンカーニバルに出演していたミッキー・
カーチスとは音楽、車、ファッションを通じて旧知の仲である。

エルヴィスの登場は「すごいのが出てきた」と感心したが、ムッシュ自身
はロカビリーは苦手で好きになれず、カントリーが自分の本質に一番合っ
てると思ったそうだ。


なんとなくなんとなく」はムッシュによるカントリー調の牧歌的な曲。
大野克夫のスティール・ギターがいい味を出している。




↓スパイダーズの「なんとなく なんとなく」が聴けます。
https://youtu.be/t-GY1ERBLzQ?si=XqvQtIA2pQR0GDrU




スパイダーズ解散前の1970年、ムッシュかまやつ名義で発表した「どう
にかなるさ」は日本のカントリーの名曲だ。

ハンク・ウィリアムズの「淋しき口笛(I Heard That Lonesome Whistle
にインスパイアされたと言われる。
コード進行もほぼ同じで、カントリー調のこぶしの効いた歌い方も似てる。

故郷を離れて共同体に縛られず、転々と流浪する開拓時代の男の心情を
歌った典型的なカントリー・ワルツである。
若者の文化や価値観(8)が変わり始めた1970年の日本の空気に馴染んだ。




↓かまやつひろしの「どうにかなるさ 」が聴けます。
https://youtu.be/ULNtdtM7m7M?si=nqlJQ2jFq83fQFsL


↓元ネタ?ハンク・ウィリアムズの「淋しき口笛」が聴けます。
https://youtu.be/Iykp8jtxCEo?si=9bH8Lc3u8IqN9rlb




<かまやつひろしの音楽性2:ビートルズ、ビーチボーイズ>





ムッシュはUS盤「Meet The Beatles」を手に入れ、他のメンバーと何度
も聴きながら「こういうのをやりたいんだよね」と力説した。

特に「It Won't Be Long」にはヤラレたそうだ。
「クリアーじゃなくモコモコした音が好きだった」と言っている。

ムッシュの曲はビートルズを始めとするマージービート、キンクスのような
モッズ、ビーチボーイズなどアメリカン・ロックやポップスのいいとこ取り
が絶妙で、うまく和製ロックに昇華されている。






音楽評論家、松村雄策はかまやつを日本初のロック・ミュージシャン
評している。

近田春夫はスパイダーズを「和製ロックの萌芽を有したスター集団」と言う。
「フリフリは日本初のロックンロールだった」と明言した。(9)
「まずエレキありきでしょ、フォークギターってカッコ悪い」とのこと。

デビューシングル「フリフリ」はブリティッシュ・ロックのサウンドを
頭拍の日本的リズムと手拍子三拍子に乗せる、画期的な試みだった。
今聴き直すと「こんなんだっけ?」と拍子抜けするけど。



↑ジャケットには作曲者ムッシュが写っていない。撮影に遅刻したためだ。



バン・バン・バン」「ヘイ・ボーイ」もノリのいいロックンロール。



↑中尾ミエとスパイダーズ
1966年「ビクター 歌うバラエティ」番組宣伝写真。


↓中尾ミエとスパイダーズが歌う「ヘイ・ボーイ」が観れます。
1966年「ビクター 歌うバラエティ」  出演時の映像。画質は悪いが貴重。
https://youtu.be/HRrJAGwqX4k?si=T-McsGF-P0n8vVa7


↓「バン・バン・バン」が観れます(スパイダーズ主演映画より)
https://youtu.be/0zLBTzc0yIs?si=3sZV8_WAAsK2busJ



ノーノー・ボーイ」「あの時君は若かった」「いつまでもどこまでも
はミディアム・テンポの青春ポップス。




↓「あの時君は若かった」が観れます(スパイダーズ主演映画より)
https://youtu.be/jT9zaw08mDM?si=pwSztGoOfeKK-2ef




サマー・ガール」は和製ビーチボーイズの元祖。
イントロはベンチャーズの「Blue Star」を思わせる。




↓「サマー・ガール」 が観れます(スパイダーズ主演映画より)
https://youtu.be/_KrCbwnueSc?si=NPMmZHAE3KWdqTq6




エレクトリックおばあちゃん」はジャンとディーンの「パサディナのおば
あちゃん(The Little Old Lady (From Pasadena)」のパクリか?




↓スパイダースの「エレクトリックおばあちゃん」が聴けます。
https://youtu.be/iYgYI3RccPo?si=ZE5bgVnKnEFF5xHc

↓ジャンとディーンの「パサディナのおばあちゃん(1964)」が聴けます。
https://youtu.be/Yj0CXFi4BUw?si=HyYxSZDPApxJeZeZ





<和製ロックと歌謡曲路線の間で>

浜口庫之助作詞・作曲の「夕陽が泣いている」が大ヒットした時、近田
春夫は「世も末だ」と思ったそうだ(笑




以降「風は泣いている」など「泣き」が入る浜口庫之助の歌謡曲は堺正章、
ムッシュが作った洋楽志向の曲は井上順が歌う、またはフロントの2人、
ムッシュ自身が歌う、という図式が出来上がる。




<楽器や機材へのこだわり>

スパイダーズのメンバーたちは裕福だったため、いち早く欲しい楽器や
機材を買うことができた。

特にムッシュのギターへのこだわりは半端じゃない。
ブライアン・ジョーンズ愛用のVOX ‘Teardrop’は銀座のヤマハで色違いを
見つけて購入。当時の価格で25万円だったという。
他のメンバーもいろいろな楽器を使用していた。(10)



↑ブライアン・ジョーンズ愛用のVOX‘Teardrop’



        ↑ムッシュのVOXギター


ムッシュはファズ・ボックスを取り寄せたら説明書が英語で、誰も使い方
が分からなかったと述懐している。
PA機器やマイクも輸入製品はインピーダンスが違うために使えないこと
も多く、秋葉原で部品を買って自分たちでハンダ付けしてたという。




<スパイダーズの演奏力>

1965年頃はスパイダーズのようなブリティッシュビートを取り入れた洋楽
志向の演奏ができるグループは珍しかった。

そのため来日アーティストの公演に関わる機会が増える。
ピーター&ゴードンのバック、ベンチャーズ、アニマルズ、サファリーズ、
ビーチボーイズの前座(11)を務めた。
ビートルズの日本公演は「客席で見たい」という理由で前座を断った。(12)






欧州に遠征し、TV番組出演、現地のクラブでの演奏を行なっている。
ロンドンではTV番組「Ready Steady Go!」に出演
一緒に出演したスペンサー・デイヴィス・グループはアテふり(口パク)
でやっていたが、スパイダーズはライヴで演奏した。

ムッシュはロンドンのヒースロー空港でキース・ムーンから話しかけられ、
音楽紙がスパイダーズに好意的な記事を書いている、と教えられたそうだ。



音楽紙に掲載された記事。 SAD SUNSETは「夕陽が泣いてる」?


当初ギターテクニックは井上堯之よりムッシュの方が上(13)だった。
加藤充からも指導を受けながら、井上堯之は腕を上げて行ったそうだ。
井上とムッシュはカップスの演奏力、テンプターズの松崎由治の作曲力に
は注目していたらしい。




<ファッション性とコミカルな演出>

モッズスーツやミリタリー・ルックなどの衣装、ダンス、ステップなど
ファッション・センスの良さ(14)もスパイダーズの売りだった。

 




沢田研二は「スパイダーズがカッコよくて、ファッションとか真似してた。
東京ではキャンティ(15)みたいな店に行かないとダメだと教えられたり。
タイガースの4人は同級生で僕だけ違うから、別行動でスパイダーズ
一緒にいる方が多かった」と言っている。


スパイダーズは堺正章と井上順の軽妙な掛け合いを中心に、コミカルな
演出も得意とし人気を博す。






1964〜1968年に13本の映画に出演している。
ほとんどスラップスティック・コメディ的な青春ドラマ+歌であった。






<解散後>

ほぼ同時期に解散したスパイダーズ、テンプターズ、タイガースの元メ
ンバー数人で新しいグループ、PYGが結成される。
ムッシュは「絶対に俺にも話が来る」と思ってたそうだ。

PYGは沢田研二、萩原健一のツインボーカルが話題にはなるが、ロック・
ファンからは「GSの寄せ集め」と揶揄される。




萩原健一が俳優業で忙しく音楽活動が難しくなり、PYGは自然消滅。
残ったメンバーが井上堯之バンドとして沢田研二のバック・バンドとなる。
ドラマのテーマ曲をヒットさせ、音楽業界での存在感が大きくなる。
大野克夫は作曲家としての才能を開花させ、沢田研二のヒット曲を生む。





堺正章と井上順は映画・ドラマ・バラエティ・司会とマルチで活躍。





かまやつひろしはマイペースでソロ活動を続ける。
GAROオレンジ(山本達彦が在籍)、アルフィーはムッシュのバック
バンドを経て成功している。



かまやつひろし&オレンジ(1974年郡山ワンステップ・フェスティバル)


ユーミンのデビュー・シングルを手がけ、吉田拓郎との共演でヒット。
ミッキー・カーチス、内田裕也とともに日本の音楽シーンのに関わり、
少なからぬ影響を与え続けた。



↑キャンティで。2代目オーナーの川添象郎氏、ムッシュ、ミッキー・カーチス。



スパイダーズはGSの先輩格として語られることが多い。
はっぴいえんどのように和製ロックの開拓者として再評価されてもいい
のではないか。


                            (写真:GettyImages)


<脚注>

(1)ザ・スパイダースというグループ名

グループ名は「蜘蛛の巣のように世界を席巻する」に由来している。
命名したのはかまやつひろしの父でジャズ・シンガーだったティーブ・釜萢。


(2)ホリプロ
創業者の堀威夫は学生時代にカントリー&ウェスタンのバンド、小坂一也と
ワゴン・マスターズでギターを担当し進駐軍相手に演奏し評判を得ていた。
その後、ロカビリー・バンド、スウィング・ウエストを結成。
(田辺昭知はこのバンドのドラマーだった)
渡辺プロを脱退し、堀プロダクションを設立。
舟木一夫、和田アキ子、山口百恵、榊原郁恵、山口百恵、森昌子、石川
さゆりを育て上げる。
ホリプロロ・タレントスカウトキャラバンで多くのスターを輩出した。
GSではスパイダース、ヴィレッジ・シンガーズ、オックスが活躍。
1970年代には井上陽水、忌野清志郎、愛奴(浜田省吾)も所属してた。
ホリプロは歩合制ではなく給与制で、面倒見がいいと言われる。
そのため長年所属しているタレントが多い。


(3)堺正章の加入
堺正章はまだ16歳の高校生。ホリプロ所属の新人タレントだった。
喜劇俳優だった父・堺駿二が音楽活動に難色を示したため、田辺が堺の家に
通い詰めて説得した。


(4)大野克夫と加藤充
大野克夫は井上堯之の知人であった。田辺が京都に飛び熱心に加入を説得。
1963年ベースに欠員が出たため、大野のバンドの先輩でベーシストの加藤充
に依頼することにした。
加藤は引退し寿司職人修行を始めていたところだった。


(5)六本木野獣会と井上順
六本木野獣会はすぎやまこういち、田辺靖雄を中心とした遊び人グループ。
もう一つの遊び人グループ「六本木族」と混同されないよう命名された。
野獣会という名前だが、暴走族ではない。
メンバーは富裕層の子女が多く、峰岸徹、中尾彬、大原麗子、小川知子、
井上順、ムッシュかまやつ、ジェリー藤尾、福澤幸雄らがいた。
井上順は13歳で野獣会に加入し、峰岸徹の弟分的存在になる。
野獣会の仲間とバンド、野獣会オールスターズ(ジャガーズの前身)を結成。
銀座・新宿アシベ、上野テネシーや池袋ドラムなどで演奏活動をしてる時に、
スパイダーズの演奏を見て参加を申し出る。
主要メンバーの多くが売れっ子となり、野獣会は数年で自然消滅。
文化サロン的存在だった飯倉のキャンティ(15)は六本木族の溜まり場だった
が、六本木野獣会だった井上順、ムッシュも常連だった。


(6)加瀬邦彦の加入と脱退
加瀬邦彦は事務所の指示によりスパイダーズに加入するも3か月後に脱退。
寺内タケシとブルージーンズに加入した。
ビートルズの来日公演でブルージーンズが前座を務めることになる。
警備上の措置として、前座のバンドは演奏終了後も楽屋に監禁され、ビー
トルズのステージを見ることが出来ない決まりなっていた。
客席からビートルズを見たかった加瀬はブルージーンズを脱退する。
ホリプロは加瀬を引きとめ給料を支払い続けていたが、給料泥棒では申し
訳ないと加瀬はワイルドワンズを結成し、渡辺プロに移籍する。


(7)田辺昭知、堀威夫、かまやつひろしの関係
田辺昭知は10代の頃から米軍キャンプ廻りでドラムを叩き、小坂一也と
ワゴン・マスターズの付き人を務める。
ホリプロ創設者の堀威夫とはこの時から関わりがあった。
堀威夫は学生バンドのワゴン・マスターズのギタリストとして活躍した。
つまりこの頃、田辺昭知は堀威夫のバンドの付き人だったということだ。
1957年に堀威夫はロカビリー・バンドのスウィング・ウエストを結成。
このバンドでは田辺昭知がドラムを叩いた。
堀は翌年には渡辺プロを辞め、堀プロを設立する。
かまやつひろしも少し後だが、ワゴン・マスターズにも在籍してた。
その縁で堀威夫とも繋がりがあり、ホリプロ所属になったのだろう。
サンダーバード、キャノンボールの一員として日劇ウェスタンカーニバル
に出演し、ソロ名義でレコード・デビュー。
同じホリプロ所属の田辺昭知からスパイダーズの話を持ちかけられ、最初
はゲストボーカルで参加した後、正式メンバーとなった。
1966年田辺はホリプロの一角を借り、スパイダクション(後の田辺エージェ
ンシー)を設立。セルフマネージメントを開始した。


(8)若者の文化や価値観の変化
ブリヂストンのCMソング「どこまでも行こう」(小林亜星作曲)が流れ、
1月には映画「イージーライダー」が公開される。
学園紛争が沈静化し、若者は無気力に。反体制から自由を求める風潮へ。
富士ゼロックスのCM「モーレツからビューティフルへ」が象徴となる。


(9)ロカビリーとロックンロールの違い
境界線は曖昧で、その違いは微妙。同義語として使われることも多い。
厳密に分けるなら、白人音楽のヒリビリー(*)やカントリーの要素が強いもの
がロカビリー、黒人音楽のR&Bの要素が強いものはロックンロールとされる。
*中南部アパラチア山脈地方の農民や木こりの間で演奏されたマウンテン・
ミュージックをヒルビリーと呼ぶ。その延長がカントリーとして定着した。
ロカビリーはロックンロールとヒルビリーと掛け合わせた造語である。


ロックンロールは8ビート、3コード、12小節を基調とし、ブルーノート・
スケールが使われる。
対してロカビリーは、カントリー特有のシャッフル(3連符)のリズムが多く
、メジャーコードとマイナーコードを組み合わせペンタトニックやマイナー
スケールでメロディーが紡がれる。
さらにロカビリーではカントリー特有の節回しなど歌唱法が用いられる。

ではエルヴィスはロカビリーか?ロックンロールか?
デビュー時はR&B色が強いがバラード、カントリー、カンツォーネも歌う。
しかしキング・オブ・ロックンロールの称号でロックのイメージが強い。

日本で初めてロックンロールが登場したのは1955年。
江利チエミが「ロック・アラウンド・ザ・クロック」をカバーした。
翌年、小坂一也とワゴン・マスターズが「ハートブレイク・ホテル」を紅白
で歌い、第一次ロックンロールブームが起きる。
(この時点ではロカビリーという言葉は知られていなかった)
1957年の紅白では浜村美智子が「監獄ロック」を、雪村いづみが「ビー・バ
ップ・ア・ルーラ」をカバー。
ジャズ喫茶でロックンロールを歌っていた平尾昌晃、ミッキー・カーチス、
山下敬二郎も注目を集め、1958年より開催された日劇ウエスタンカーニバル
への出演で"ロカビリー三人男"と呼ばれるようになる。
これがロカビリーブーム=第二次ロックンロールブーム)と呼ばれる。
「ダイアナ」「おお!キャロル」のような曲が歌われたこと、観客の熱狂ぶり
からロカビリー=ティーンポップという決定的な誤解も生まれてしまった。

日本のロカビリー歌手たちの多くはアーチトップのアコースティックギター
を抱えて歌っていた。(PAもない時代で会場にそ聴こえるわけがない)
近田春夫が「エレキありき」「スパイダーズが日本最初のR&R」と言っている
のは、1950年代の日本のロカビリー(=ティーンポップ)とは区別したいと
いう意向があるのではないか。


(10)スパイダーズの使用楽器
ムッシュが初めて買ったのはマーティンのD-28だそうだ。
スパイダーズではフェンダー・ジャズマスター、リッケンバッカー345、
ギブソンES125、エピフォン・キャバレロ、フェンダー・エスクワイア、
VOXスピットファイアなども愛用してた。

井上堯之はエピフォン・プロフェッショナル、リッケンバッカー330、
フェンダー・エスクワイア・カスタム、ストラトキャスター、ギブソンSG
、モズライト・モブロー、ヤマハSA-5、ヤマハSA-20を愛用。
加藤充はフェンダー・プレシジョンベース、ジャズベース、ヘフナー500/1、
ギブソン・サンダーバード、フラマス・ゴールデンTVベースなど。
使用アンプはフェンダーとVOX。岩瀬電子(VOICE)の特製アンプ。
ヤマハ、グヤトーンからもギター、ベース、アンプを提供されていた。

大野克夫は当初スチールギター奏者だったが、キーボードに転向。
VOXコンチネンタル・オルガン、ホーナー・ピアネット、ハモンドL-100、
コーラル・エレクトリック・シタールを使用。
ドラマーの多くは同じメーカーの製品を使い続けるが、田辺昭知はグレッチ、
パール、ヤマハ、ロジャース、スリンガーランドなど多数使用していた。


(11)ビーチボーイズの前座
内容的にはビーチボーイズに勝った、とムッシュは思ったそうだ。


(12)前座はビートルズの演奏を見れなかった
セキュリティの問題からか、前座の歌手やグループは全ての公演が終わるま
で控室で待つことが要求され、客席でビートルズを鑑賞できなかった。
加瀬邦彦は客席でビートルズを見たいため、前座を務めることになったブル
ージーンズを脱退している。
尾藤イサオと内田裕也はズルをして真ん前のプレス席に陣取り見てた。


(13)ムッシュのギター・テクニック
スパイダーズでのムッシュはシンプルなリズムギターに徹しているが、
ソロではジャズコードの複雑なボイシングも使いこなす。


(14)スパイダーズのファッション性
パリ生まれのレーサー兼モデル、紳士服メーカーEDWARD'Sの企画部長
でもあった福澤幸雄は、スパイダーズとの親交が厚く衣装や踊りにアド
バイスを行い「8人目のスパイダース」とも言われていた。


(15)キャンティ
飯倉片町にある1960年(昭和35年)創業のイタリア料理店。
各界著名人・文化人が利用する高級レストランとして知られる。
ヨーロッパのサロンのような自由闊達な雰囲気があり、文化人が集った。
フランク・シナトラやマーロン・ブランドも訪れたという。
常連客には加賀まりこ、安井かずみ、渡辺美佐(渡辺プロ)、コシノジュ
ンコ、皇族関係者、スパイダーズ、タイガース、最年少でユーミンがいた。
オーナーの川添梶子はGSや布施明、森進一の衣装デザインを手がけ、ス
パイダースの英語カヴァー曲の訳詞もしている。
長男の川添象郎はユーミンのデビューをプロデュースした。
アルバム「ミスリム」のジャケット写真は川添家で撮影されている。
キャンティはファッション・音楽などの先端を行く人たち社交の場として
有名になり、若者が憧れる伝説の店となった。


<参考資料:All About ロカビリー歌手とは?日本のロカビリーの歴史、
BSフジ HIT SONG MAKERS かまやつひろし&井上堯之(2005)、BSフジ
 THE ROCK STORIES ミッキー・カーチス×ムッシュかまやつ(2012)
、近田春夫インタビュー、沢田研二インタビュー、TAP the POP、
ニッポン放送NEWS ONLINE、ムッシュかまやつ-ムッシュ!、鉄のみゅ
ーじしゃん(作編曲家・ギタリスト塩塚博のブログ)、Rittor Music、
ROCKABEAT.NET、GQ Japan、music planet、Wikipedia、GettyImages、
近田春夫-グループサウンズ、NEWSポストセブン 加藤充談話 (2019)、他>

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