2019年7月17日水曜日

今更?ジェイムス・テイラー、ワーナー時代作品リマスター。

ジェイムス・テイラーのワーナーブラザーズ時代のアルバム6タイトルが、やっと
リマスターされ6枚組ボックスセットで7月19日に発売される。

JAMES TAYLOR The Warner Bros Albums 1970-1976





Amazonではだいぶ前から出ていたがCDの販売価格がずっと未定のまま。
今朝見たらなんと3,133円。おおっ、これは安い!すぐポチッ。

夕方見たら5,029円に上がっていた。Amazon価格は猫の目のように変わる。
最低価格が保証されるので、僕は3,133円で注文しておいてよかった。


★追記:その後Amazon価格はころころ変わり発送も2ヶ月先になってしまった。

マーケットプレイスで英国の業者が送料込みで2,740円で出品してたので、
そとらに注文し直した。既に発送済みだが、今週中に届くかな?

近年多いCD5枚組の簡素なボックスの廉価版とは一線を画す装丁だ。
しかもリマスターが施され6枚組。
残念なのはピクチャー・ディスクが慣れ親しんだバーバンク・スタジオのパーム
ツリー・ストリートのレーベルではなく、抹茶色の後年のレーベルである点だ。


★訂正:ジャケットの印刷の質は高い。レーベルは初期3枚が抹茶色、 Walking 
Man 以降がバーバンクのパームツリー・レーベルでした。




今回はワーナーブラザーズのライセンスの下RHINOレーベルからのリリースだ。
またしてもRHINO、いい仕事をしてます。

内容は1970〜1976年にワーナーブラザーズよりリリースされたJTのオリジナル・
アルバム6枚、JTの黄金期の名盤が最新のリマスターで聴ける。



Sweet Baby James (1970) 
ビートルズのアップル社からデビューしたものの不発に終わり、失意のもと
帰国したJTが心機一転、ワーナーブラザーズと契約し発表した再デビュー盤。
フォーク、カントリー、ブルース色が濃いがどこか洗練されているのが魅力。
プロデューサーはピーター・アッシャー。(1)
旧友のダニー・コーチマー(g)、以降JTのバックを務めるラス・カンケル(ds)、
キャロル・キング(p)、ランディー・マイズナー(b)が参加している。


Mud Slide Slim And The Blue Horizon (1971) 
2枚目も同じ路線を踏襲。You've Got a Friendのヒットで不動の地位を得た。
プロデューサーは同じくピーター・アッシャー。
ダニー・コーチマー(g)、ラス・カンケル(ds)、ルーランド・スクラー(b)と
後にザ・セクションのメンバーとなる3人が揃った。
キャロル・キング(p)、ジョニ・ミッチェル(cho)が参加している。





One Man Dog (1972) 
クレイグ・ドージ(p)が加わり初めてザ・セクション(2)というバンド名となる。
ジョン・マクラフリン(g)、ブレッカー・ブラザーズの参加により音楽的にも
深みが出ている。
マクラフリンが使用しているマーク・ホワイトブックのギターをJTは気に入り、
自分と妻となるカーリー・サイモンのためにオーダーしている。
キャロル・キング、リンダ・ロンシュタット、カーリー・サイモン、そして
アレックス、ヒュー。ケイトとJTの3人の兄弟たちがコーラスで参加。
プロデューサーはピーター・アッシャー。
スクイブノケットにあるJTの別荘の納屋に作られたスタジオで録音された。


Walking Man (1974) 
前作から2年を経て心機一転、NYCでレコーディングを行う。
セッション・ギタリストのデヴィッド・スピノザ(3)をプロデューサーに起用。
スピノザ(g)、ヒュー・マックラケン(g)、ドン・グロルニック(p)、リック・
マロッタ(ds)などNY勢で固め、今までのR&B、カントリー色は退行し都会的で
洗練されたサウンドとなった。
ジャケットのモノクロ写真はリチャード・アヴェドンによるもの。


Gorilla (1975) 
再びLAに戻りレコーディング。
NYCで得たソリッドなエッセンスと西海岸の解放的な明るい空気感が融合。
ウエストコースト・ロックの立役者、ラス・タイトルマン(4)、レニー・ワロッカ
(5)がプロデュースを担当し、ワーナーのバーバンク・スタジオで録音された。
ダニー・コーチマー(g)、ラス・カンケル(ds)、ルーランド・スクラー(b)の常連、
アル・パーキンス(ps)、デヴィッド・グリスマン(m)、ローウェル・ジョージ(g)、
ジム・ケルトナー(ds)、ウィリー・ウィークス(b)、デヴィッド・サンボーン(s)、
ニック・デカロ(ac)、クラレンス・マクドナルド(p)と豪華な顔ぶれ。
特筆すべきは、デヴィッド・クロスビー、グラハム・ナッシュ、カーリー・サイ
モン、ヴァレリー・カーターによる美しい透明感のあるコーラスだ。
ジャケットの写真は数々のアーティストを手がけたノーマン・シーフが撮影。





In The Pocket (1976) 
ワーナーでの最後のアルバム。プロデューサーも前作と同じで続編的な内容。
ザ・セクションの4人がまた集結。
ワディ・ワクテル(g)、アーニー・ワッツ(s)、マイケル・ブレッカー(s)の他、
スティービー・ワンダーが1曲ハーモニカで参加している。
アート・ガーファンクルとのデュエットも聴きもの。
ジャケ写は引き続きノーマン・シーフ。
裏ジャケットでスーツの中に前作GorillaのTシャツと洒落が効いている。





以上6枚のオリジナル・アルバムが収められている。
アウトテイク、未発表曲、デモ音源などのボーナス・トラックは一切なし

近年の傾向としてアルバムはリリース時と同じ形態で、ボーナス・ディスクで
レアな音源をというのが主流だが、そのボーナス・ディスクもない。


JTはコロムビアに移籍する前に、ワーナーからGreatest Hitsを出している。
その中でアップル・デビュー時の作品、Something in the Way She Moves、
Carolina in My Mindを1976年に新たに録音している。

またこのベスト・アルバムにはSteamrollerのライブ音源が収録されている。
今回この3曲は残念ながら聴けない。



さらに言わせてもらうと、One Man Dog (1972) とWalking Man (1974)の
間が空いたため、ワーナーはライブ盤を出そうとしていた
1972年オークランドで収録された音源だ。当然、公式録音なので音質は良い。
どうせならこの未発表ライブ盤も目玉として付けて欲しかった





1974年にNY勢をバックにカーネギー・ホールで行われたライブ音源(カーリー
・サイモンが飛び入りでMockingbirdをデュエット)も素晴らしい内容だ。
いずれも良質なブートが出ている。

この2枚は今後のRHINOに期待するとしよう。



まだ現物が届いていないのでレビューもできないが、YouTubeに公式で3曲
アップされているので、ヘッドホンで聴いてみた。
確かに一つ一つの音はクリアで臨場感は増している。が、大きな差異はない?
特に楽器やコーラスの多重が多い後半のアルバムは、塊で聴こえて来るせいか。

Shower the Peopleの美しく重厚なコーラス、ダブルトラッキングで録られた
ギター、はリマスターではなくリミックスで左右に広がったらどんなに美しい
だろう、と思った。

実際にディスクを再生して部屋の空気に流すともっと良さが分かるのかも。


★追記:Amazonにレビューが1件。あまり音が良くなった感はないそうだ。
アメリカのAmazonは入荷が8/2予定でまだレビューもなかった。

★追記:8/6到着。 1枚目を聴いてみた。音はクリアで温かみも深みもある。
J-50の生音も以前より聴こえる。一番驚いたのはFire And Rainでのラス・カン
ケルのドラミングの迫力だ。他のアルバムも楽しみ〜♪


↑クリックするとFire and Rain (2019 Remaster)が聴けます。



↑クリックするとShower the People (2019 Remaster)が聴けます。



それにしても、JTのワーナー時代のリマスターは本当に長い間、待たされた。
待ちくたびれたという思いと、何で今さら?感もある。

JTが1970〜1976年にワーナーブラザーズに残した彼の黄金期ともいえる6枚の
アルバムが初CD化されたのは1984年であった。

まだCD創世記で16bitサンプリングのAAD(アナログ編集)である。
当然のことながら音は粗く痩せている。ふくよかさも広がりも奥行きもない。
それでも当時はLPよりクリアに聴こえる、と喜んだものだ。



1990年に入るといろいろな作品がリマスターされ出した。
JTのコロムビア移籍後、1977年以降のアルバムは1990年にやっとCD化されたが、
2000年にはすぐにリマスターされ格段に音が良くなった

(その際、1991年リリースのNew Moon Shine以降の作品は対象外だった。
つまりアナログ録音の1977〜1988年のアルバムだけをリマスターし、1991年以降
最初からデジタルレコーディングされた作品はそのままでよし、という考えだろう。

そのためNew Moon Shine(1991)より、後からリマスターJされたT(1977)、Flag
(1979)の方が音圧が高く、よりブライトな音という逆転現象が起きた)






しかしワーナー時代のアルバムは一向にリマスターされない
ワーナー洋楽部のJTのA&R(宣伝担当)に訊いてみたら「一度リマスターはしてる
んですけどね」ということだった。

JTのワーナー時代6作品が日本盤として発売されたのは1991年である。
それはリシューであり、リマスターではない。
US盤はそのままで、日本だけ独自にリマスターが施されるわけがない。
サンプル盤をもらって聴いてみたが、最初に出たUS盤と音は変わらなかった。

「初回ロットが1000枚行かないんですよ」とA&Rが嘆いていたのを記憶している。
そりゃそうだ。買う人は輸入盤を既に買っている。僕だってそうだ。


まあ、日本ではその程度で好きな人に細々と売れる1970年代のシンガー・ソング
ライターという捉えられ方が正直なところで、そんなに売れないだろう。
だから、あえてお金をかけてリマスターしても・・・というのは分かる。

が、アメリカでは団塊世代、ポスト団塊を中心に根強いファンが多いはずだ。
彼らがコンサート会場で涙しながら合唱するのは、やはり1970年代の曲なのだ。
当然CDの進化に伴って、もっといい音で聴きたいニーズも生まれるはずだ。





JTはいまだに美声が衰えず、ライブ・パフォーマンスもが完成度が高い。
スローペースだが新譜(代わり映えしない)も出している。

本人としては俺は懐メロ歌手じゃない、今の歌声を聴いてくれ、という現役意識が
強いのかもしれない。



1990年代後半にはビートルズを発端にAnthologyブームが起き、レコード会社も
ここぞ商機とばかりいろいろなアーティストのボックスセットをリリースした。

その多くは駆け足でアーティストの軌跡を追いつつ、未発表曲、デモ音源、別テイク、
未発表ライブ音源、などの目玉が加えられ、ついその餌に惹かれて買ってしまう。


そんな最中、JTとジャクソン・ブラウンはAnthologyを出さなかった
ジャクソン・ブラウンは現役意識が強く、過去ばかり評価されるのを嫌がっている、
という話は聞いたことがある。

JTも過去の曲は宝としながら、今のパフォーマンスで聴いてほしいという気持ちが
強かったのではないだろうか。


公式ライブ盤もLive(1993)、One Man Band(2007)、Live at the Troubadour
(2010)と近年のものしかリリースしていない。







ブートで出回っていたジョニ・ミッチェルとの共演音源、BBC In Concert(1970)
もようやく2004年にマイナー・レーベルから発売された。
ジョニと出演したAmchitka(1971)も2009年に発売されたが知る人ぞ知る存在。
前述のように1970年代のいい時期のライブ音源があるのにと思ってしまう。


さて、ここまで頑としてリマスターを怠り続けたJTが(満を持しすぎた感もあるが)
やっとリマスターに踏み切った理由は何だろう?





おそらく原盤権の問題ではないか?と思う。
来年には1970年リリース作品が50年経ち、原盤の独占権が消失する。
そうなると、創世記のCDをコピーしたブート盤が大っぴらに出まわるだろう。

それを見据えて、重い腰を上げ今回のリマスターが実現したのではないだろうか。


<脚注>

2019年6月1日土曜日

ついに出た!ロックの女王、全盛期の公式ライブ盤。

リンダ・ロンシュタット初のライブ盤「Live in Hollywood」が発売された。
ファンにとっては画期的なことだ。

リンダほどの大物でライブ・パフォーマンスに定評があるシンガーが、なぜ今まで
ライブ盤を出していなかったのか?不思議なくらいだ。
キャピトル、アサイラム、いずれのレーベルからもライブ盤リリースの企画はもち
上がったはずだし、収録された音源もあったと思うのだが。。。





今回の未発表ライブ音源はアメリカのTV局HBOの特別番組のために収録されたもの。
1980年4月24日ハリウッドのテレビジョン・センター・スタジオで録音された。

ニューウェーヴ路線を取り入れたアルバム「Mad Love」リリース直後のライブで、
ジャケットのデザインも「Mad Love」を踏襲している。

観客を入れての公開録音のようだ。オーディエンスの声も臨場感がある。
バランスのとれたステレオ音源(1)で音質も非常に良い。


「Live in Hollywood」は以前からブートで出回ってたけど音が悪いと言われてた。
今回は新たに発見されたマスターテープからのリマスターである。
過去にリンダのマネージャーでもあったジョン・ボイラン(2)がマスターテープの
存在を知り、リリースの実現に至ったという。





レーベルはRHINO。大手レーベルがやらない再発ものを得意としている。
RHINO、今回もいい仕事してます!


収録されたのはリンダ・ロンシュタット自身が選んだお気に入りの12曲だ。

キャピトル時代のカントリー・フレーバーから、アサイラム移籍後オールディ
ーズなどを取り入れロック色が強めた時代、そしてアルバム「Mad Love」のニュー
ウェーヴ路線まで、ほぼベストに近い選曲だ。



↑クリックすると1曲目のI Can't Let Goが聴けます。


以下、収録曲を見て欲しい。
( )内はオリジナル収録のアルバム名、発売年、レーベル。

 1. I Can't Let Go (Mad Love 1980 Asylum)
 2. It's So Easy (Simple Dreams 1977 Asylum)
 3. Willin' (Heart Like a Wheel 1974 Capitol)
 4. Just One Look (Living in the USA 1978 Asylum)
 5. Blue Bayou (Simple Dreams 1977 Asylum)
 6. Faithless Love (Heart Like a Wheel 1974 Capitol)
 7. Hurt So Bad (Mad Love 1980 Asylum)
 8. Poor Poor Pitiful Me (Simple Dreams 1977 Asylum)
 9. You're No Good (Heart Like a Wheel 1974 Capitol)
10. How Do I Make You (Mad Love 1980 Asylum)
11. Back In The USA (Living in the USA 1978 Asylum)
12. Desperado (Don't Cry Now 1973 Capitol)


1曲目のI Can't Let Goはホリーズのカヴァー。
ギターのリフもコーラスも原曲に近い。ホリーズがニューウェーヴに合うとは!

It's So Easyはバディー・ホリーのカヴァー。
プロデューサーのピーター・アッシャーの選曲。彼もコーラスで参加している。

Willin' はリトル・フィートのカヴァー。
Just One LookはR&Bシンガー、ドリス・トロイが1963年にヒットさせた。

Blue Bayouはロイ・オービソンのカヴァー。これもリンダの勝ち〜♪
Faithless LoveはJ.D.サウザー(当時リンダの恋人だった)の曲。

Hurt So Badは1960年代インペリアルズという黒人コーラスグループの持ち歌。
Poor Poor Pitiful Meはウォーレン・ジボンの曲。

You're No Goodは1963年のディー・ディー・ワーウィックのカヴァーだが、
今やリンダのヴァージョンの方が有名だろう。

How Do I Make Youはビリー・スタインバーグ(3)による書き下ろし新曲。
Back In The USAはチャック・ベリー。
Desperadoはイーグルスの名曲だが、リンダの定番曲の一つ。





1976年のアルバム「Hasten Down the Wind」収録曲がないのが少し残念。
バディー・ホリーのThat'll Be the Day、カーラ・ボノフのLose Again(今回の
ライブ盤の前年、日本武道館での1曲目だった)とか。
あとリンダが歌うLove Me Tender、Tumbling Diceも聴きたかった。

人によってストーン・ポニーズ時代が好きとか、ソロ時代、イーグルスを従えて
歌ってた頃がいいとか違うだろうけど、僕は「Hasten Down the Wind」
(1976)から「Get Closer」(1982)までがリンダの最盛期だと思う。



その後はネルソン・リドル・オーケストラをバックにジャズを歌ったり、父親の
ルーツでもあるマリアッチ(メキシコ民謡)、ドリー・パートン、エミルー・ハリス
とトリオ結成、アーロン・ネヴィルとデュエット。。。と迷走し続け、1990年以降
は存在感が薄くなってしまった。(4)



↑エミルー・ハリスと共演。リンダはカブスカウトのコスプレ?(^^)



「Live in Hollywood」はリンダがロックの女王として輝いていた時期のぎりぎり
最後のライブ・パフォーマンス、貴重な音源である。



↑YouTubeのRHINOオフィシャル・チャンネルでYou’re No Goodが観られます。
なるほど、こんな感じでやってたんだ。



↑同じくJust One Look の映像版が観られます。



リンダの思いっきり突き抜けるパワフル・ボイスは健在
声を張り上げても、セリーヌ・ディオンやホイットニー・ヒューストンみたいに
キーキーうるさくない。(あくまでも個人的好みです)
僕がリンダの声、歌い方を好きなのはカントリーがベースだからなのだろう。


CDの最後に隠しトラックでバンドのメンバーが紹介されている。

ギターとペダル・スティールはお馴染みのダン・ダグモア
(この人、映画「シャイニング」の少年ダニーに似てる気がするんだけど)

もう一人のギターは前年のワディー・ワクテルからダニー・コーチマーへ。
(ダニー・コーチマーってアル・パチーノに似てません?)
一人ハードロックしてたワディー・ワクテルも好きなんだけど、ダニー・コーチ
マーのR&B色が濃いギターもいい。「長年の友人」とリンダは紹介している。





ドラムはラス・カンケル
武道館の時と同じく、Blue Bayouではシンセ・タムを効果的に使用。
ダニー・コーチマーと共にザ・セクション(5)から2人参加しているわけだ。






キーボードはドン・グロルニックからビリー・ペイン(リトル・フィート)に。
これは嬉しい。

ベースのケニー・エドワーズが今回ギターに周りボブ・グロウブがベースを担当。
コーラスはピーター・アッシャー(6)とウェンディ・ウォルドマン。

バンドを紹介するリンダの喋り方もとてもチャーミング。
曲間にやってたはずなので、そのままでもよかったような気がする。




僕がリンダを生で見たのは1979年3月。前述の武道館である。

お世辞にも美人とは言えないかもしれないが、ショートカットで赤いホットパンツ
(死語)を履いて微笑みながらステージに現れたリンダは本当に素敵だった。

そして前述のように1曲目のLose Againを歌い出すと、会場は完全にリンダの虜
になってしまった。1時間20分で20曲。
すごい盛り上がりだった。僕が体験したライブ史ベスト10に入る。


↑1979年3月、日本武道館での1曲目、Lose Againが聴けます。

ワディー・ワクテルの弾くD-28がいい音だなーと感心してたけど、写真を見ると
マーティンじゃなくてMark Whitebookですね。
当時はバーカスベリーのコンタクトピエゾから拾ってたはずだけどいい音です。
この写真はリンダの服装が違うから僕が行ったのとは別な日みたい。



実は武道館のライブはFM東京が収録し、後日放送(全曲ではないが)した。
エアチェックしてよく聴き、あの時の感動を思い出していたのだが、デッキは
壊れ、カセットテープももうヘロヘロだろうと昨年思い切って処分した。


FM東京の収録もとてもいい音質だった。セットリストも演奏も歌もいい。
時期的にも「Living in the USA」リリース後でロックの女王絶頂期である。

が、惜しいかな。リンダのピッチが少し狂う箇所があったのだ。
Blue Bayouの最初のコーラス部、I’m gonna…が上ずって外れてしまった。



定番曲にミスがあるため、FM東京収録武道館ライブは採用されなかったのか?
リンダが「Mad Love」を含むライブを公式盤としたかったのか?





それは分からないが、「Live in Hollywood」が素晴らしいできのライブ盤で
リンダから我々ファンへのプレゼントであることは確かだ。




一つだけ、ケチをつけさせてもらっていいかな。


リンダが着ているピンクのちょうちん袖の服。似合わない。ロックしてない。
ダイアナ妃じゃないんだから、と言いたい(笑)


見た目は、髪飾り花をつけてジーンズで歌ってた頃のリンダが好き
手の振り方、足の曲げ方、仕草がすごくチャーミングで。

そうそう、こんな感じ。



クリックするとIt's So Easyを視聴できます。1977〜1978年頃のライブ?



<脚注>

(1)テレビのステレオ音源
日本でテレビ音声多重放送(2チャンネルステレオ放送/二重音声放送)が開始され
たのは1979年春である。
アメリカでは既に1975年から一部の局で採用され、徐々に広まって行ったらしい。
日本と同じNTSC規格なので音声はFMステレオ方式だろう。
つまりFMラジオ放送と同じ音質ということだ。
今回使用したマスターテープというのは、ステレオ放送用にマルチトラックから
当時ミックスダウンされたものなのか、ミックスダウン前のマルチトラックがまだ
残っていてそこからリミックスされたのか不明だが、たぶん前者だと思う。


(2)ジョン・ボイラン
カントリー・ロックの隆盛期、裏方として貢献したプロデューサー/マネージャー。
ボイランはデヴィッド・ゲフィンと同様に、新バンドの旗揚げに際して各メンバーの
マネージメントやレーベルとの契約関係を素早く整理して、早期に活動開始できる
ようにする実務能力に長けていたらしい。

ボイランと知り合ったリンダ・ロンシュタットは自分のバック・バンドを集めて
欲しいと頼む。ボイランはリンダと恋仲になり、彼女のマネージャーに専念する。
リンダの新しいバンドは入れ替わりがあったが、最終的にドン・ヘンリー、グレン・
フライ、ランディ・マイズナー、バーニー・レドンの4人(後にイーグルスを結成
に落ち着く。




リンダをキャピトルからデヴィッド・ゲフィンの振興レーベル、アサイラムに移籍
させたのもボイランの功績である。
アサイラムはジャクソン・ブラウン、J.D.サウザー、リンダのバックから独立した
イーグルスが在籍し、リンダと共にウエストコースト・ロックを完成させて行く。

しかしこの移籍と前後してボイランとリンダの恋愛関係が破綻。
二人の仕事面におけるパートナーシップも解消された。
リンダはJ.D.サウザーと付き合い(恋多き女と呼ばれた)、マネージャーにはジェイ
ムス・テイラーを成功させたピーター・アッシャーが就任。プロデュースも兼務する。


(3)ビリー・スタインバーグ
後にマドンナの Like A Virginの他、シンデイー・ローパー、バングルス、ホイットニー
・ヒューストンなどの楽曲を提供するソングライター。


(4)リンダ・ロンシュタットの栄光と衰退
イーグルスとして独立することをドン・ヘンリーがリンダに告げた際、あなたたちは
リンダ・ロンシュタットのバックバンドなのよ、その手堅い仕事を棒にふる気?と
言われたという。
その時点で既にリンダは成功を収めていたが、イーグルスはまだ無名だった。



リンダの1989年のアルバム、Cry Like a Rainstorm, Howl Like the Windでは一曲、
ブライアン・ウィルソンが多重録音によるバックコーラスで参加している。
それを聞いたヴァン・ダイク・パークスが「あのブライアンがリンダごときのバック
をやるとは」と嘆き、ブライアンを誘いOrange Crate Artを制作したという。
ブライアンは廃人状態でいい仕事をしていなかったし、リンダの方が格下ということ
もないと思うが、アメリカの音楽シーンの浮き沈みは激しいのか。。。。

1990年代半ばリンダは甲状腺の病気を患い、長年闘病生活を送り激太りもした。
2013年にはパーキンソン病を患い、歌手活動をやめたことを表明している。


(5)ザ・セクション
ジャイムス・テイラーのバックを務めていたミュージシャンのユニット。
ダニー・コーチマー(g)、クレイグ・ダーギー(kb)、ラス・カンケル(ds)、ルーランド
・スクラー(b)の4人編成。アルバムも3枚リリースしている。
メンバーのうち何人かがジャイムス・テイラー、リンダ・ロンシュタット、ジャクソン
・ブラウンなどのバックを務めることが多かった。
「Live in Hollywood」ではダニー・コーチマー、ラス・カンケルが参加している。




(6)ピーター・アッシャー
学友のゴードン・ウォーラーと共にデュオ、ピーター&ゴードンを結成。
エヴァリー・ブラザース風のコーラスを取り入れ、本国イギリスだけでなくアメリカ
でも多大な人気を得た。
ポール・マッカートニーが彼の妹で女優のジェーン・アッシャーの婚約者であり、
アッシャー家にポールが居候していたことから親しくなる。
A World Without Love、Nobody I Know、Womanとポールに楽曲(ビートルズと
して発表することをジョンに却下された曲)を提供してもらい、ヒットさせている。
「Woman」はバーナード・ウェッブ作となっているがポールの変名。
レノン=マッカートニーの評判なしでもヒットするか試すためにポールが故意に
名前を隠して発表したためである。

解散後ピーター・アッシャーはアップル・レコードのA&Rに就任したが閑職に
追いやられ(ポールが妹ジェーン・アッシャーと別れたせいか、アップル社がアラン・
クレインに乗っ取られポールが関与しなくなったせいか)、LAに渡りジェイムス・
テイラー、リンダ・ロンシュタットのプロデューサーとして成功を収める。
二人にオールディーズのカヴァーを薦めたのもピーター・アッシャーの功績である。


<参考資料:amass、West Coast Rock、HISTORY OF THE EAGLES、
amazon,com、YouTube、Wikipedia、他>

2019年5月15日水曜日

ドリス・デイを追悼。



2019年5月13日アメリカを代表する歌手・女優のドリス・デイが永眠した。
享年97歳。カリフォルニア州の自宅で家族に見守られ息を引き取ったそうだ。

心より御冥福をお祈りいたします。


ドリス・デイは1942年、20歳の時「センチメンタル・ジャーニー」を歌い大ヒット。
4年後ワーナー・ブラザースと契約し映画デビュー。女優としても売れっ子になる。


1950年に主題歌もヒットした「二人でお茶を」など、数々の映画に出演。
1956年のアルフレッド・ヒッチコック監督作品「知りすぎていた男」の劇中で歌った
「ケ・セラ・セラ」が大ヒットし、アカデミー歌曲賞を受賞した。





映画をご覧になった方はご存知だろうが、彼女が劇中で歌う「ケ・セラ・セラ」が
このミステリー作品を解決に導くキーであり、最も重要なシーンでもある。

レコード盤の「ケ・セラ・セラ」はカントリー・ワルツに仕上げられているが、劇中
ではドリス・デイがピアノを弾きながら歌うジャジーなバラードだった。

ケ〜イ、セラ〜セラ〜♪という節回しがとても印象的だった。



↑ドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」が聴けます。


実は僕が中学生の頃、最初に聴いた「ケ・セラ・セラ」は1969年のメリー・ホプキン
のカヴァーの方で、ドリス・デイの原曲を知ったのはずっと後である。

ポールはこの曲を原曲のカントリー・ワルツから8ビートの軽快なフォークロック・
ナンバーへと大胆にリメイクしている。
原曲にはないブリッジ(サビ)、イントロ、エンディングを新たに加筆している。


以前、この話は詳しく書いたので興味のある方は参照してください↓
https://b-side-medley.blogspot.com/2016/12/blog-post.html


本家のドリス・デイ版「ケ・セラ・セラ」を聴いたのはそれから10年後。
映画「知りすぎていた男」で彼女の歌唱を聴いてすいぶん違うのに驚いたものだ。


ドリス・デイは1968年映画界を引退。
活躍の場をテレビに移し「ドリス・デイ・ショー」(1968-1973年)で人気を博した。



↑ドリス・デイ・ショーのオープニング・クレジット。


1981年以降は動物愛護を提唱し力を注ぐ。
特に犬好きだった彼女は「ビバリーヒルズのドッグキャッチャー」との愛称が付けら
れるほどだった。




カリフォルニア州カーメルに1978年ドリス・デイ・ペット・ファウンデーション
(後のドリス・デイ・アニマル・ファウンデーション)を設立している。






ビートルズのアルバム「Let It Be」に収録された「Dig It」ではジョンが思いつく
まま、BBC、B.B.King, and Dorris Dayと歌っている。
おそらくジョンもポールもドリス・ディのファンだったのだろう。

そんな縁からか、ポールは個人的にも彼女と親交があったそうだ。
長年の友人で動物愛護活動の仲間でもあったポールは「彼女はあらゆる意味で真の
スターだった」と追悼のコメントを発表した。


すてきな文章なので転載したい。




ドリス・デイが亡くなったと聞き、とても悲しい。
彼女は様々な意味で本物のスターだった。
僕は光栄にも何度か彼女と一緒に時を過ごす機会に恵まれた。

彼女のカリフォルニアの自宅を訪れると、そこはまるで動物保護区のようだった。
多くの犬が手厚く世話をされていた。
彼女は黄金の心を持つとても愉快な女性で、僕らは多くの笑いを共にした。
彼女は思いやりがあると同時に黄金の心を持つとても愉快な女性だった。
僕はよく彼女と笑いあったものだ。

彼女の映画はどれも素晴らしく、彼女の演技と歌はいつだって本質を突いていた。
彼女がいなくなってしまったなんて寂しい。
でも、彼女のキラキラ輝く笑顔と周りもつられてしまう微笑み、そして彼女が僕ら
に与えてくれた多くの素晴らしい曲と映画のことはずっと忘れない。
ドリスに神のご加護を。


またポールはローリングストーン誌のインタビューでドリス・デイから「年齢なんて
幻想よ」言われたことを明らかにしている。

齢はただの数字だ、と彼女は言っていた。
年を重ねるごとに数字は大きくなっていく。
年齢が邪魔にならないのであれば、僕は年がいくつだろうが気にしない。
年齢は無視できる。僕はそうしている。ポールはそう話した。





それでも、すべては過ぎ去ってゆく。All Things Must Pass。

最近、古い音楽を聴きながら、あるいは古い映画を見ながら思う。
演奏者のほとんどはもうこの世にいないんだな、役者さんたちももういない。
そう思うとふっと寂しくなる。

しかし彼らが残してくれた素敵な音楽、映画を僕らは今も楽しめることができる。
そのことに感謝しよう。


ドリス・デイは天国で犬たちに囲まれ「ケ・セラ・セラ」を歌っているはずだ。





<参考資料:Rollingstone、Wikipedia、他>

2019年3月27日水曜日

「薄幸」のイメージ化で生まれた怨歌<前篇>



作家の五木寛之は、藤圭子をこう評した。
(毎日新聞昭和45年6月7日 日曜版 藤圭子のファーストアルバムを聴いた感想)


<艶歌>でも<援歌>でもない。これは正真正銘の<怨歌>である。(1)



藤圭子は1960年代末〜1970年代初頭、夜の世界に生きる女を描いた暗く哀切な曲を
個性的なドスの効いたハスキーボイスと独特の凄みのある歌いまわしで歌唱。
その可憐な風貌とのギャップも相まって一世を風靡した。


アイドル歌手的な人気もあり、少年マガジンの表紙を飾ったこともある。





当時、少年サンデーと発行部数を競っていた少年マガジンは「あしたのジョー」
「巨人の星」など、大人の鑑賞にも耐えうる作品を連載していた。

大学生がマンガを読むようになった、と話題になった時代である。
「巨人の星」に藤圭子本人として描かれたこともあった。

1970年の少年サンデーの企画「スターとまんが主人公そっくりショー」では、楳図
かずおの「おろち」を藤圭子が演じている。(似てるかな?)

 あたしは圭子 だれかに鏡の中にとじこめられてしまったの
 あたしの人生は長く暗かった







藤圭子がデビューした1969年は激動の年だった。
全共闘が占拠した東大安田講堂は機動隊が突入。燃え上る講堂はテレビで流された。
若者による抗戦の時代が終わり、無力感、しらけ感、あきらめ感が漂った


この年は曲も暗いムードのものが多い
都会に出てはみたけれど華やかさの中に感じる孤独、苦悩が歌のテーマだ。

カルメン・マキ「時には母のない子のように」、加藤登紀子「ひとり寝の子守唄」、
アン真理子「哀しみは駆け足でやってくる」、千賀かほる「真夜中のギター」など。
ザ・ブルーベルシンガーズ「昭和ブルース」なんて暗さの極地だった。


その中でも特に、藤圭子の歌は若者の心に突き刺さった。
人形のような顔立ちの、笑顔のない少女がドスのきいた声で投げやりに歌う恨み節
衝撃的だった。


反戦フォーク演奏会が行われた新宿西口広場と藤圭子が歌う夜の歌舞伎町。
時代のうねりを背負ったもの同士の一体感があったのではないか。

そして昭和の高度成長に抗うかのように残る貧困哀しい出自、圧倒的な不幸感
十五、十六、十七と〜あたしの人生暗かった〜。
もう「リング」(2)の貞子も真っ青なくらいの怨念(汗)






実際、デビューする前の藤圭子(本名・阿部純子)は幸薄い
岩手県一関市で生まれてすぐ、北海道名寄市に移り、旭川市で育つ。

父は浪曲師、母は浪曲師で三味線弾き。
一家は北海道の漁村や炭鉱町などを転々とし、流しで生計を立てていた。
藤圭子も幼い頃から同行。自らも歌う。
中学の成績は良かったが貧困ゆえ高校進学を断念した。

父親は生活破綻者。働かず、朝からパチンコに興じ家族に暴力をふるった。
それは爪痕としていつまでも彼女の心に残っていったことだろう。
父親のことは「殺してやりたい」と憎しみを露わにしている。


15歳の時、札幌の雪祭り大会で歌う姿がビクター専属の作曲家の目に留り上京。
レッスンを受けながら、錦糸町や浅草などで母と流しをして日銭を稼ぎ、日暮里の
ガード下で煮炊きをする極貧生活を続けていた。(3)





レコード会社の大手6社(4)のオーディションを受けるが全て落選。
荒っぽい、細やかさがない、こぶしが回らない、と指摘される。
当時の老舗レコード会社の「伝統的な尺度」では個性より歌の技術が求められた。
(昨今のフィギュアスケートが何回転したかなど得点に偏重しがちなのと同じだ)



作詞家を目指す石坂まさをが、その母娘に出会ったのは1968年の秋だった。
母親は娘をスターにしたいと熱望していた。

「とにかく、何か歌ってみてよ」と石坂は促した。

小柄で瘦せぎすの17歳の少女は「星のながれに」と「カスバの女」を歌った。
外見とはかけ離れたドスのきいた凄みのある声に石坂は心を鷲掴みされた。
天才歌手を発見してしまったのである。

石坂は執念、いや怨念に取り憑かれたように少女を売り込むことに全てを賭けた。


石坂まさおは新宿で生まれ育つ。幼少より病弱で肺結核を患う。父親は暴君。
事業に成功し8人の愛人を持ち、死後は2番目の愛人の子供に事業を継がせる。
石坂は蔑ろにされた正妻に育てられたが、愛人の一人が生んだ子であった。

高校受験は全て失敗。日雇いなど職業を転々としながら新宿をぶらついていた。
作詞家を志し、同人誌「新歌謡界」に作品を投稿しながらチャンスを窺っていた。

そんな時に藤圭子に出会ったのだ。境遇への恨み荒涼とした青春
石坂と藤圭子はお互いに似た者同士と感じたそうだ。







RCAレコードの新米ディレクター、榎本襄はまだ担当歌手がいなかった。
ビクターの一部門だが、RCAといえば洋楽の世界ではNo.1のレーベルだ。
(余談だが、当時モンキーズのシングル盤を買うと、内袋にシルヴィ・ヴァルタンや
エルヴィスと一緒に和田アキ子、藤圭子、森田健作が印刷されててなんか残念だった)


石坂の自宅で彼女がギターを弾きながら歌う「カスバの女」を聴きやはり驚く。
こんな小柄で痩せた娘が中低音でドスの効いた声出すんだ。。。。
藤圭子にはラ行で軽く巻き舌になる癖があり、それが独特の魅力を醸し出した。
榎本は「演歌歌手ではなくロック歌手としてならすごい子だ」と思ったそうだ。


訊けばコロムビアの新興レーベルDENONからデビューが決まっているという。(5)
榎本はどうしても彼女と仕事がしたくて、ひっくり返すまでに半年かけ石坂を口説く。



石坂と榎本は藤圭子の売り出し戦略を練った。

デビュー曲用に4曲が録音された。詩は石坂まさおが手がける。
「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」はインパクトがあり売れ線とわかる曲。
が、一番地味だが聴けば聴くほど味が出てくる作風の「新宿の女」を選んだ。

最初にビッグヒットすると、曲に負け次が売れない事例が多々あったからだ。
いわゆる一発屋になりかねない。
石坂と榎本はヒット曲を作るだけでなく藤圭子をスターにすることをゴールにした。






今までの着物姿の演歌歌手とは違う、斬新なイメージも必要だ。
黒のベルベットのスーツに白いギターを抱える、どこか愁いを漂わせる美少女
というビジュアルを作った。(6)
その少女がドスの効いた声で歌う意外性。これは強烈なインパクトがある。


藤圭子は「いつも悲しい顔をして笑わないように」と指示された。
本当はよく笑うし、しゃべる子だったそうだが。

石坂は「演歌の星を背負った宿命の少女」というキャッチフレーズを作る。
圭子の不幸感を強調し、人々の情を買うような逸話をマスコミに流布した。


 極貧生活の中で育ち、幼い頃から浪曲師の両親の興行で歌って一家の生活を支え、
 東京に出てきてからも流しをして両親を養ってきた

 上京するまで白いごはんを食べたことがなかった

 圭子は盲目の母の手を引いて夜の巷を流して歩いた 
 寒さが身にしみて白いギターを持つ手がふるえた






母の手をとって歩く藤圭子のお涙頂戴的な映像もテレビで流れた。

藤圭子の母親は網膜色素変性症という視力が低下する遺伝性の病を抱えていた。
目が不自由なのは事実だが、盲目ではない。石坂が誇張した宣伝文句である。

(母思いで仲がよかったのは事実。歌手を志したのも、母をもっと楽にさせてあげて
不自由な目を治してあげられるかもしれないと思ったからだったという



「新宿の女」は男に捨てられた女の恨み節。石坂は新宿にこだわった
自分と藤圭子の薄幸を重ね合わせ、思い入れある新宿を舞台装置に選んだのだろう。

そしてゲリラ的なプロモーション、新宿25時間キャンペーンを敢行

流しで鍛えた藤圭子は喉が強く、ギターを弾きながらどこででも歌える。
新宿の酒場を周り、少女が25時間も歌い続けるというインパクトを狙った。
(今なら大問題、大炎上になりかねないが)




↑藤圭子の新宿25時間キャンペーンの様子が見られます。


が、本当はゲリラ的ではなく、前もって一軒一軒お願いをしてあったそうだ。
キャバレーでいきなりビッグバンドの前で歌わせてくれない。
事前に彼女を連れて行きバンマス、メンバー全員に挨拶をさせ「飛び入り的な感じ
やりますので、よろしくお願いします」と根回しをしておいたのだ。

ビクターレコード本体の宣伝部がマスコミを集め、キャンペーンは成功。
特にスポーツニッポンで取り上げられた記事が話題となりレコードは売れ出した。


この頃のレコードの販促は何でもありだった。(7)
当時のマネージャー談によると、新宿中の公衆便所に「新宿の女 藤圭子」と落書き
したり(犯罪です)、映画館や新幹線に「新宿の女を歌ってる藤圭子さんを」呼び
出し電話をかけたり(迷惑です)。。。。(元現場マネージャー、成田忠幸談)



デビュー曲「新宿の女」は1969年9月25日にRCAレコードより発売された。
以後、石坂まさをと組んでヒット曲を連発。

翌1970年の「女のブルース」は8週連続1位。
そして代表曲ともなった「圭子の夢は夜ひらく」も10週連続1位を記録。
ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、2枚目のアルバム「女のブルース」
は17週連続1位、計37週連続1位という空前絶後の記録(オリコン)を残す。




↑1970年 第1回日本歌謡大賞受賞パーティーで「圭子の夢は夜ひらく」を歌う藤圭子。




「圭子の夢は夜ひらく」は1964年にヒットした「夢は夜ひらく」の改作である。
園まり、緑川アコ、バーブ佐竹、梅宮辰夫の競作で、園まり版が一番売れた。

作詞は中村泰士、富田清吾、作曲は曽根幸明。
「圭子の」とは歌詞が違う。嘘と知りつつ男を信じてしまう女心が描かれている。




園まりの「夢は夜ひらく」が視聴できます。
個人的に見た目は園まりの方が好き(笑)でもこの曲の歌唱は藤圭子の勝ち〜。



原曲はネリカン(練馬少年鑑別所)で唱われていた俗曲。曽根が採譜・補作した。
その後、新たに歌詞と曲名をつけかえ、園まりが歌うことになった。

ネリカンで唱われていた原曲がどんな詩だったのか知る由もない。(8)
救いのないどん底感という点では石井まさをが書き換えた「圭子の夢は夜ひらく」
の方が近いものがあったのでは?と想像してしまう。


「圭子の夢は夜ひらく」を改めて聴くとブルース色が濃いアレンジが施されている。
もともとAm、Dm、Eの3コードだからマイナー・ブルースとして成立する。
ギターは最初のヴァースや曲間のオブリ、バッキングもジャジーである。
さらに1拍3連符での4ビート。



榎本襄の指摘「演歌歌手ではなくロック歌手としてならすごい」は的を得ていた。
演歌にカテゴライズされていたが、和田アキ子、ちあきなおみ、青江三奈と同じ
和製R&Bシンガー、あるいは昭和歌謡ブルース歌手と言ってもいいだろう。
しかも唯一無二の。


↑1970年 渋谷公会堂のライブ「圭子の夢は夜ひらく」。これは絶品です。


後篇に続く。


<脚注&裏話>