2023年2月7日火曜日

<追悼>デヴィッド・クロスビーの黄金のハーモニー。



1月20日にデヴィッド・クロスビーの訃報が報じられた。

バーズ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)のメンバーと
して、2度のロックンロール殿堂入りを果たしたシンガー&ソングライターだ。

多くのミュージシャンが声明を出し、クロスビーの逝去を惜しみ嘆いている。


<ニール・ヤング>
デヴィッドの声とエネルギーはバンドの核だった。
Almost Cut My Hair、Deja Vuなど彼の素晴らしい曲を一緒に演奏するのは
最高で、僕とスティルスは楽しくてワクワクした。
デヴィッドとグラハムのデュオは多くのライヴでハイライトだった。(一部略)



↑1970年9月、BBCテレビにグラハム・ナッシュと一緒に出演。
写真をクリックするとGuinnevereが視聴できます。
ニール・ヤングが言ってるように、この2人のハーモニーは極上の美しさ。



<スティーヴン・スティルス>
彼は偉大なミュージシャンであり、調和のとれた感受性はまさに天才そのもの。
僕たちの歌声は太陽に向かって羽ばたくイカロスのごとく高らかに鳴り響いた。
(一部略)


<グラハム・ナッシュ>
デヴィッドは、彼が紡ぎだす複雑なメロディのように難解な人物であった。
人生においても音楽においても大胆だった。純粋な人柄や才能。
彼の演奏や歌詞から、魂の奥底から響く微かな音を君も感じ取れるだろう。
デヴィッドの美しい音楽は、僕たちの心に生き続ける。(一部略)


ブライアン・ウィルソン、ジェイムス・テイラー、ブルース・ホーンズビー、
ピーター・フランプトンらも哀悼の意を表した。



CSN&Yのアルバム制作に携わったワーナーミュージックのケヴィン・ゴアは、
下記の声明を発表している。

クロスビーは思慮深くも直感的な創造力、完全無欠のミュージシャンシップ、
そして素晴らしい歌声で、ポピュラー音楽とカルチャーに長く語り継がれる
影響を与えてきた。
クロスビーの紡ぐ楽曲は、自己の内省観をえぐりだすような独自の創造性、
社会への鋭いまなざし、趣のあるメロディで、ロックの構造を支える大きな
柱であった。
彼の数々の作品を讃え、音楽史への並外れた貢献に感謝の意を贈る。(一部略)



↑1977年CS&N再結成時のライヴよりWooden Shipsが視聴できます。




<バーズでフォークロックを確立>

デヴィッド・クロスビーはLA出身。1960年代初頭にシカゴ、NYのグリニッジ
ビレッジでフォークシンガーとして活動していた。
ロジャー・マッギン、クリス・ヒルマンらとバーズを結成。

クロスビーの甘いテナーの高音パートは、バーズの3声コーラスの特徴となる
リズム・ギタリストとしてもカッティングが独特だった。
実験的な曲作りを志向し、モード的コード進行(1)、変則チューニング、アカペラ、
シタールの導入(2)など、先進的な面を担った。




1965年4月発売の「ミスター・タンブリンマン」が全米・全英1位のヒット。
フォークのソフトな雰囲気と豊かなハーモニー、ロックのリズム感とエレクトリ
ック・サウンドを融合させた「フォークロック」というジャンルを確立させた。


当時アメリカの音楽界を席巻していたビートルズはディランの影響を受け、アコ
ースティックギターをロックに取り入れ、内省的な歌詞も多くなった。
一方ディランはエレクトリック・ギターを持ってステージに上がり、フォーク・
ファンからブーイングを浴びながら新境地を開こうとしていた。


バーズの「ミスター・タンブリンマン」はディランの楽曲を歌わせて一儲けし
たいコロムビア(出版権を握っていた)の思惑が絡んでいた。
(PP&Mというユニットを作りディランの曲を歌わせた時と同じである)
コロムビアの社長はディランの曲をビートルズ風に演奏すれば売れるだろう、
と目論んでいた。(3)




ロジャー・マッギンはビートルズの影響でリッケンバッカーの12弦を買ったく
らいだから異論はなかっただろう。(4)
しかしレコーディングではレッキング・クルーが演奏。バーズは歌だけと当時の
アメリカの分業制(5)を強いられる、レコード会社優位の力関係があった。

同年10月に発売したピート・シーガーのカヴァー「ターン・ターン・ターン」が
全米1位となり、「ミスター・タンブリンマン」と共にバーズの代表曲となる。


バーズはロジャー・マッギンのワンマン体制下でメンバーチェンジを繰り返す。
メンバー間の確執からクロスビーは1967年に脱退




バースはサイケデリックロックから一転してカントリー路線(新メンバーのグラ
ム・パーソンズの意向)(6) 、クラレンス・ホワイトのギター演奏力を売りにし
たライブ・バンドへと迷走するが、1973年に解散した。

僕がリアルタイムでバーズを聴いたのは1969年の映画「イージー・ライダー」
挿入歌のWasn't Born to Follow(キャロル・キング作品)(7) で、前年の録音。
既にクロスビー脱退後である。




<ジョニ・ミッチェルとの出会い〜CS&N結成>

バースを脱退したクロスビーはジョニ・ミッチェルの才能を見出し、彼女
をメジャーデビューさせ自らプロデュースをしている。(8)

 



1968年7月LAのローレル・キャニオンにあるジョニの家で元バッファロー・
スプリングフィールドのスティーヴン・スティルスと元バーズのデヴィッド・
クロスビーは一緒に歌っていた。

そこへホリーズ脱退間近だったグラハム・ナッシュ(ジョニと同棲していた)
がハーモニーで加わり、歌い終わったときにCS&N結成の構想が生まれた(9)
彼らは自分たちの「魔法」をキャス・エリオットやジョン・セバスチャンに
聴かせた。



↑ジョニ、スティルス、クロスビー、ナッシュの共演が観られます。
1969年のライブ。左にジョン・セバスチャンの姿も。



(写真:gettyimages)


1969年5月29日、3人はデビュー・アルバムを発表。
アコースティク・ギターの変速チューニングを生かした音作りと、3人のコー
ラスの美しさは大きな話題となった
後のイーグルス、ドゥービー・ブラザーズなどウエストコーストロックのコー
ラスワークの原型となる。

8月にウッドストック・フェスティバルに参加(10)ハイライトの1つとなる。



↑ウッドストックでのCS&NのHelplessly Hopingが観れます。



↑ウッドストックでのCS&NのSuite Judy Blue Eyesが観れます。
(写真:gettyimages)



ロック的要素を強めたいというスティルスの要望で、元バッファロー〜でソロ
として活動していたニール・ヤングが加わる(11)



↑写真をクリックするとDeja Vuが聴けます。
(アルバム・タイトルにもなったこの曲はクロスビーが作曲した)


1970年のアルバム「デジャ・ヴ」は全米1位の記録的ヒットとなる。
商業的にも知名度においても、CSN&Yは頂点を極めた。
ニール・ヤングの参加により各人の自己主張が激しくなり、結果として4人が
それぞれの曲を持ち寄るという、多彩な作品となった(12)





バッファロー〜時代以来のスティルスとヤングの対立、さらにクロスビーと
ヤングの不和のため、ヤングが在籍したのは1年ほどであった。


1972年からクロスビー&ナッシュとして活動を始める。
お互いの曲調を尊重しながら補い合う、良好なスタイルが続いた。




2人の声質、ハーモニー作りの相性は良く、ジェイムス・テイラーのバック・
コーラスでも常連で曲に美しい拡がりを与えている。(13)

1977年にはクロスビー、スティルス、ナッシュで再結成。「CSN」を発表。
以降、1990年代まで何度か再結成を繰り返している。



<ドラッグ長期使用による混迷期>

1980年代には長年のコカイン、ヘロイン中毒で音楽活動に支障をきたす。
飲酒運転、ひき逃げ事故、45口径拳銃の不法所持、麻薬の所持で逮捕され、
9ヶ月服役することになる。

ナッシュ、スティルス、ヤング、その他の友人はクロスビーの社会復帰を
支援し、ソロ・アルバム発表やCSN&Y再結成を行う。





以降、断続的にソロ作品、クロスビー&ナッシュ、CS&Nと活動を続けて
いたが、奇行や勝手な発言、周囲との不和が目立つようになる。

ドラッグの過剰摂取でスタジオに来ない、嫌いなメンバーに攻撃的になる、
記者会見で勝手な演説をする、ステージのMCで政治的発言を行う、など。
また狩猟用ナイフ、弾薬、マリファナの不法所持で再び逮捕されている。(14)

ニール・ヤングとの不仲、盟友グラハム・ナッシュとの不仲から、CSN&Y
としての活動停止がグラハム・ナッシュから発表された
「今後デヴィッド・クロスビーと話をすることはない」と明言していた。


2019年にドキュメンタリー映画「デヴィッド・クロスビー:リメンバー
マイネーム」が制作された。(プロデュースはキャメロン・クロウ)
見ていないので内容については何とも言えない。




クロスビーは2023年1月18日に81歳で死去。死因は明かされていない。
家族の声明では「長い闘病生活の末に」死去したとされている。(15)
しかし、友人や同僚はクロスビーが死の当日まで活動を続け、ツアーや
新しいアルバムの計画に取り組んでいたと述べた。


グラハム・ナッシュはクロスビーの死を悲しみ、彼の才能を称えている。

「私たちの関係は時に不安定だったが、デヴィッドと私にとって何よりも
重要だったのは、共に創り上げた音楽、発見したサウンドの純粋な喜び、
そして長い年月を共にした深い友情だ。(中略)
彼は美しい音楽を通して自分の考え、心、そして情熱を語り、素晴らしい
レガシーを残してくれた。これが最も重要なことです」



↑2000年にVH1で放送されたCSN&Yのドキュメンタリー。

貴重な演奏シーンもあります。


<脚注>

2023年1月25日水曜日

<追悼>ジェフ・ベックを初めて生で見た夜。



<1978年ジェフ・ベックvs.スタンリー・クラークを武道館で見た。>

複数の友人と「ジェフ・ベックが亡くなった」というやり取りをした。
その中で「スタンリー・クラークとの来日、一緒に行ったよね」という話が出た。

あの時は確か5人くらいで行った憶えがある。
記憶の糸を手繰り寄せ、本人たちに聞いてみると、やっぱりそうだった。



BB&Aの来日公演をレコードでしか知らない僕はベックを生で見たいと思ってた。
しかもスタンリー・クラークとの共演である。これは凄いことになりそうだ。

なにしろベックは強者が相手の時はめちゃくちゃ冴えまくった演奏をする
たとえばロッド・スチュアート、ティム・ボガート、カーマイン・アピス、
コージー・パウエル、マックス・ミドルトン、ヤン・ハマー。
今回はスラップ・ベースをギターのように弾きまくるスタンリー・クラークだ。



↑友人の一人が当時のチケットを持っていた。
1978年12月2日(土)武道館大ホール。追加公演だったらしい。

席はアリーナL列46番。たぶん12列目の中央よりやや左寄りではないか。
よく見えたし音響的にもよかった記憶がある。(1)


客層はウェザーリポートやリターン・トゥ・フォーエヴァーを聴いてそうな人たち
が半分、残りはいかにもギター小僧!、メタル系よりはもっと大人のアル・ディ・
メオラなどフュージョン系のギターも聴いてそうな人が多かった。
騒いだり荒れることもなく、いい感じのノリで盛り上がったと思う。



<演奏された曲、丁々発止の二人の掛け合い>

客電が落ち歓声が挙がった。シンセサイザーの轟音が会場に広がる。
地鳴りのように腹に響くようなすごい迫力の重低音だった。



↑ブートCD(12/1武道館)の裏ジャケット。ベックのギターシンセはこんな感じ。


舞台の袖から出てきたベックはローランドのギターシンセ(2)で1曲目のDarkness
/ Earth In Search Of A Sunを演奏し始めた。
この曲は前年のヤン・ハマーとの全米ツアーで演奏された曲である。

2曲目のStar Cycleは次アルバム「ゼア&バック(There & Back 1980年)」収録
曲(ヤン・ハマー提供曲)だが、この時点で既に出来あがっいたようだ。
ベックはジャケットを着て、オリンピック・ホワイトに黒のピックガードの
ストラトキャスターを弾いていた。
(公演日によっては、サンバーストのストラトを使っていたようだ)



↑ブートCD(12/2武道館)のジャケット。


反対側からアレンビックのベースを弾きながらスタンリー・クラークが登場。
落雷のようなバリバリ音のスラップベースを凄まじいスピードで弾く。
ベックの早弾きのフレーズをスタンリー・クラークがベースで追いかける。

共演というより異種格闘技みたいな感じ(笑)である。会場は沸いた。
ベックも演奏を楽しんでいるようだった。





以下は日本武道館のセットリスト。

1. Darkness / Earth In Search Of A Sun (ヤン・ハマーとのライヴで演奏)
2. Star Cycle (次アルバム「ゼア&バック」に収録される)
3. Freeway Jam
4. Cat Moves(26日以降、20~24日はHot Rock) どちらもアルバム未収録(3)
5. Goodbye Pork Pie Hat
6. Bass Solo - School Days (Stanley Clark)
7. Journey To Love (Stanley Clark)
8. Lopsy Lu (Stanley Clark)
9. Diamond Dust
10. Scatterbrain - Drum Solo
11. Rock 'N' Roll Jelly (Stanley Clark)
12. Cause We've Ended As Lovers
13. Blue Wind
14. Superstition


ジェフ・ベックの人気曲が中心でスタンリー・クラークは4曲と客演扱い。
しかし演奏力、存在感ともに両者互角で、スタンリー・クラークは主役を
食いかねないくらいの人気だった。

★の2曲、Journey To LoveとRock 'N' Roll Jellyはスタンリー・クラークの
アルバム・レコーディングにベックがゲスト参加してギターを弾いた曲。


※School DaysとLopsy Luの2曲はこのライヴだけの共演である。(4)

↑クリックすると11月30日の日本武道館公演が聴けます。
(客席録音のブートのため音質はHi-Fiではないが、よく録れてる方だと思う)
ジャケットは来日パンフレットの写真を流用し作られている。帯まである!



<直前まで流動的だったメンバー>

実はジェフ・ベック+スタンリー・クラーク来日公演は即席バンドだった

ジェフ・ベック(ギター)
スタンリー・クラーク(ベース)
トニー・ハイマス(キーボード)
サイモン・フィリップス(ドラムス)


当初はジャズ・ドラマーのレニー・ホワイトが予定されてたらしい。
彼はリターン・トゥ・フォーエヴァーでスタンリー・クラークと一緒だった。
スケジュールが合わなかったのか、ベックが難色を示したのか。
サイモン・フィリップスジェフ・ベック・グループ時代のドラマー)に変更。
ジャズ畑のドラマーよりは、ベックとは相性がいいだろう。

キーボードはマイク・ガーソン(デヴィッド・ボウイのバック)が予定されて
いたが、彼の演奏にベックが満足できなかった。
11月になって急遽サイモン・フィリップスが連れてきたトニー・ハイマス(5)
(この2人はジャック・ブルース・バンドで一緒だった)に決定した。




直前に3日間の集中リハーサルを行っただけで来日となった。
4人のアンサンブル、グルーヴは本番を重ねていくうちに醸成されたのだろう。
(以下10会場でコンサートを実施。後半はバンドのグルーヴも出てきたはずだ)

11月20日 茨城県民文化センター
11月22日 石川厚生年金会館
11月23日 倉敷市民会館
11月24日 大阪府立体育館
11月26日 名古屋市公会堂
11月28日 新日鉄大谷体育館
11月29日 大阪厚生年金会館(追加公演)
11月30日、12月1日、12月2日(追加公演) 日本武道館



<ジェフ・ベック+スタンリー・クラーク来日公演が実現した理由>

そもそもワールドツアーの一貫として開催されたイベントではなかった


↑これも別なブートCD(12/1武道館)の裏ジャケット


当時はフュージョン・ブーム最盛期。
フュージョン系インストに傾倒したベックのアルバムも立て続けにヒット。(6)
この機になんとかベックを呼びたいウドー音楽事務所が動いたのではないか。


「ブロウ・バイ・ブロウ」発売後の来日(1975年)ではベックの体調不良の
ため3公演が中止。(最初から予定されてた公演予定地も偏っていた)(7)

1976年「ワイアード(Wired)」発表後のヤン・ハマーとの英国〜全米ツアー
の時は、スケジュールが組めなかったのか日本公演は実現しなかった(8)




一方ベックはスタンリー・クラークのレコーディングにゲスト参加している。
アルバム「Journey To Love (1975)で2曲、アルバム「Modern Man」
(1978)で1曲。(9)

そこでウドーはジェフ・ベック+スタンリー・クラーク、夢の共演(なんか
演歌みたいだな)を企画し、それぞれにオファーをしたのではないだろうか。


ベックは次アルバム「ゼア&バック(There & Back)」のレコーディングに
本格的に入る前で、スケジュール的には可能だった。悪い話ではない。
スタンリーとはやったことあるし。一丁稼いでくるか、というノリだろう。

スタンリー・クラークも次アルバム「I Wanna Play For You」の制作に入っ
ていたが、ジェフとジャムるくらいチョロい、日本で名前を売るいい機会だし
、レコードのプロモーションにもなる、と快諾?したのではないか。

とにかく二人に話を持ちかけ条件交渉、根回し、スケジュール調整、
会場の抑え、即席バンドの人選と交渉。かなり大変だったのではないか。
さすが、世界中のアーティストから信頼されるウドーの力である。



<海外での展開>

コンサートは最初日本限定企画というふれ込みだったが、その後デンマーク、
ノルウェー、フランス、オランダ、オーストリア、スペインでも行われた
何故かイギリスとアメリカでは行われていない。
大掛かりなワールドツアーにするには中途半端な時期だったのかもしれない。


↑12/1武道館のブートが多い。


そのため武道館・大阪・名古屋公演のブートCDは海外で人気があるらしい。
いずれも客席でカセットテープに隠し録りしたものがソースになっている。

中には「サウンドボード音源」と書いてあるものも流通しているが、実際は
オーディエンス録音で拍手の音が大きく「すげー」「いいぞ、ベック!」など、
しっかり客の声を拾ってるらしい。(「騙された」と言ってた友人談)
あまりお薦めできない。



1979年7月5日にアムステルダムで行われたジェフ・ベック&スタンリー・
クラーク共演をFMでオンエアしたライヴ音源があり音質も良好だ。

演奏曲はRock'n Roll Jelly、School Days / Jamaican Boy、Lopsy Lu。
ブートCDでも売ってるが、YouTubeでも聴けるのでそれで充分だろう。



↑クリックするとSchool Days / Jamaican Boy (Live 1979)が聴けます。



↑クリックするとLopsy Lu (Live 1979)が聴けます。



2006年にはロッテルダムで開催されたノースシー・ジャズ・フェスティバル
でジェフ・ベックとスタンリー・クラークが再共演
和気藹々のパフォーマンスを見せてくれる。
1978年の来日公演の動画はないが、ほぼこんな感じだったと記憶している。



↑クリックするとLopsy Lu (Live 2006)、2人の再共演が観れます。



※下記ブログを参考にさせていただきました。

縞梟の音楽夜話
Live In Japan 1978(昭和53年)/Jeff Beck with Stanley Clarke


当時の貴重な情報を知ることができ、感謝しております。
事前に許可をいただく前に掲載したことをお詫びします。
問題があるようでしたら削除しますのでご一報ください。



<脚注>

2023年1月12日木曜日

ジェフ・ベックの死を悼む。



今朝起きて妻から聞き、「嘘だろ?」と驚いた。

この人はまだまだ元気な姿を見せてくれる、という気がしてたのだ。

初めて聴いたのはジェフ・ベック・グループのJail House Rockだった。
それからベック・ボガード・アピス。そしてフュージョンの時期。

ジェフ・ベックはいつまでもやんちゃなギター少年のままだった。
そして唯一無二の偉大なギタリストだった。


ロック・ギタリストには2種類しかいない。ジェフ・ベックとジェフ・ベック以外だ。
 – ポール・ロジャース


名言です。



ジェフ・ベック、カッコいいロックとギターをありがとう。R.I.P.




過去の記事はこちらから。
    ↓

孤高のギタリスト、ジェフ・ベックの軌跡(1)JBG期
https://b-side-medley.blogspot.com/2020/05/1jbg.html

孤高のギタリスト、ジェフ・ベックの軌跡(2)BBA結成
https://b-side-medley.blogspot.com/2020/05/2bba.html

孤高のギタリスト、ジェフ・ベックの軌跡(3)フュージョン期
https://b-side-medley.blogspot.com/2020/05/3.html

ジェフ・ベック徹底研究(奏法と使用ギター、機材)

2022年12月7日水曜日

「リボルバー」2022リミックスを深掘りしてみる(4)




 <ジョージがリボルバーで使用したギター>

ジョージはこのアルバムで初めて1964年製ギブソンSGを使用している。(1)
ファズを併用しトレブリーでディストーションのかかった音を出している。
Paperback Writer、 Rain、Taxman、She Said She Saidの切れ味鋭い音は、
このSGではないかと思われる。




1962年製フェンダー・ストラトキャスターはI Want To Tell Youで使用
ポールの薦めでジョンとお揃いで購入したエピフォン・カジノ(2)どの曲で
使用したのか不明。

また前年のTcket To Rideのプロモ・ビデオでギブソンES-345を弾いてるのが
確認できるが、リボルバーのレコーディングでは使用してないと思われる。




グレッチのカントリージェントルマン、テネシアン、リッケンバッカー360/12
など初期ビートル・サウンドの要であったギターは使わなくなった

ジョージは「グレッチとヴォックスだけじゃないとやっと気づいた」「グレ
ッチとヴォックスの組み合わせはちゃちだ」とインタビューで答えている。




リボルバー・セッションでジョージはベースも担当した。(3)
(Good Day Sunshine、She Said She Saidがそうだと思われる)

BURNSというロンドンのメーカーが1964年に発売したNU-SONICベース
バスウッドのボディーで軽量。30インチのショートスケールでナロウネック。
ギタリストのジョージでも難なく弾きやすかったと思われる。






<ジョンがリボルバーで使用したギター>

ラバーソウルではアコースティックギターを使用した曲が多く、ジョンと
ジョージはギブソンJ-160Eとフラマスの12弦ギター、クラシカルギター。
ポールはエピフォン・テキサンを弾いていた。

しかしリボルバーではアコースティックは鳴りを潜め、I'm Only Sleeping、
Yellow Submarineの2曲でジョンがJ-160Eを弾いただけである。




ジョンは1965年製エピフォン・カジノ(2)を使用
カジノはジョンのメイン・ギターとして長く愛用され、後に塗装を剥がされ
ゲット・バック、アビイロードでも弾いている。

Paperback Writerではグレッチ6120を弾いている
オレンジ色が目を引くこのギターはチェット・アトキンスのシグネチャー・
モデルであるが、コードが美しく響くためボーカル主体のロカビリー・ギタ
リストにも愛用された。




ジョンが好きだったエディ・コクランもその一人で、6120を手に入れたのは
そのせいかもしれない。
しかしエディ・コクランの6120はフロントPUをP-90に交換してあった。
だからジョンの望む音は得られなかったのでは?その後は使用していない。(4)




<ポールがリボルバーで使用したベースとギター>

ラバーソウルに引き続きリッケンバッカー4001Sを使用
リボルバーではベースアンプの集音マイクの代わりにウーファーを代用し、
ポールが望んでいた迫力のある重低音を得ている。

前アルバムのMichelleでルート外しのベースラインを弾いたポールは「初めて
ベースの面白さに開眼した」と言っているが、リボルバー・セッションでは
それに音圧も加わり、Taxman、Paperback Writer、Rainで聴けるようなブン
ブン唸るベースラインを披露している。




また前年にエピフォン・カジノ(2)を手に入れたポールはリード・ギターも
弾くようになり、ヘルプ!セッションの頃からジョージの演奏が気に入らない
時は消して自分がやり直すこともあった。(5)

リボルバーではTaxmanの間奏で苦労したジョージがふてくされてスタジオを
出て行った間に、ポールがみごとなリードギターをキメてしまった。
戻って来たジョージも、インド音楽風のポールのギターを気に入った。

(エピフォン・カジノの音を加工したと思われるが、ポールは翌年フェンダーの
エスクワイヤーを弾いてる写真があり、この時既に使用してたかもしれない)




And Your Bird Can Singではジョージとポールがイントロ、間奏、オブリ、サビ
のバックで鳴るカウンターメロディーをずっと3度でハモリながら演奏している。
これは音を揃えるため、2人でエピフォン・カジノを弾いたのだろう。


リボルバーではギターをコンソールに直接つなぎ録音するダイレクトボックス
が開発され使用されている。
ギターの音はコンプレッサー(フェアチャイルド660/670またはアルテック
436をEMIがアップグレードしたRS124)で圧縮され、EMIが開発したイコライ
ザーRS56で音を強調している。






<VOXのハイブリッド・アンプとフェンダーのアンプが使用された>

リボルバーでは従来のVOXの真空管アンプAC-30やAC-50ではなく、新製品の
7120(ベースアンプは430)が初めて使用された

(リボルバーのレコーディングで初めて使用され、1966年のドイツ公演、日本
公演の後半(6)、サージェント・ペパーズの前半のレコーディングで使用された)





7120と430はソリッドステート(トランジスタ)のプリアンプ部とチューブ
(真空管)パワーアンプ部を組み合わせたハイブリッド型
チューブアンプは温かみのある太い音が特徴だが、ソリッドステートはジャキ
ッとした硬質でシャープな音が出る。

7120は出力120Wで2チャンネルの入力が可能(1つはビブラート用)。
ベース用の430は出力120W、4個の30cm口径アルニコスピーカーと43cm口径
のスピーカーを2個搭載している。




使用ギターが変わったことに加え、アンプが新調されたことも、リボルバーの
サウンドがソリッドでブライトになったことに影響してるはずだ。


リボルバーではフェンダーのアンプも導入された
「ヘルプ!」のレコーディングでストラトキャスターと併せて使用されたツイン
リバーブ(1965年製と思われる)が置いてあるのが写真で確認できる。(7)




プリ+パワーアンプ部とスピーカー・キャビネットからなるスタック型の真空管
アンプで出力は85W。ブラック・キャビネットでサランネットはシルバー。
ジョンは「ツインリバーブの音が好きだ」と発言している。


フェンダーの小型真空管アンプ、カスタム・ビブロ・リバーブも使用している。
一体型のコンボタイプで出力は30Wか50Wと思われる。
キャビネットはあまり出回っていない限定色のクリーム・トーレックス。







<リンゴのドラムを力強い音で録る工夫>

リンゴは前年に購入したラディックのオイスターブラック・パールのセット
バスドラム、フロアタム、タムタム、スネアは初期のものより一回り大きい。(8)
スネアの底面にはテープが貼られ、リボルバーではバスドラムの中にセーター
を詰め込んで、デッドな音にする(鳴りを抑えて音を重くする)工夫がされた。

リボルバーではトップ、キック用、フロアタム用、タムとスネアとハイハット用
4本、オンマイク(収音する楽器に近づけて)でセットされた。
その結果、今までより迫力があり臨場感のあるリンゴのドラミングが聴ける。





<4人編成のバンドの域を超えたレコーディング>

ビートルズは4人編成のギター・バンドという枠に収まらなくなっていた。
前述のようにポールがリードギターを弾いたり、ジョージがベースを弾くなど、
役割交換も行われた
曲によってはメンバー全員が揃ってないレコーディングもある

Eleanor Rigbyはストリングスをバックにポールが一人でボーカルを録音。
他の3人は関わっていない。Yesterdayの時と同じく実質ポールのソロである。

Love You Toはインドのミュージシャンが演奏したオケでジョージが歌った。
(ポールが上にハモったテイクも録られたが、ジョージ単独がベストとされた)


                              

For No Oneはポールの当時の恋人ジェーン・アッシャーが好んで聴いていた
バロック音楽の影響を受けた曲だ。
ポールが弾くピアノ、クラヴィコード、リンゴのドラムだけでベーシック・ト
ラックが録音され、ポールがベースとボーカルをオーバーダブ。
フィルハーモニア管弦楽団の主席ホルン奏者アラン・シヴィルに間奏を頼んだ。
ジョンとジョージは参加していない。





Here There And Everywhereはポールがジェーン・アッシャーへの想いを歌う
美しいバラード。
ポールがバッキングのギターを弾き、リンゴのドラム、ジョージがサビとエンデ
ィングで短いリフを入れた。
ベースはポールのオーヴァーダブ。ジョンは演奏に加わっていないようだ。

しかしエンディングの絶妙なタイミングで入るフィンガーナッピング(指パッ
チン)はジョン。そういうセンスがジョンならではだ。
美しい3声コーラスはジョン、ジョージ、ポールで2回歌って厚くしている。
ジョンのお気に入りの曲となった。(9)




Good Day Sunshineはラヴィン・スプーンフルの曲に着想を得たポールが、
トラッドジャズの感覚を加えて作った曲。ジョンはコーラスだけの参加。
(ジョージはベースを弾きジョンと一緒にGood Day Sunshine〜を歌ってる)

Got To Get You Into My Lifeはコーラスも試されたが破棄されたため、結果
にジョンの出番はなかった。(ジョージはギターのみ聴こえる)

She Said She Saidはバンド編成でリハーサルを重ねていたが、ジョンと口論
になったポールがぶち切れてスタジオを出て行ったため、レコーディングには
参加していない。
ジョージがベースとコーラスを担当した。

スタジオでの試行錯誤の時間が増え、その分リンゴは待ち時間が増えた。







<作曲力、演奏力ともに最強となり存在感が増したポール>

リボルバーではポールの存在感が大きくなった。
もちろんボスはジョンであることに変わりはないが、舞台作品から前衛音楽、
クラシック、アメリカの新しい音楽のムーヴメントまで吸収していたポールは、
バンドの目利き役として強い影響力を持つようになっていた。

作曲力とアレンジ力でも力を付け、ジョンを圧倒するまでになっていた。
一方ジョンはリボルバーの頃から実験的な音楽を志向するようになる。
それは時として難解で大衆受けしにくい音楽で、分かりやすい曲を作るポール
にシングルA面を譲ることになった。




ジョンとポールはソングライティング・チームであるが分業ではなく、どちら
かが作った原案を2人で練って発展させる、というスタイルだった。
しかしラバーソウルを最後に共作は少なくなる。

ジョンとポールの関係はパートナーからライバルに変化して行った。
実際に2人はどちらがシングルA面を獲るか競っていた。
2人とも譲らない時もあり、EMIは妥協策として両A面としていた時期もある。


以前はシングルA面、映画のタイトル曲など、ここぞという時はジョンの曲
(あるいはジョンが主体で作られた曲)が勝ち取っていた。




ハード・デイズ・ナイトは13曲中10曲がジョン。(10)
しかも捨て曲なしの名曲ぞろい、という怒涛の勢いである。
ジョンのソングライターとしてのピークはハード・デイズ・ナイトだったの
ではないか、と言っている音楽評論家がいたが同感である。


リボルバーはジョンとポールのパワーバランスの変わり目だったとも言える。


She Said She Said録音中にジョンと口論になったポールが出て行くなんて、
以前は考えられなかったのではないか。
それでもホワイト・アルバム録音中の険悪な雰囲気と比べたら、まだ他愛ない
喧嘩のレベルだったのだろう。





<アルバム・タイトル>



アルバム・タイトルの候補の一つがリンゴの造語、After Geographyだった。
発売されたばかりのストーンズのアルバム、Aftermath(災害などの余波)
もじったものである。

他にもAbracadabra、Beatles On Safari、Pendulums、Magic Circle、Four 
Sides Of the Circle、Four Sides Of the Eternal Triangleが候補に挙がった。

結局、レコードがプレイヤー上で回ることからRevolver(回転するもの)
いうタイトルに決まった。





<斬新なカヴァーアート>

回転のイメージが伝わるようロバート・フリーマンの写真をコラージュした
デザインが作られたが、採用されなかった。




ジョンはハンブルク時代からの友人、クラウス・フォアマンに電話で依頼。
フォアマンはEMIスタジオに赴き、Tomorrow Never Knowsを聴かせてもらう。

曲のイメージを元にフォアマンは4人のスケッチを描き、ロバート・フリーマ
ンが撮影した4人の写真をコラージュして斬新なポップアートを作り上げた


      


髪の毛の間や耳の中に自分たちがいるというアイディアを4人は気に入った。
白黒にしたのはカラフルなジャケットが多い中、目立つと思ったから。
裏ジャケットにはロバート・ウィタカーが撮影した写真が使われた。








<リボルバーのレコーディングを終えて>

最後の曲She Said She Saidの録音を終えたのが6月22日。
4月6日にTomorrow Never Knowsで始まったセッションは2ヶ月半で終了。
翌6月23日にはミックスダウン。

その日のうちに4人はドイツに旅立ち、24日ミュンヘンのサーカスクローネ、
25日エッセン、26日ハンブルクでそれぞれ2公演を行う。




そして27日ハンブルクを出発し東京へと向かった。
台風のためアンカレッジで足止めを食い、29日未明に羽田空港へ到着。
6月30日~7月2日、日本武道館で昼夜5回の公演を行う。
7月3日には次の公演のためマニラに向かった。


4人は新しい音作り、スタジオで毎日行われる実験に夢中だった。
ツアーの準備はまったくやっていなかった。そんな時間もなかった。
誰かが「曲数が足りない」と言うと、他の誰かが「デイトリッパーを2回
やればいい」と答える適当さ。ライブへの興味はとっくに失せていた。




リボルバー収録曲は武道館でもその後の北米ツアーでも演奏していない。
ステージで披露された新曲はシングルカットされたPaperback Writerのみ
で、それも手抜き感が否めなかった。
(重厚なコーラスの掛け合いは当時のステージでは再現できなかった)

来日中は東京ヒルトンホテルの最上階プレジデンシャルスイート1005号室で
4人はリボルバーのラフミックスのアセテート盤をかけながら、曲の順番を
どうするか話し合っていた。
ツアー中も心はリボルバーにあったのだろう。







<リボルバーこそがロックの革命だと思う>

ビートルズの音楽はロックンロール、ポップミュージックという枠に収まら
ない自由で広大なものになり、もはや当時の技術ではライブで再現できなく
なっていた。


世間的にはサージェント・ペパーズがロックの歴史を変えた一枚と言われる。
しかし既にリボルバーで実験的な試みをしロックをアートに昇華させている
サージェント・ペパーズへの布石となる過渡期のアルバムという見方が多い
が、リボルバーこそビートルズの潮目を変えた一枚ではないかと思う。




サージェント・ペパーズがロックの完成度の高い大作であることは事実だ。
が、個人的には盛りすぎのサージェント・ペパーズより野心的なロック色が
感じられるリボルバーの方が好きだ。


ラバーソウルに触発されてペット・サウンズを作ったブライアン・ウィルソン
はサージェント・ペパーズを聴いてショックを受けたと言われるが、彼はリ
ボルバーについてはどう感じたのだろうか?聴いてなかったのか?
どうもロックの歴史においてリボルバーは軽視されてる気がしてならない。


2022リミックスによって隅々まで見渡せるのに野太い音にパワーアップした
リボルバーを聴き直して再評価して欲しいと思う。


<脚注>