バーズ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)のメンバーと
して、2度のロックンロール殿堂入りを果たしたシンガー&ソングライターだ。
多くのミュージシャンが声明を出し、クロスビーの逝去を惜しみ嘆いている。
<ニール・ヤング>
デヴィッドの声とエネルギーはバンドの核だった。
Almost Cut My Hair、Deja Vuなど彼の素晴らしい曲を一緒に演奏するのは
最高で、僕とスティルスは楽しくてワクワクした。
デヴィッドとグラハムのデュオは多くのライヴでハイライトだった。(一部略)
↑1970年9月、BBCテレビにグラハム・ナッシュと一緒に出演。
写真をクリックするとGuinnevereが視聴できます。
ニール・ヤングが言ってるように、この2人のハーモニーは極上の美しさ。
<スティーヴン・スティルス>
彼は偉大なミュージシャンであり、調和のとれた感受性はまさに天才そのもの。
僕たちの歌声は太陽に向かって羽ばたくイカロスのごとく高らかに鳴り響いた。
(一部略)
<グラハム・ナッシュ>
デヴィッドは、彼が紡ぎだす複雑なメロディのように難解な人物であった。
人生においても音楽においても大胆だった。純粋な人柄や才能。
彼の演奏や歌詞から、魂の奥底から響く微かな音を君も感じ取れるだろう。
デヴィッドの美しい音楽は、僕たちの心に生き続ける。(一部略)
ブライアン・ウィルソン、ジェイムス・テイラー、ブルース・ホーンズビー、
ピーター・フランプトンらも哀悼の意を表した。
CSN&Yのアルバム制作に携わったワーナーミュージックのケヴィン・ゴアは、
下記の声明を発表している。
クロスビーは思慮深くも直感的な創造力、完全無欠のミュージシャンシップ、
そして素晴らしい歌声で、ポピュラー音楽とカルチャーに長く語り継がれる
影響を与えてきた。
クロスビーの紡ぐ楽曲は、自己の内省観をえぐりだすような独自の創造性、
社会への鋭いまなざし、趣のあるメロディで、ロックの構造を支える大きな
柱であった。
彼の数々の作品を讃え、音楽史への並外れた貢献に感謝の意を贈る。(一部略)
↑1977年CS&N再結成時のライヴよりWooden Shipsが視聴できます。
<バーズでフォークロックを確立>
デヴィッド・クロスビーはLA出身。1960年代初頭にシカゴ、NYのグリニッジ
ビレッジでフォークシンガーとして活動していた。
ロジャー・マッギン、クリス・ヒルマンらとバーズを結成。
クロスビーの甘いテナーの高音パートは、バーズの3声コーラスの特徴となる。
リズム・ギタリストとしてもカッティングが独特だった。
実験的な曲作りを志向し、モード的コード進行(1)、変則チューニング、アカペラ、
シタールの導入(2)など、先進的な面を担った。
1965年4月発売の「ミスター・タンブリンマン」が全米・全英1位のヒット。
フォークのソフトな雰囲気と豊かなハーモニー、ロックのリズム感とエレクトリ
ック・サウンドを融合させた「フォークロック」というジャンルを確立させた。
当時アメリカの音楽界を席巻していたビートルズはディランの影響を受け、アコ
ースティックギターをロックに取り入れ、内省的な歌詞も多くなった。
一方ディランはエレクトリック・ギターを持ってステージに上がり、フォーク・
ファンからブーイングを浴びながら新境地を開こうとしていた。
バーズの「ミスター・タンブリンマン」はディランの楽曲を歌わせて一儲けし
たいコロムビア(出版権を握っていた)の思惑が絡んでいた。
(PP&Mというユニットを作りディランの曲を歌わせた時と同じである)
コロムビアの社長はディランの曲をビートルズ風に演奏すれば売れるだろう、
と目論んでいた。(3)
ロジャー・マッギンはビートルズの影響でリッケンバッカーの12弦を買ったく
らいだから異論はなかっただろう。(4)
しかしレコーディングではレッキング・クルーが演奏。バーズは歌だけと当時の
アメリカの分業制(5)を強いられる、レコード会社優位の力関係があった。
同年10月に発売したピート・シーガーのカヴァー「ターン・ターン・ターン」が
全米1位となり、「ミスター・タンブリンマン」と共にバーズの代表曲となる。
バーズはロジャー・マッギンのワンマン体制下でメンバーチェンジを繰り返す。
メンバー間の確執からクロスビーは1967年に脱退。
↑ジョニ、スティルス、クロスビー、ナッシュの共演が観られます。
1969年のライブ。左にジョン・セバスチャンの姿も。
↑ウッドストックでのCS&NのSuite Judy Blue Eyesが観れます。
(写真:gettyimages)
ロック的要素を強めたいというスティルスの要望で、元バッファロー〜でソロ
として活動していたニール・ヤングが加わる。(11)
↑写真をクリックするとDeja Vuが聴けます。
(アルバム・タイトルにもなったこの曲はクロスビーが作曲した)
1970年のアルバム「デジャ・ヴ」は全米1位の記録的ヒットとなる。
商業的にも知名度においても、CSN&Yは頂点を極めた。
ニール・ヤングの参加により各人の自己主張が激しくなり、結果として4人が
それぞれの曲を持ち寄るという、多彩な作品となった。(12)
バッファロー〜時代以来のスティルスとヤングの対立、さらにクロスビーと
ヤングの不和のため、ヤングが在籍したのは1年ほどであった。
1972年からクロスビー&ナッシュとして活動を始める。
お互いの曲調を尊重しながら補い合う、良好なスタイルが続いた。
2人の声質、ハーモニー作りの相性は良く、ジェイムス・テイラーのバック・
コーラスでも常連で曲に美しい拡がりを与えている。(13)
1977年にはクロスビー、スティルス、ナッシュで再結成。「CSN」を発表。
以降、1990年代まで何度か再結成を繰り返している。
<ドラッグ長期使用による混迷期>
1980年代には長年のコカイン、ヘロイン中毒で音楽活動に支障をきたす。
飲酒運転、ひき逃げ事故、45口径拳銃の不法所持、麻薬の所持で逮捕され、
9ヶ月服役することになる。
ナッシュ、スティルス、ヤング、その他の友人はクロスビーの社会復帰を
支援し、ソロ・アルバム発表やCSN&Y再結成を行う。
以降、断続的にソロ作品、クロスビー&ナッシュ、CS&Nと活動を続けて
いたが、奇行や勝手な発言、周囲との不和が目立つようになる。
ドラッグの過剰摂取でスタジオに来ない、嫌いなメンバーに攻撃的になる、
記者会見で勝手な演説をする、ステージのMCで政治的発言を行う、など。
また狩猟用ナイフ、弾薬、マリファナの不法所持で再び逮捕されている。(14)
ニール・ヤングとの不仲、盟友グラハム・ナッシュとの不仲から、CSN&Y
としての活動停止がグラハム・ナッシュから発表された。
「今後デヴィッド・クロスビーと話をすることはない」と明言していた。
2019年にドキュメンタリー映画「デヴィッド・クロスビー:リメンバー
マイネーム」が制作された。(プロデュースはキャメロン・クロウ)
見ていないので内容については何とも言えない。
クロスビーは2023年1月18日に81歳で死去。死因は明かされていない。
家族の声明では「長い闘病生活の末に」死去したとされている。(15)
しかし、友人や同僚はクロスビーが死の当日まで活動を続け、ツアーや
新しいアルバムの計画に取り組んでいたと述べた。
グラハム・ナッシュはクロスビーの死を悲しみ、彼の才能を称えている。
「私たちの関係は時に不安定だったが、デヴィッドと私にとって何よりも
重要だったのは、共に創り上げた音楽、発見したサウンドの純粋な喜び、
そして長い年月を共にした深い友情だ。(中略)
彼は美しい音楽を通して自分の考え、心、そして情熱を語り、素晴らしい
レガシーを残してくれた。これが最も重要なことです」
CSN&Yのアルバム制作に携わったワーナーミュージックのケヴィン・ゴアは、
下記の声明を発表している。
クロスビーは思慮深くも直感的な創造力、完全無欠のミュージシャンシップ、
そして素晴らしい歌声で、ポピュラー音楽とカルチャーに長く語り継がれる
影響を与えてきた。
クロスビーの紡ぐ楽曲は、自己の内省観をえぐりだすような独自の創造性、
社会への鋭いまなざし、趣のあるメロディで、ロックの構造を支える大きな
柱であった。
彼の数々の作品を讃え、音楽史への並外れた貢献に感謝の意を贈る。(一部略)
↑1977年CS&N再結成時のライヴよりWooden Shipsが視聴できます。
<バーズでフォークロックを確立>
デヴィッド・クロスビーはLA出身。1960年代初頭にシカゴ、NYのグリニッジ
ビレッジでフォークシンガーとして活動していた。
ロジャー・マッギン、クリス・ヒルマンらとバーズを結成。
クロスビーの甘いテナーの高音パートは、バーズの3声コーラスの特徴となる。
リズム・ギタリストとしてもカッティングが独特だった。
実験的な曲作りを志向し、モード的コード進行(1)、変則チューニング、アカペラ、
シタールの導入(2)など、先進的な面を担った。
1965年4月発売の「ミスター・タンブリンマン」が全米・全英1位のヒット。
フォークのソフトな雰囲気と豊かなハーモニー、ロックのリズム感とエレクトリ
ック・サウンドを融合させた「フォークロック」というジャンルを確立させた。
当時アメリカの音楽界を席巻していたビートルズはディランの影響を受け、アコ
ースティックギターをロックに取り入れ、内省的な歌詞も多くなった。
一方ディランはエレクトリック・ギターを持ってステージに上がり、フォーク・
ファンからブーイングを浴びながら新境地を開こうとしていた。
バーズの「ミスター・タンブリンマン」はディランの楽曲を歌わせて一儲けし
たいコロムビア(出版権を握っていた)の思惑が絡んでいた。
(PP&Mというユニットを作りディランの曲を歌わせた時と同じである)
コロムビアの社長はディランの曲をビートルズ風に演奏すれば売れるだろう、
と目論んでいた。(3)
ロジャー・マッギンはビートルズの影響でリッケンバッカーの12弦を買ったく
らいだから異論はなかっただろう。(4)
しかしレコーディングではレッキング・クルーが演奏。バーズは歌だけと当時の
アメリカの分業制(5)を強いられる、レコード会社優位の力関係があった。
同年10月に発売したピート・シーガーのカヴァー「ターン・ターン・ターン」が
全米1位となり、「ミスター・タンブリンマン」と共にバーズの代表曲となる。
バーズはロジャー・マッギンのワンマン体制下でメンバーチェンジを繰り返す。
メンバー間の確執からクロスビーは1967年に脱退。
バースはサイケデリックロックから一転してカントリー路線(新メンバーのグラ
ム・パーソンズの意向)(6) 、クラレンス・ホワイトのギター演奏力を売りにし
たライブ・バンドへと迷走するが、1973年に解散した。
僕がリアルタイムでバーズを聴いたのは1969年の映画「イージー・ライダー」
挿入歌のWasn't Born to Follow(キャロル・キング作品)(7) で、前年の録音。
既にクロスビー脱退後である。
<ジョニ・ミッチェルとの出会い〜CS&N結成>
バースを脱退したクロスビーはジョニ・ミッチェルの才能を見出し、彼女
をメジャーデビューさせ自らプロデュースをしている。(8)
1968年7月LAのローレル・キャニオンにあるジョニの家で元バッファロー・
スプリングフィールドのスティーヴン・スティルスと元バーズのデヴィッド・
クロスビーは一緒に歌っていた。
そこへホリーズ脱退間近だったグラハム・ナッシュ(ジョニと同棲していた)
がハーモニーで加わり、歌い終わったときにCS&N結成の構想が生まれた。(9)
彼らは自分たちの「魔法」をキャス・エリオットやジョン・セバスチャンに
聴かせた。
ム・パーソンズの意向)(6) 、クラレンス・ホワイトのギター演奏力を売りにし
たライブ・バンドへと迷走するが、1973年に解散した。
僕がリアルタイムでバーズを聴いたのは1969年の映画「イージー・ライダー」
挿入歌のWasn't Born to Follow(キャロル・キング作品)(7) で、前年の録音。
既にクロスビー脱退後である。
<ジョニ・ミッチェルとの出会い〜CS&N結成>
バースを脱退したクロスビーはジョニ・ミッチェルの才能を見出し、彼女
をメジャーデビューさせ自らプロデュースをしている。(8)
1968年7月LAのローレル・キャニオンにあるジョニの家で元バッファロー・
スプリングフィールドのスティーヴン・スティルスと元バーズのデヴィッド・
クロスビーは一緒に歌っていた。
そこへホリーズ脱退間近だったグラハム・ナッシュ(ジョニと同棲していた)
がハーモニーで加わり、歌い終わったときにCS&N結成の構想が生まれた。(9)
彼らは自分たちの「魔法」をキャス・エリオットやジョン・セバスチャンに
聴かせた。
↑ジョニ、スティルス、クロスビー、ナッシュの共演が観られます。
1969年のライブ。左にジョン・セバスチャンの姿も。
後のイーグルス、ドゥービー・ブラザーズなどウエストコーストロックのコー
ラスワークの原型となる。
8月にウッドストック・フェスティバルに参加。(10)ハイライトの1つとなる。
8月にウッドストック・フェスティバルに参加。(10)ハイライトの1つとなる。
↑ウッドストックでのCS&NのSuite Judy Blue Eyesが観れます。
(写真:gettyimages)
ロック的要素を強めたいというスティルスの要望で、元バッファロー〜でソロ
として活動していたニール・ヤングが加わる。(11)
↑写真をクリックするとDeja Vuが聴けます。
(アルバム・タイトルにもなったこの曲はクロスビーが作曲した)
1970年のアルバム「デジャ・ヴ」は全米1位の記録的ヒットとなる。
商業的にも知名度においても、CSN&Yは頂点を極めた。
ニール・ヤングの参加により各人の自己主張が激しくなり、結果として4人が
それぞれの曲を持ち寄るという、多彩な作品となった。(12)
バッファロー〜時代以来のスティルスとヤングの対立、さらにクロスビーと
ヤングの不和のため、ヤングが在籍したのは1年ほどであった。
1972年からクロスビー&ナッシュとして活動を始める。
お互いの曲調を尊重しながら補い合う、良好なスタイルが続いた。
2人の声質、ハーモニー作りの相性は良く、ジェイムス・テイラーのバック・
コーラスでも常連で曲に美しい拡がりを与えている。(13)
1977年にはクロスビー、スティルス、ナッシュで再結成。「CSN」を発表。
以降、1990年代まで何度か再結成を繰り返している。
<ドラッグ長期使用による混迷期>
1980年代には長年のコカイン、ヘロイン中毒で音楽活動に支障をきたす。
飲酒運転、ひき逃げ事故、45口径拳銃の不法所持、麻薬の所持で逮捕され、
9ヶ月服役することになる。
ナッシュ、スティルス、ヤング、その他の友人はクロスビーの社会復帰を
支援し、ソロ・アルバム発表やCSN&Y再結成を行う。
以降、断続的にソロ作品、クロスビー&ナッシュ、CS&Nと活動を続けて
いたが、奇行や勝手な発言、周囲との不和が目立つようになる。
ドラッグの過剰摂取でスタジオに来ない、嫌いなメンバーに攻撃的になる、
記者会見で勝手な演説をする、ステージのMCで政治的発言を行う、など。
また狩猟用ナイフ、弾薬、マリファナの不法所持で再び逮捕されている。(14)
ニール・ヤングとの不仲、盟友グラハム・ナッシュとの不仲から、CSN&Y
としての活動停止がグラハム・ナッシュから発表された。
「今後デヴィッド・クロスビーと話をすることはない」と明言していた。
2019年にドキュメンタリー映画「デヴィッド・クロスビー:リメンバー
マイネーム」が制作された。(プロデュースはキャメロン・クロウ)
見ていないので内容については何とも言えない。
クロスビーは2023年1月18日に81歳で死去。死因は明かされていない。
家族の声明では「長い闘病生活の末に」死去したとされている。(15)
しかし、友人や同僚はクロスビーが死の当日まで活動を続け、ツアーや
新しいアルバムの計画に取り組んでいたと述べた。
グラハム・ナッシュはクロスビーの死を悲しみ、彼の才能を称えている。
「私たちの関係は時に不安定だったが、デヴィッドと私にとって何よりも
重要だったのは、共に創り上げた音楽、発見したサウンドの純粋な喜び、
そして長い年月を共にした深い友情だ。(中略)
彼は美しい音楽を通して自分の考え、心、そして情熱を語り、素晴らしい
レガシーを残してくれた。これが最も重要なことです」