2016年5月20日金曜日

日本のどこかに私を待ってる人がいる。

山口百恵の名曲「いい日旅立ち」は1978年秋に実施された国鉄(日本国有鉄道)の
旅行誘致キャンペーンのCM用に作られたタイアップ楽曲である。

CMに使用する楽曲のタイトルが国鉄の旅行誘致キャンペーンのコピーとしてすでに
決まっていた


<キャンペーンの背景>

万博終了後の1970年、余剰車両の有効活用を考えていた国鉄は電通に相談。
電通のプロデューサーだった藤岡和賀夫氏(1)が提案した「DISCOVER JAPAN(美
しい日本と私)」(2)という旅行誘致キャンペーンを開始した。

1977年に始まった「一枚のキップから」はキャンペーンが不調で短命で終わり、国
鉄は心機一転を図って翌年から「いい日旅立ち」を開始した。
企画したのは「DISCOVER JAPAN」を手掛けた電通の藤岡和賀夫プロデューサー。


「いい日旅立ち」は国鉄のキャンペーンのスポンサー(3)で旅券を発行する「日本旅
行」と車両を製造していた「日立製作所」の会社の文字をとって「日」「旅」「立」
をパズルのように組み合わせて作ったコピーだった。

こういうレトリックは広告の受け手、利用客には関係ないしまず気づかれない。
しかしスポンサーに対しては説得力があり、プレゼンテーション受けするのだ。





<タイアップ曲の制作過程>

電通からCBSソニーの酒井政利プロデューサー(4)に「山口百恵で国鉄のキャンペー
ンの曲を」とタイアップの話が持ち込まれ、川瀬泰雄ディレクター(5)に話が行く。


川瀬氏はホリプロのレコード制作部門である東京音楽出版のディレクターである。
ホリプロの所属歌手・俳優のレコード、映画、CMなどについては自社の制作部門
手がけることが契約条件になっていた。(この方針は現在も続いている)

山口百恵の場合も曲のCBSソニーの酒井政利プロデューサー曲のタイトル、イメージ
、方向性などを考える、それを具現化するべく現場で細かいディレクションを行って
いたのは川瀬泰雄ディレクターであった。


山口百恵のCMソングやTV主題歌のタイアップは基本的にシングルのB面に収録する
というのが原則だった。(6)
しかし川瀬氏がホリプロの会議にかけたところ、「いい日旅立ち」は一大キャンペー
ンだからA面で勝負してみよう、ということになった。

「いい日旅立ち」というコピーでスケールの大きい曲を書いてくれる作家は誰か?
酒井氏と川瀬氏は検討し、これまでシングルで続いた阿木燿子・宇崎竜童作品では
なくアルバムでいい作品を提供してくれていた谷村新司さんにお願いしようという
結論に至った。






谷村新司のデモ用カセットテープを聴いた川瀬氏は狙いが当たったことを確信する。

旅の情景が目に浮かんでくる大傑作だった。人選に間違いはなかった。
きっと百恵の代表曲になるだろうという予感があった。


谷村新司はこの曲について「あの時は百恵ちゃんありきだった。彼女が『日本』を
歌うとどうなるかということと、やはり日本はどこへ行くのかがテーマだった」と
振り返る。(7)

「日本の何処かに私を待ってる人がいる」はツアーで日本中を廻りよく知っている
であろう谷村新司ならでは詩であり、この一節だけでも国鉄の意向も完璧に取り入
れた秀れたコピーとして成立するくらいの出来だった。



<山口百恵の完璧な歌唱力>

「ああ~日本の何処かに~♪」と大きく伸びやかに歌うサビ。
その後の「いい日〜旅立ち〜♪」の低音部の「いい」からファルセットの「日〜♪」へ、
同じく「旅」から「立ち〜♪」へ上がる響きが美しい。

このメロディの上がり方は谷村新司の楽曲でしばしば見られるのだが、それをまた山
口百恵は情感豊かに歌い「いい日旅立ち」というコピーを強く印象づけている。



↑写真をクリックすると国鉄の「いい日旅立ち」のCMが見れます。


この時、山口百恵はまだ19歳。それでこの説得力はすごすぎる。

ビートルズの初期、23歳だったジョン・レノンがドスの効いた低音としゃくり上げる
ような声で「Baby It’s You」や「Anna」を歌っていたのに通じるものがある、と思っ
たのは僕だけだろうか。


<脚注>

(1)藤岡和賀夫
電通のプロデューサー。
富士ゼロックスのCM「モーレツからビューティフルへ」や国鉄の旅行客誘致キャンペ
ーンの「DISCOVER JAPAN」「いい日旅立ち」などを手がけた。
電通でPR局長を務めた 後、退社してフリーに。


(2)「DISCOVER JAPAN(美しい日本と私)」
電通の藤岡和賀夫プロデューサーが考案した国鉄の旅行客誘致キャンペーンのコピー。
「DISCOVER JAPAN」キャンペーンは1970年に始まり1976年まで続けられた。

国鉄側は「万博輸送でふくらんだ車両の万博後の使い道について何かいい知恵はないか」
かという「軽い気持ちの相談」を電通にしたつもりだった。
しかし電通のプレゼンを受けた国鉄は驚いたそうだ。

藤岡氏は万博に続くイベント企画、切符の割引や優遇制度など通常のプランニングを退
け、人生における旅の意味を真正面から追求しようというコンセプトを打ち出す。
自己発見という意味を込め「ディスカバー・マイセルフ」というタイトルも思いつく。
それを改め「ディスカバー・ジャパン」とし副題に「美しい日本と私」を添えた。
副題は川端康成の「美しい日本の私」に似ていたため承諾を得て使用している。




国鉄にもかかわらず「DISCOVER JAPAN」という英文ロゴ。
観光ポスターなら必ず入る地名の表記がない。ソフトフォーカスの写真。
すべてが型破りだった。

キャンペーンの始まりと時を同じくして1970年に女性誌an・an、1971年にnon-noが
創刊された。
両誌は各地の小京都や倉敷・萩などのシックな町並み、中山道の静かな宿場(妻籠宿・
馬籠宿など)を秋川リサなどのファッションモデルが訪れる形式で紹介。
若い女性の個人旅行スタイルを生み出した。
各観光地には小グループの女性客が多く来訪するようになり、観光地は女性をターゲ
ットとした街造りを意識するようになった。
両誌を抱えて各地を観光する若い女性たちは、「アンノン族」と呼ばれた。
また日本テレビの旅番組「遠くへ行きたい」も1970年から放送されている。




(3)国鉄のキャンペーンのスポンサー
旅券発行を担当していた日本旅行、車両を製造していた日立製作所がキャンペーン
の助成金を出した。
キャンペーンにあたって国鉄が賛助企業を募ったのも広告史上画期的だった。
この手法により、当時すでに赤字経営に陥っていた国鉄の出費は押さえられた。
賛助企業は国鉄の用意したキャンペーン媒体に広告を出すことができた。
なかでも最大の媒体となったのは全国をまわった「ディスカバー・ジャパン号」だ。
停車駅では賛助企業の日立の製品のショウルームとなり、客が集められた。
尚テレビのCM枠は複数広告主が認められないため国鉄だけの名前になっている。


(4)酒井政利
CBSソニーで南沙織、郷ひろみなどを育てた有名プロデューサー。


(5)川瀬泰雄
ホリプロのレコード制作部門である東京音楽出版に入社し、デビュー直後の和田アキ子
、井上陽水、浜田省吾、荒木由美子など多くの歌手のレコード制作に携わった。
山口百恵は3枚目のシングル「禁じられた遊び」から引退まで全作品を手がけている。
ホリプロ退社後もフリーの音楽プロデューサーとして活躍。


(6)CMソングやTV主題歌のタイアップ
当時はレコード会社が広告代理店や放送局に頭を下げてタイアップしてもらうという慣
習はなく、むしろタイアップ料を徴収するくらいであった。
音楽を制作するスタッフとしてもプライドがあったのだ。
1980年代に入るとCMで使われた曲、ドラマのタイトルで使われた曲は売れるというヒ
ットの法則が生まれ、タダで曲を宣伝してもらえることに気づいたレコード会社はタイ
アップをおねだりする(タイアップ乞食と言われた)地位に堕ちてしまう。

スポンサーや放送局より地位が低い広告代理店は「士農工商・代理店」とよく言われた。
その話を某レコード会社のA&Rにしたら「まだ、いいですよ、士農工商・犬猫・レコード
会社ですから〜」を笑っていた。


(7)谷村新司が語る「いい日旅立ち」
楽曲のタイトルから結婚式等の祝いの席や卒業式等の旅立ちの席で歌われることも多いが、
谷村自身は「歌詞をよく見て下さい。この唄は決してそんな祝いの席に歌うようないい
味の曲ではありません」と言っている。


<参考資料:川瀬泰雄「プレイバック 制作ディレクター回想記 音楽「山口百恵」全軌跡、
近藤正高「藤岡和賀夫 名プロデューサーが2020年東京五輪に遺した教訓」、毎日新聞
2015年10月1日東京夕刊 谷村新司インタビュー、他>

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

ほんの7-8年間でこれだけ当時の人々の心に刻む印象を残し、潔い引退をした年がまだ21歳だったなんて思えないほど、ぶれない信念を持っていたんだなあと思いました。大人ですねー。
私の21歳は、まだ大学生で何も考えていない頃でした。
今もそのまま大人になって年取ってしまったようで、恥ずかしい限りです。

前回の記事の「秋桜」を一番好んで歌いましたが、「いい日旅立ち」も好きな曲ですね。ぶれない百恵さんの信念が安定した声に現れているような気がします。

私は、ひとり、若しくは、女友達とふらりなんて度は経験がありませんが、この頃、確かにそんな旅をする人が増えていたと思います。その後も、この曲の影響で、女性が一人旅しても不思議ではなくなってきたのでしょうね。

イエロードッグ さんのコメント...

>Mary Ppmさん

いやあ、本当にそのとおりです。
自分の21歳の頃を考えると。。。もうバカ全開で。
赤面の至りです。
就職のことさえ考えていませんでしたから。

百恵さんは10代の頃から大人たちと仕事をしながら、
自分はどうあるべきかちゃんと信念を持ってたんですね。

「秋桜」は持ち歌だったんですね。
この曲はレコーディング時のキーが彼女には少し高かったらしく
(ファルセットを生かすため?)テレビで歌う時はキーを少し
下げていたそうです。

今では女性同士の旅行なんて当たり前、というより旅行は女性
がターゲットですが、1969年までは女の子だけで旅するなんて
無謀だという見方が一般的でした。
先週、有楽町のMUJIカフェで食事したら会社帰りのOLさんの
お一人様がいっぱいいましたよ。
時代は変わったなあと思いました。

消費を牽引するのは女性ですよね。
それを予見していた電通の藤岡さんはすごいと思います。
DISCOVER JAPANはDISCOVER WOMANでもあったのです。