2019年1月26日土曜日

リッチー・ブラックモアはなぜ4大ギタリストと呼ばれないの?

1965年1月、日本は宇宙怪獣キングギドラによって壊滅寸前だった。
人類は突拍子もない作戦に最後の望みを託す。

モスラにゴジラとラドンを説得してもらい、一緒にキングギドラを撃退するのだ。
しかしゴジラとラドンはそれを拒む。


双子の小美人(ザ・ピーナッツ)が「駄目です。モスラは一人で闘うつもりです」
と悲しそうに言う。
小学生だった僕の心は痛み、ポップコーンのカップを握りしめた。

しかし単身戦いを挑むモスラの姿に心を動かされ、ゴジラとラドンも加勢する。
三大怪獣の猛攻を受けキングギドラは、ついに空の彼方へ逃げ去った。
めでたし、めでたし。


「三大怪獣 地球最大の決戦」(1)は1964年12月公開のゴジラシリーズ第5作。
ゴジラが初めて善玉として描かれる。
校内の窓ガラスを叩き割ってた更生の余地のないワルが介護職とか消防隊員とか
人助けの仕事に就いたみたいな。。。(^^)

三大怪獣とはキングギドラを撃退するモスラ、ゴジラ、ラドンのはずだ。
当初はポスターにもそう明記されていた。





ところが途中からゴジラ、モスラ、キングギドラに変わった。
予告編も「ゴジラ、モスラ、キングギドラ 地球最大の決戦」になっている。

おそらく完成した段階で、キングギドラのインパクトが大きくゴジラに引けを取ら
ないスター性がある。それに比べラドンは地味。
三大怪獣と銘打った手前、4匹の名前を並べるのも違和感があると判断したのか。
ラドンの名前はいつの間にかキングギドラに入れ替わっていた。

ラドンは傷ついたんじゃないだろうか。
あれ?何で俺だけハブられるわけ?俺も頑張ってたよね?と思ったはずだ。






前フリが長くなってしまった。
クラプトン、ペイジ、ベックが3大ギタリストと称されるのに、なぜリッチー・ブラ
ックモアは(同等の実力があるのに)入らないのか?と不思議に思うことがある。

リッチーはラドンと同じハブられた感を味わったんじゃないか?と僕は思う。


クラプトン、ベック、ペイジが歴代ヤードバーズのギタリストという共通点はある。
しかしヤードバーズ出身がそんなに重要なことなのか?
政界、官僚は開成、麻布出身者が偉い(2)みたいな?



クラプトンはクリーム時代の評価で既に神格化されていた。
しかし1971年〜1973年のロック・シーンにおいてクラプトンは不在である。

1971年のデレク&ザ・ドミノスの2枚目レコーディング中にバンドは空中分解。
同年バングラディシュ・コンサートでもクラプトンの演奏は冴えない。

ヘロイン中毒とスランプから抜け出せず、1973年のレインボーコンサートで復帰
したものの本調子とは言えなかった。

翌1974年の461オーシャン・ブールヴァードでやっと返り咲いた。
このアルバムは名作だが発表当時、攻撃的なギターを期待したファンはレイドバック
したクラプトンに戸惑ったものだ。


ベックは第2期ジェフ・ベック・グループ解散後、最強ユニットBB&Aで力を発揮
するが長続きせず、アルバム1枚とライブ盤だけで終わってしまった。


クラプトン不在の1971年〜1973年にツェッペリンと並びハードロックの黄金期を
築いたのは第2期ディープパープル(イアン・ギラン在籍時)である。





リッチー・ブラックモアのキャッチーなリフ、入念に作り込まれたソロとアドリブ、
早弾きの超絶テクは、ジミー・ペイジと人気を二分するほどだった。

つまりこの時期、ギター小僧たちが憧れるスーパーギタリストといえばジミー・
ペイジとリッチー・ブラックモアだったのだ。
エレキギターを手にした少年たちの誰もが、スモーク・オン・ザ・ウォーターの
リフを弾いた経験があるだろう。

世界中のギターショップの店頭には「No Smoke On The Water」「No Stairway
To Heaven」という張り紙があったくらいだ。(みんなが弾いてうるさいから)


そしてパープルはハードロックからヘヴィメタへの流れを作った。
パワーコードによる厚いサウンド、リフを駆使した曲作り、高音でシャウトするボ
ーカル、ステージでの暴力的なパフォーマンスは基本形というかお約束になる。
黒いシャツ、黒いパンツ、ロンドンブーツもそうだ。胸をはだけるのも(笑)


いや、ヘヴィメタに限らない。
TOTOのステーヴ・ルカサー、後期イーグルスのジョー・ウォルシュもリッチーの
影響を受けてるはずだ。
ホテル・カリフォルニアの最後のギターのハモりは、ハイウェイ・スターに通じる所
があるような気がする。



話はまた逸れるが、昔フジテレビで深夜「カルトQ」(3)というクイズ番組があった。
スニーカー、タカラヅカ、ヤクザ映画、パチンコ、プロレス、ファミレスなどマニアッ
クなジャンルに特化したクイズ番組で、その道のオタがどんどん答えていくのだ。

見ててさっぱり分からなかった。でもそのカルトぶりがおもしろい。
そんな中、僕にも分かるテーマが3つだけあった。

ビートルズ → 8問正解(日本公演の11曲を演奏順に全て答えるなど)
ロック&ギター → 4問正解
犬 →11問正解(鳴き声で犬種を当てるとか、レトリバー6種の名前を全て言えとか)


ロック&ギターでは「有名な曲の間奏です。演奏者と曲名は?」と楽譜が表示された。
ギター弾きは五線譜が読めない人が多いせいか誰も答えられなかった。
でも僕にはすぐ分かった。ハイウェイ・スターだ。





そんなロック・ギターのカリスマとも言えるリッチー先生が外れたのはなぜか?

4大ギタリスト、あるいはロックギター四天王でもよかったじゃないか。
(ジミ・ヘンドリックスが生きてたら5大・・・?)

三大XXXだと収まりがいい、というのは分かる。
日本人は元来、三、五、七、八、十でまとめるのが好き。納得しやすい。(4)
(前述のラドン外しの三大怪獣なんか、その最たる例だろう)


改めて調べてみると、3大ギタリストという呼称は1970年代に日本の音楽関係者の
で使われ出したらしい。

伝説のバンド、ヤードバーズ出身が一つの基準になったのは確かだろう。
それと三者三様のスタイルが際立っていたこと、各々がステージ映えしカッコよかった、
存在感が大きかったこと、幅広い層に支持されていたという点も大きい。


もう一つ、リッチーの黄金期が意外と短かったことも4大ギタリストとはならなかった
一因かもしれない。


たとえば僕にとってはパープルの第2期の中でも1970〜1972年が黄金期だ。
イアン・ギラン、ジョン・ロード、リッチー・ブラックモア、イアン・ペイス、
ロジャー・グローヴァーの時代。

ジョン・ロードにはロックとクラシックとの融合という構想があった。
ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとのライブ盤(1969年、テレビ収録も
された)では、リッチーは窮屈でやりにくかったと言っている。


リッチーはハードロックをやりたいと考えていた。
ツェッペリンやブラックサバスの成功を見て、自分のギターとロバート・プラントの
ようなハイトーンでシャウトできる美形のボーカルがいれば絶対売れるはずだ、と。
イアン・ギランを見つけた時、これだ!とリッチーは思ったそうだ。


合意形成型のパープルで意見を通すのが難しかったため、リッチーはジョン・ロードに
「一枚だけハードロック・アルバムを作って反応をみたい」と提案した。
ジョン・ロードは了承。次作の主導権はリッチーに委ねられた。

初のハードロック・アルバム、イン・ロック(1970年)はUKチャートで4位を獲得。


プロモ用に作ったシングル曲のブラック・ナイトは2位。日本でもヒットした。
この曲のリフはリッキー・ネルソンのサマータイムを元に作ったそうだ。
僕はB面のイントゥー・ザ・ファイアー(アルバムにも収録)が好きだった。

チャイルド・イン・タイムはイッツ・ア・ビューティフル・デイのボンベイ・コーリング
をベースになっている、と後にイアン・ギランが言っている。



↑1970年BBCトップ・オブ・ザ・ポップス出演時の映像が観られます。


この成功を受けてディープ・パープルはハードロック路線を進むことが決定。
バンドの楽曲制作はジョン・ロードからリッチー主体になった。

翌1971年ハードロック第2弾、ファイアボールは全英で1位を獲得したが、
リッチーは内容について不満の意を表している。制作時間がなさすぎたのだ。
ストレンジ・カインド・オブ・ウーマンは好きだけど他はちょっと・・・)
次のアルバムは納得のいく環境で制作することにした。


1971年12月スイス、モントルーのレマン湖のほとりにあるホテルでゆっくりと鋭気を
養いながら、対岸にある6角形のカジノでレコーディングする予定だった。
ところが彼らが使用する直前このカジノでフランク・ザッパのコンサートが行われ、
興奮した観客が木製の天井に向け撃った信号銃から火災が発生。カジノは全焼した。

ホテルの窓から湖の上に煙が立ち込める様子を見ていたイアン・ギランが「スモーク・
オン・ザ・ウォーター」と言い、その言葉がバンド内で拡がった。
リッチーがあのシンプルなリフを編み出し、イアン・ペイスと一緒に曲を作った。


この曲を筆頭に、マシンヘッドは捨て曲なしの完成度の高いアルバムである。





前々作のブラック・ナイトもそうだが、リッチーはネタをパクって発展させる天才だ。
ハイウェイ・スターの中間部はモーツアルトらしい。
有名な早弾き間奏はスタジオのアドリブではなく、自宅でしっかり練り上げたもの。

レイジーはクリーム時代のクラプトンの楽曲、ステッピン・アウトが元ネタだとリッチー
本人が明かしている。


スモーク・オン・ザ・ウォーター、ハイウェイ・スターとパープルを代表する2大名曲
が入った美味しいアルバムだが、僕の一番の好みはネヴァー・ビフォア
最初にシングル・カットされた曲で、ハードなリフと歌メロのキレがよく、サビの転調
してバラードになる所が美しい。そしてまたロックンロールに戻る。大好きだった。



1972年8月に初来日。大阪フェスティバルホール、日本武道館でコンサートを開催。
この公演を録音したライブ盤が日本限定で発売されたが、その出来の良さが評判になり
海外でも「メイド・イン・ジャパン」のタイトルでリリース。

ライブ盤からシングルカットされたスモーク・オン・ザ・ウォーターがアメリカで大
ヒットし、パープルはアメリカでもブレークした。



↑クリックすると1972年日本公演のハイウェイ・スターの映像が観られます。


一方、マシン・ヘッドに続く新作、紫の肖像の制作は難航を極めた。
メンバー間の不仲とツアーの連続による疲労は、修復不能な段階まで来ていた。


リッチーとイアン・ギランはお互いリスペクトしてるものの反りが合わない。
二人とも仕切りたがるタイプだがベクトルが違う。
だんだんクリエイティブな話ができなくなる。悪循環だ。

1973年に再来日しているが、この時は既にバンドの不仲は頂点に達していた。
アンコールにも出てこないパープルに会場は騒然としたそうだ。


リッチーはイアン・ギランのボーカルにケチをつけ始める
エルヴィスみたいな歌いかたはやめろ、ヴィブラートはかけるな、とか。
(リッチーは元フリーのポール・ロジャースを理想のボーカリストと考えていた)

気分を害したイアン・ギランは日本公演の最終日に脱退していた。
巻き添え?でロジャー・グローヴァーも解雇される。



第2期のイン・ロック(1970年)〜メイド・イン・ジャパン(1972年)まで。
パープル時代のリッチーの黄金期はわずか3年である。
僕も含め周りでは、パープルはこの3年間だけでいい、という人が多い。
強烈な存在だったのに聴いてた期間が短いのだ。


デイヴィッド・カヴァデール、グレン・ヒューズ加入後の第3期パープルによる初
アルバム、紫の炎(1974年)も完成度は高いと思った。
しかしマシンヘッドのような魅力はない。音も変わった。時代の空気ももう違う。


一方リッチーのステージでのパフォーマンスは過激になって行った。
ライブの最後スペース・トラッキンでリッチーがギターを叩き壊すのも恒例だった。
有名なのは1974年のカリフォルニア・ジャムにおけるテレビカメラの破壊、アンプ
への放火&爆発であろう。

トリのEL&Pに負けたくなかったんだ、と後にリッチーは言っている。


(EL&Pもパープルも日没後のライティングを重視していたため出演順で揉めた)



↑1974年カリフォルニア・ジャムで暴れてるリッチーが観られます。


第3期パープルもハードロック志向のリッチーと、ソウル、ファンキーの要素を持ち込
みたい新メンバーのカヴァデール、グレン・ヒューズの間で亀裂が生じる。
そしてリッチーは脱退し、レインボーを結成




レインボーは聴いていないのでよく知らないが、メンバー・チェンジを繰り返し
ながら10年くらい続いていたようだ。

コージー・パウエル加入期のレインボーはリッチー第2の黄金期と言える。
レインボーから遡ってパープルを聴いた、という人も多いだろう。



とことんハードロックで長年に渡りリッチー先生を崇めている熱心な信者も多い。
が、ごくフツーのロック・ファンはリッチーを聴いていたのは短いのではないか。


そのせいかハードロック・オンリーの職人的ギタリストという印象で、クラプトン、
ペイジ、ベックのようなメジャー感がないのかもしれない。






クリーム、デレク&ドミノス、スワンプやレゲエなどレイドバックに傾倒し、ヒュー
・パジャムやサイモン・クライミーのサウンドを取り入れたり、アルマーニのスーツ
でブルースを歌う、アコースティック・ギターでも聴かせる、など時代の変化ととも
にしなやかに、そしてオシャレに生きてきたクラプトン。

一時はダイナソー・ロック(恐竜時代のロック)と言われたツェッペリンであるが、
単なるギタリストではなくプロデューサー、ソングライター、アレンジャー、サウンド
メーカーとしてジミー・ペイジは再評価されている。

ジェフ・ベック・グループからBB&A、フュージョン路線で新境地を開いたベック。



1983年のロニー・レーンARMSコンサート(5)でこの3人がステージに立った時、
三者三様で(見かけも演奏スタイルも)楽しめた。

この場にリッチーがいたらどうだろう?違和感ありありだったような気がする。
というか、4人が一緒に演奏するのを見たいとも思わない。


そういえばリッチーが他の御大と共演してるのって見たことないな。
とことんハードロックにこだわる孤高のギタリスト。それもいいじゃないか。
だから三大ギタリストみたいな枠に収まらない(似合わない)のかな?

しかし、近年のリッチーはもうハードロックはやっていないという。
4人目の妻、キャンディス・ナイトをボーカルとしたブラックモアズ・ナイトで、 
イギリス中世の音楽を現代風にアレンジしたフォークロックをやっているそうだ。 


次回はリッチー・ブラックモア奏法、愛器、機材について。


<脚注>


(1)「三大怪獣 地球最大の決戦」
1964年(昭和39年)12月20日に公開された日本映画。「ゴジラシリーズ」の第5作。
前作「モスラ対ゴジラ」の続編にもあたる。
シリーズ最大の悪役(敵役)キングギドラが初登場した作品でもある。
人類の脅威であるゴジラが、初めて善玉として描かれた。

金星人が憑依したサルノ王女(若林映子)と護衛を担当する刑事(夏木陽介)の淡い
恋は「ローマの休日」を彷彿させる。
「モスラ対ゴジラ」に引き続き、星由里子が夏木陽介の妹という設定で出演している。
東宝の怪獣映画はお子様向きではなく、大人も楽しめる内容でそこが魅力だった。


(2)政界、官僚の開成、麻布出身者
政界、官界、経済界で大学以上の強い仲間の結びつきがあるのが出身高校の同窓人脈だ。
中でも東大合格者数で37年連続トップの開成高校はOB同士の結束が固い。
政界、官界だけではない。金融開成会、ベンチャー開成会、外科学会開成会もある。
開成と並ぶ名門校の麻布高校は、育ちのよさと自由な校風で群れるのを好まない。
それでも麻布を卒業した国会議員を支える「麻立(まりゅう)会」がある。
筑波大附属駒場高校も東大合格率が高いが、ガリ勉ではなく天才肌が多いという。
灘高校も自由な校風。横の結びつきはそこそこあるようだ。


(3)「カルトQ」
1991年10月〜1992年3月にフジテレビの火曜日、深夜枠で放送していたクイズ番組。
司会はうじきつよしと中村江里子。
サブカルチャー(オタク文化)を題材にした「真夜中の狂信的(カルト)クイズ」と
して話題になった。番組で扱われたテーマは50以上に上った。


(4)日本人は三、五、七、八、十でまとめる。
欧米では2、4、7、10が多い。


(5)ロニー・レーンARMSコンサート
ロニー・レーンはスモール・フェイセス〜フェイセズのベーシスト。
多発性硬化症が悪化し、1983年9月多発性硬化症の研究機関を支援するためのチャリ
ティ・コンサート「ARMSコンサート」を提唱。
ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツが参加。
エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ共演し話題となった。


<参考資料:ザ・リッチー・ブラックモア・ストーリー、ギター・マガジン、ギター・
プレイヤー、エレキギター博士、Wikipedia、YouTube他>

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