2021年5月5日水曜日

井上陽水の「氷の世界」は終わりの始まり<前篇>

 <「氷の世界」-日本音楽史に打ち立てた金字塔>

井上陽水の3枚目のアルバム「氷の世界」は1973年12月1日の発売と同時に異常な
売れ行きをし始め、オリコン・アルバムチャートの第1位に躍り出た。
そのまま113週連続(2年以上)ベスト10に留まり、発売から1年9ヶ月後の1975年
8月には100万枚を突破し、日本音楽史上初のミリオンセラー・アルバムとなる。


大卒サラリーマンの平均初任給6万円の時代、2200円のLPが飛ぶように売れたのだ。
ステレオの世帯普及率は40〜50%。
大半の人は500円のシングル盤を買い、小型の電蓄で聴いていた。
中高生、いや大学生のお小遣い事情でさえ気軽にLPを買えなかったはずだ。

洋楽ロックや当時、台頭して来た和製フォークを聴く層はヒット曲だけでは満足でき
ず、シングルではなくアルバムで聴きたい気持ちが強かった。
歌い手の世界観やコンセプトを共有したい、という気持ちで買ってた気がする。
しかしディープな音楽ファン以外の層にも売れないと100万枚超えは難しいだろう。


このアルバムはなぜそんなに売れたのか?
「氷の世界」成功の理由を探る前にそれまでの流れを押さえておこう。


<井上陽水という売り方>

井上陽水は福岡から上京しホリプロと契約。
CBSソニーよりアンドレ・カンドレの芸名でデビューしたが鳴かず飛ばずだった。




その後ポリドール・レコードに移籍。井上陽水と改め再デビューを果たす。


井上陽水(あきみ)というのが彼の本名だった。
マネージャーの奥田義行氏は当時、既にフォーク界で不動の人気を誇っていた吉田
拓郎が「拓郎」の二文字で若者に支持されてることから、「陽水」の2文字を強調
し対抗していこうと考え、井上陽水(ようすい)として売ることにする。

ポリドールのプロデューサー多賀英典氏も拓郎を仮想敵にし追い抜こうと考えた。
「吉田拓郎が一頭地を抜いてた。誰にも分かりやすい歌で軽妙洒脱さが陽水と違う。
拓郎のアルバムは初め、陽水より全然売れていた」と当時を振り返る。

陽水も「圧倒的に吉田拓郎という人が当時いて、見上げるような感じで燦然と輝い
ていたのは事実で、当然意識はしていた」と言っている。



<断絶、傘がない〜政治の季節の終わり>



1972年5月に発売された最初のアルバム「断絶」は徐々に売れ始めた。
きっかけは陽水がミッドナイト東海(東海ラジオの深夜ラジオ番組)に出演し生で
4~5曲歌い、人気DJだった森本レオが番組内でレコードを全曲紹介したことだ。
名古屋のヤマハ本店で「断絶」が70枚売れて話題になる。




「断絶」はモップスの星勝が編曲。モップスのメンバーが演奏で参加している。
深町純もピアノとオルガンを弾いた。
「家へお帰り」以外すべての曲が暗く重い。僕は好きになれなかった。




7月に「断絶」から「傘がない」がシングル盤としてリリースされる。
社会が抱える問題よりも今日の雨、恋人に会いに行きたいのに傘がないことの方が
問題だ、と皮肉を込めて歌われている。
社会的問題に向き合わないミーイズム(自己中心主義)とも言われた。
(同年、拓郎は「結婚しようよ」をヒットさせている)

 都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた
 だけども問題は今日の雨 傘がない



↑陽水の弾き語りによる「傘がない」が視聴できます。(1972年頃)


「今朝来た新聞の片隅に書いていた」はビートルズのア・デイ・イン・ザ・ライフの
歌詞、 I read the news today, oh boy から着想を得たそうだ。


 レビでは我が国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべっている
 だけども問題は今日の雨 傘がない


作曲された1971年はまだ政治の季節であった。
が、翌1972年には学生運動が鎮静化。政治に無関心なシラケ世代の時代になる。
そのため「傘がない」は憂国の時代、政治の季節の終わりを告げる象徴と言われた。


Am-G-F-E7sus4-E7の循環コード(アンダルシア進行)はグランド・ファンク・レイ
ルロードのハートブレイカーのパクリ?にも思えた。
当時は2曲つなげて歌ったものだがコードが簡単なので初心者でも弾きやすかった)
実際ハートブレイカーが元ネタらしい。

1971年7月伝説となったグランド・ファンク・レイルロードの激しい雷雨中の後楽園
球場公演で演奏されたハートブレイカーに触発された陽水は「傘がない」を作った。
後からサビの冷たい雨が〜(Dm)が追加された。



↑グランド・ファンク・レイルロードのハートブレイカーが聴けます。


Am-G-F-E7は、悲しき街角、ウォーク・ドント・ランなどポップスでよく使われる
コード進行だが、「傘がない」はリズムの刻み方もハートブレイカーに酷似してた。

「傘がない」が呼び水となり、アルバム「断絶」は徐々に売れ始めた。
1972年発売当初より、3枚目の「氷の世界」と並行して1974年〜1975年にかけ
163週にわたりオリコン100位にチャートイン。51万枚のセールスを記録。
陽水のアルバムの売れ方の特徴でもあるがロングセラーとなった。



<東へ西へ、紙飛行機、夢の中へ>

陽水自身は売れた理由について「おりからのフォークブームでなんとなく浮上」
と述べている。(「陽水ライヴ もどり道」ジャケット内自筆年表)


1972年12月発売の2枚目のアルバム「陽水II センチメンタル」も同じく、発売時
よりも1974年に年間8位、1975年に年間15位を記録した。




センチメンタルというタイトルはプロデューサーの多賀英典氏がつけたもの。
人間なんて基本的には女々しいんだからいいじゃないかという気持ちこの頃
から陽水で勝とう、絶対注目を集めてみせるという対極の意識が芽生えたそうだ。

このアルバムからはシングルカットされなかったが、「東へ西へ」「紙飛行機
は後に「傘がない」と並ぶ代表曲となった。



↑クリックすると陽水の「東へ西へ」が聴けます。
(近年iriのカヴァー・ヴァージョン<Yaffleプロデュース>で再評価された)



個人的には「たいくつ」が好きだった。

 つめがのびている 親指が特に のばしたい気もする どこまでも長く
 アリが死んでいる 角砂糖のそばで 笑いたい気もする あたりまえすぎて



達観したような万物の見方。静かな「わび・さび」の境地にも通じる世界観。
陽水のギターはニール・ヤングのミュート奏法を参考にしたと思われる。
安田裕美のアコースティックギターのからみ方もいい。



↑「たいくつ」が聴けます。(1973年 新宿厚生年金会館 陽水ライヴ もどり道)



前述の3曲、そしてこの曲。すべてAm(カポ使用曲も含め)で演奏されている。
陽水はマイナーで歌われる曲が多く、陰鬱で重苦しいイメージが強い。
(「あどけない君のしぐさ」「白いカーネーション」など綺麗な曲もあるが)


翌1973年3月発売のシングル「夢の中へ」はそれまでの暗さを払拭し、明るく
親しみやすいポップなロックンロールである。
シングルでは初めて20位以内にランクインし、20万枚近いセールスを記録。
これも陽水の代表曲の一つとなった。



<拓郎と陽水の二強時代>

1973年当時、従来のプロテスタント・フォークとは違った私的な世界観を歌う
和製フォーク(荒井由実に四畳半フォークと揶揄される)が一つのジャンルとして
確立され、マーケットとしても大きくなっていた。

そのフォークソング・ブームの頂点にいたのが拓郎と陽水である。
もっとも当の二人はフォーク歌手という自覚はない。
ディランやドノヴァンやニール・ヤングに傾倒しアコースティックギター(当時
はフォークギターと呼ばれた)を弾くシンガー&ソング・ライターだったのが、
周囲が勝手にフォークというジャンルにカテゴライズしたというだけの話である。




フォーク・ブームの中、拓郎派と陽水派が生まれた。(両方とも好きな人もいた)
デビュー時から恋愛を歌い女子に人気があった拓郎は、フォークはプロテスタント
であるべき論を唱える左派から軟弱視され野次られることも多かった。

一方、内省的で淡々と自分の世界観や心情を歌う陽水は、ポスト学生運動のシラケ
世代、どちらかというと男に支持されていたと思う。


当時、陽水と一緒にツアーすることが多かったアリスは女の子のお客さんが多く、
陽水は男性客が多かった。
「チンペイのとこはいいよな、黄色い声が多くて。俺はぶっとい声でヨウスイ~!
とか言われてがっかりだよ」と陽水は谷村新司によく愚痴っていたそうだ(笑)
(「陽水ライヴ もどり道」を聴くと女性ファンの声も聞かれるが)

拓郎にも陽水にも熱心な信者がいたが、陽水の方がより多かった気がする。
陽水の詩の行間から自分が共感できる何かを読み取ろうとしていたのだろうか。





<「氷の世界」は日本社会の終わりの始まりだった>

陽水の歌には、こうあるべきだ、と人に行動を促すメッセージ性はない。
世の中いろいろ起きてるけど僕はここでなんとなく生きてます、と陽水は歌う。
あかずの踏切」の歌詞のように、今の場所に留まって傍観しているだけだ。

 相変らず僕は待っている 踏切りがあくのを待っている


それが前述のように憂国の時代、政治の季節の終わりを告げる象徴とも言われた。
学生運動の無力さを痛感し就活に切り替えた団塊世代、それを傍観していた政治
に無関心なポスト団塊世代(シラケ世代)の心を陽水は捉えた




「氷の世界」が発売された1973年12月の直前、オイルショックが起きたことも
見逃せない。
翌1974年に日本は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験する。
それは高度経済成長の終わりを告げるものであった。
挫折である。「頑張れば報われる」神話が通じなくなった




谷村新司は「高度成長の中、団塊の世代は勝つことに躍起になっていた。
価値観が違うことを教えてくれたのがこのアルバムなんじゃないかと思う。
自分はこう思うと堂々と主張してもいい。共感する人は支持してくれると」
と言っている。


宗教史学者の中沢新一氏は「氷の世界」をこう評した。
「日本はずっと『あかずの踏切り』を続けてきた。向こうへ行きたいけど
渡れないでずっと待っている。到着点を示すのがメッセージソングという1970
年代に、待機している状態を歌っているのが新鮮だった。
目的に向かって突っ走っていたのがオイルショックで挫折した時に、井上陽水
のこの考え方は大きな意味を持つ。
日本は3.11である部分すべて終わった。『氷の世界』は予兆的でもある」




タイトル曲の「氷の世界」では、誰もが内包する矛盾や狂気や叫びが歌われる。

 誰か指切りしようよ 僕と指切りしようよ
 軽い嘘でもいいから 今日は一日はりつめた気持でいたい

 人を傷つけたいな 誰か傷つけたいな
 だけど出来ない理由は やっぱりただ自分が恐いだけなんだな

 そのやさしさを秘かに 胸にいだいてる人は
 いつかノーベル賞でももらうつもりで ガンバッてるんじゃないのか

 毎日 吹雪 吹雪 氷の世界


「若者にとっての不条理がこの時代溢れていた。若者に対する拒絶の仕方。
もっとたくさんの井上陽水がいたということはまちがいない。
自分たちの目の前の不条理を言ってくれた陽水を彼らは支持した
と伊集院静は言っている。





<「氷の世界」は歌謡曲の終わりの始まりでもあった>

なかにし礼は「拓郎と陽水の二人の出現によって、職業的な作詞家作曲家の存在
はほとんど不要になった」と言っている。

「われわれ職業作家が作詞・作曲し歌手が歌うという作業では、1970年代の若者
たちが抱えていた精神の問題を解決する作品には成りえていなかったということ。
それを彼ら(拓郎と陽水)がすくい取って、自分たちの作品に反映させていった」

あの時代「氷の世界」が出たことによって歌謡界そのものが終わってる
その後も細々続いているけれど、それは永遠に終わりの始まり
若者が自分で作詞作曲して歌う、という姿勢はいまだに貫かれている」



↑後に作詞・作曲、スタジオ・ミュージシャンとして歌謡界でも存在感を増して行く
はっぴいえんどの大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆。



筒美京平は「吉田拓郎の登場は危機感は持った。井上陽水が出てきた時はそれほ
ど意識しなかったけど」と言っている。
筒美京平ら作曲家が洋楽を取り入れて洒落たコード進行やアレンジで装飾し進化
させてきた歌謡曲を、単純で素朴なコードで字余りソングを歌う拓郎が覆した。
(一方、吉田拓郎は「いい曲だと思うとたいてい筒美京平だった」と言っている)

陽水は演歌にも通じる日本的なメロディやコード進行の曲が多かったから、(歌詞
を別にすれば)作曲家の筒美京平にとってさほ脅威でなかったのかもしれない。


職業作家が用意した曲を歌手が歌うという従来の歌謡界のシステムは崩れ出す
テレビの歌番組で局が用意した歌伴オーケストラの演奏でワンコーラス歌わせて
もらってレコードの販促につなげる、というヒット曲作りの方程式も揺らいだ




吉田拓郎や荒井由実はヒット曲のショート・ヴァージョンを歌うのは嫌、自分が
歌いたい歌を何曲か、自分(と自ら率いるバンド)で演奏して歌うスタジオ・
ライブの形式じゃないと受けない。それ以外は出演を断り続けた。

陽水にいたってはこの頃はテレビ出演を断っていた。見ることが奇跡的。
コンサートに行かないと見れない。それが陽水をより大きい存在にしていた。

(続く)


<参考資料:「井上陽水 氷の世界40年」日本初ミリオンセラーアルバムの衝撃
とその時代(NHK 2013年12月放送)、中央調査報 世帯インデックス調査、
アセットマネジメントOne、産経ニュース、戦後昭和史 レコードの価格推移、
レコードコレクターズ、ザ・カセットテープ・ミュージック、Wikipedia、他>

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