2023年4月9日日曜日

1965年に実現したチェット・アトキンスの来日公演。


↑一緒に来日したスキーター・デイヴィスと。ホテルの中庭と思われる。
チェットはダブルカッタウェイのカントリージェントルマンを持参。



<チェットが来日した1965年の日本>

チェット・アトキンスが来日したのは一度だけ。
1965年10月14日〜16日に開催されたパッケージ・ツアー、ポップ&
カントリー・フェスティバルに出演するためであった。

当時の日本は高度経済成長期の真っ只中。
前年1964年10月に東京オリンピックが開催され、東京の街が大きく
変わって行った時期であった。(1)


1965年1月にはベンチャーズ来日公演が若者に衝撃を与え、さらに
7月の再来日・全国ツアーでベンチャーズは一大ブームとなる。

エレキギターが人気を博し「勝ち抜きエレキ合戦」(2)が放送された。
12月に映画「エレキの若大将」(3)が公開され、エレキは社会現象と
なり、歌謡曲のサウンドにも影響を与えた。




チェット来日は1965年ベンチャーズの夏の全国ツアーの後である。
エレキギターがブームの最中、ノーキー・エドワーズにも影響を与
えたギターの神様が日本に来るのだから、もっと話題になってもよ
さそうなものだが、あまり人々の記憶に残っていない。
日本の音楽史にチェット来日がしっかり刻まれていないのが残念だ。

レコード業界の人に訊いても知ってる人は少なかった。
それはチェット・アトキンスがカントリーという日本ではマニアック
なジャンル(4)のギタリストであったからではないかと思う。



<ポップ&カントリー・フェスティバルとは>

チェットが出演したポップ&カントリー・フェスティバルとは何だっ
たのか?
それは1950年代後半から日本で起こったカントリー・ミュージック
愛好家のムーヴメント(5)から誕生したイベントである。

1957年に文化放送でラジオ番組「サンデー・ウエスタン」が開始。
番組のファンクラブ「サンデーウエスタン友の会」のメンバーが、
「東京グランド・オール・オープリー」(6)を起ちあげる。

カントリーのコンサートを有楽町ヴィデオ・ホールで定期的に開催。
出演はジミー時田とマウンテンプレイボーイズ、原田実とワゴンエー
ス、米軍バンド、学生バンドなどであった。



↑アメリカでもそうだが、カントリーといえばカウボーイだ。
(日本ではウエスタン、カントリー&ウエスタンと呼ばれていた)


1962年に駐留軍慰問のため来日したジョニー・キャッシュが、初めて
日本人向けに後楽園ホールで公演を行ったことでカントリー・ミュー
ジックの機運が高まる。

1963年にピート・シーガー、ファーリン・ファスキーが来日公演の際、
東京グランド・オール・オープリーに出演。
1964年にはハンク・スノウ、マーティ・ロビンス、ロイ・エイカフが
東京グランド・オール・オープリーに出演した。






<1965年 ポップ&カントリー・フェスティバルの概要>

そして1965年、日本でポップ&カントリー・フェスティバルが開催。
チェット・アトキンス率いるナッシュビル勢がやって来た
The End Of The Worldの大ヒットで知られるスキーター・デイヴィス、
コーラスグループのザ・ブラウンズ、ハンク・ロックリン、という一
どころのパッケージ・ツアーである。




招聘元(プロモーター)はどこだったんだろう?
東京グランド・オール・オープリーの関わり、役割は?

※招聘元はビクター芸能株式会社(今のビクターミュージックアーツ
(株)のようです。縞梟さん情報です。ありがとうございました
ただし呼び屋(興行主)は別に任せてる場合もある。


東京圏と大阪圏で9公演。(7)
後日チェットは「日本では各地を回って素晴らしい体験をし、素晴
らしい人たちと出会った」と述懐してる。



↑来日メンバーを皇居・二重橋に案内。
右からザ・ブラウンズの3人、チェット・アトキンス、ハンク・ロッ
クリン、スキーター・デイビス、チェットのツアーのベースマン。




公演は3部構成のオムニバス・コンサートであった。

(第1部)
ハンク・ロックリン、スキーター・デイヴィス、ザ・ブラウンズが
それぞれ3曲ずつ。30分くらいだったのだろう。



↑スキーター・デイヴィス。ベースはチェットのツアーでお馴染み。
ギタリストもアメリカから連れてきた人らしい


(第2部)
チェット・アトキンス登場!8曲演奏。MCを入れて30分程度か?
全曲バンド編成で、チェットはグレッチを弾いたと思われる。
ベースなどチェットのツアーバンド常連の姿も見られるが、日本の
ミュージシャンが多かったようだ。
機材も日本側が用意したらしい。アンプはエルクのように見える。




ライヴでJosephineを演奏するのは珍しい。
Sukiyakiは日本向けのサービスだろう。
関係者が録音したテープは残っていないのかな?


後援がラジオ関東(現アール・エフ・ラジオ日本)なので、当時
放送したのであれば倉庫にテープが眠ってるかもしれない縞梟さん
からご指摘をいただきました)が、移転時に処分してる可能性大だ。





(第3部)
ハンク・ロックリン、スキーター・デイヴィス、ザ・ブラウンズ、
最後にチェットが2曲演奏。この部も30分でトータル1時間半か。


※以上「東京グランド・オール・オープリーの時代」を参考にさてい
ただき、写真も転用させてもらいました。
ご快諾いただき感謝です。

↓当時の貴重なお話と写真が載っています。

http://jtkanehira.com/konma.html




<チェット・アトキンス来日時のエピソード>

※以下「瀬谷福太郎のカントリー四方山話 CHET ATKINSとの思いで」
を参考にまとめました。写真も転用させていただいてます。

(瀬谷さんは残念ながら5年ほど前に亡くなられたとのことです。
謹んでお悔やみを申し上げます。
転用はサイトの管理者の方が快諾してくださいました。感謝です)


瀬谷さんは日本のカントリー・ギターの第一人者で、ジミー時田、原
田実など多くのシンガーと音楽活動をされていたそうです。


↓当時の貴重なお話と写真が載っています。
「故・成毛滋氏との思いで」も読み応えがあり感慨深い内容でした。
http://www1.tcn-catv.ne.jp/musicrow/A31_1.htm



瀬谷福太郎さんは1965年ポップ&カントリー・フェスティバルのツアー
に同行し、チェットと一緒に演奏をされたとのこと。
以下、その時のエピソードを抜粋して転載します。



↑スキーター・デイヴィスと。ミスター・ギターは三味線も弾ける?



・チェットはツアー中、衣装、ギターなどの荷物は人に任せなかった。
瀬谷さんが申し出ても「本国ではいつも自分でやっている事なので」
と自身で運んでいた。
特にギターは人任せにせず、肌身離さずという感じだった

・チェットは絶えずギターを弾いていた。
暇さえあればギターを弾いていた。瀬谷さんは感心したという。

いつものフレーズを違ったポジションで弾いたりちょっとフレーズ
を変えて弾いたりいくつかのフレーズを絶えず練習して弾いていた。

・「演奏中にミスをすることは?」と質問すると「もちろん神様じゃな
いからミスはするけど、ミスをミスにしないのがテクニックだ。
自分が絶えずいろいろなポジションでフレーズを弾いているのは、どこ
からでも次の音に繋げられるように指に慣れさせるための練習をしてい
る」と言っていたそうだ。
そして「自分が絶えずギターを体から離さないのは、私がギターを好き
だからだよ」とのことだった。

・「カントリーミュージックはアドリブはだめ曲に合ったフェイク(8)
にしなければならない」と教えられたそうだ。



↑チェットの左隣が
瀬谷さん。右後の女性はブラウンズのメンバー。


・ツアー中、瀬谷さんはチェット直伝で「Yakety Axe」を教わったそう
で、この曲は彼にとってチェットとの思い出を偲ぶ、心の中に秘めた宝
物だという。

・当時は今みたいに良い音響設備がなかった。(注:PAがまだなくステ
ージ上のギターアンプの音を直接客席に聴かせていた)

チェットのために用意されたギターアンプは国産で畳一畳もあるような
大型アンプ(写真から推察するにエルクではないか?ヤマハもばかデカい
アンプを作っていたが)でみなびっくりしたらしい。
チェットはステージ前には必ず時間をかけて入念に調整し使っていたが、
これは大変なことだった。
よくあのアンプでツアーを無事終了できたものだ、と瀬谷さんは語る。



↑チェットの隣はハンク・ロックリン。右側はブラウンズ。
後で白いエレキを弾いてる人が瀬谷さん。
右のアメリカから来たギタリストはフェンダーのアコギを弾いている。
ベースとスティールギターは日本のミュージシャンのようだ。


・ツアーの合間にTV出演があったらしい。
瀬谷さんはチェットのレコードから完コピした曲を選び演奏した。
演奏の後チェットに批評をしてもらうと、その曲はたまたまチェットが
間違えた部分があって気になっていたけどレコード化されたもの。
「私が間違えたフレーズまでコピーしましたね」と言われたそうだ。
アメリカでは多少の音の違いよりも全体の雰囲気の良い方を選ぶ、と
チェットは言っていたそうだ。


ツアーに関わっていた人の体験談は貴重だ。読んでて引き込まれる。
こうした「事実の記録」って少ないけど、すごく大事だと思う。




<チェットが日本限定で発売したレコード>

チェットは1973年に日本の伝統歌や童謡をカヴァーしたアルバム「日本
の詩」を日本限定で発売している。(1995年にBMGビクターよりCD化)



↑この頃、日本のオーディオは4チャンネルを売りにしてた。すぐ消えたが。
「日本の詩」のタイトルは金文字と黒文字の2種類あった。



日本の詩/チェット・アトキンス(Discover Japan)

SIDE 1
1 浜辺の歌 2 ゆりかごの唄 3 里の秋 4 夏は来ぬ
5 みかんの花咲く丘 6 城ヶ島の雨 7 荒城の月

SIDE 2
1 赤とんぼ 2 椰子の実 3 花 4 波浮の 5 故郷 6 夕焼け小焼け


ギターの神様とは思えないくらいテクニックは控えめで、リヴァーブ深め
丁寧にメロディを紡ぐような演奏をしている。
バックの演奏といい、カントリーというより木村好夫とかムード歌謡ギタ
ーに近い?と思ってしまうが。。。

そこはチェット・アトキンス。
ギャロッピング奏法もハーモニクス奏法もミュート奏法も要所で聴ける。
何より日本の歌の叙情感をよく研究し、独自の解釈をしていてる。
グレッチ、クラシックギター、デル・ベッキオのリゾネーターギター、と
使い分け、実にきめ細かい行き届いた演奏を聴かせてくれる。


↓「日本の詩/チェット・アトキンス」が聴けます。
https://youtu.be/0yXx1QfnAXw







裏ジャケットの夕暮れとカラスがいかにも「日本人が忘れかけた心のメロ
ディを再確認しましょう」と訴えかけているようだ。
カヴァーアートとタイトルは日本側で考えたのではないかと思う。(9)

チェットの長い経歴でも異色のこのアルバムは日本限定ということもあり、
海外でもコレクターズ・アイテムになっているそうだ。


アルバムの制作については、日本のビクターが予めオケを用意していて、
チェットが来日した際にギターを録音した、という話をどこかで読んだ。
千駄ヶ谷のビクター・スタジオに行く機会があると、ああ、ここでチェッ
トがレコーディングして行ったんだなあ、と感慨に浸ったものである。

他のチェット・ファンもこの説を聞いたことがあるらしく、僕の勘違いで
はなさそうだ。
しかし1965年の来日時に録音したアルバムをなぜ1973年までリリースし
なかったのか、不可解であった。




改めて1995年にCD化された際の解説(1973年発売時のもの)を読んだ。
それによると、チェットは1965年に日本にツアーで訪れた時、街の中に
日本の古い歌が全く聴こえてこないことを非常に残念に思ったらしい。

アメリカに戻ってから、チェットは日本の楽曲を勉強したそうだ。
(日本のビクターにも音源を集めてもらうなど協力要請したのだろう)
そして独自の解釈で作られたアルバムが「日本の詩」である。

編曲もチェットが自ら行ったそうだ。
オーケストレーションはプロに譜面を書き起こしてもらったのだろう。
ギターのタイミング、音色、フレーズも絶妙でチェットならではである。
デル・ベッキオの多用など、1970年代のチェットの音作りだと思う。

1965年の来日から8年もかけたのは、納得できるまで曲を研究し自分流
の表現ができるまで発表しないチェットのプロ意識だろうか。(10)



↑スキーター・デイヴィスのレコーディング。J-50を弾いてる人は一緒に
来日したギタリストかも?(写真:Gettyimages)
訂正)若い頃のボビー・ベアのようです。ギターはB-25-12です。
Hさん、教えていただきありがとうございました。


チェット来日は1965年の1度だけで以降、日本に来ることはなかった。
いつかナッシュビルに行ってチェット・アトキンスのコンサートを見る、
という僕の夢も叶わなかった。


<脚注>

(1) 1964年東京オリンピック開催と東京の街の変貌。

オリンピック開催に間に合うよう、10月1日に東海道新幹線(東京~
大阪間)が開通。東京~大阪が6時間半だったのが4時間に短縮された。
都心部と羽田空港のアクセス向上のため、首都高速道路1号線の建設
は突貫工事で進められ、オリンピック開会式9日前に開通した。
国立競技場のある神宮外苑と開会式を行う駒沢公園を結ぶ国道246号
、環七の整備も急ピッチで行われた。
区画整理、下水道整備、ごみ収集、東京美化運動が行われ、外国から
選手や観光客が訪れても恥ずかしくない街へと変わって行った。


↑オリンピック前の青山一丁目付近。整備される青山通。


(2)勝ち抜きエレキ合戦
1965年6月23日〜1966年9月28日にフジテレビ系列局ので放送されて
いたオーディション形式の音楽番組。
審査員は]寺内タケシ、湯川れい子、福田一郎、ゲスト審査員。
エレキギターブームの影響で出演希望者は非常に多かった。
1966年3月と7月にはベンチャーズがゲスト出演。
7月は大磯ロングビーチから放送し、新曲「二人の銀座」を演奏した。


(3)「エレキの若大将」
加山雄三主演の東宝映画、若大将シリーズの第6弾。
エレキギターブームの最中に製作された。寺内タケシも出演。
「勝ち抜きエレキ合戦」に出場し優勝するという設定である。
「君といつまでも」「夜空の星」が劇中で歌われた。



(4)カントリーという日本ではマニアックなジャンル
当時、日本ではウエスタン、カントリー&ウエスタンと呼ばれていた。
アメリカ国内でもカントリー専門ラジオ局を聴いている人はブルーカラ
ーの中高年男性が多く、日本の演歌の感覚に近い。
ナッシュビルのローカル・ミュージックという認識もある。


(5)日本のカントリー・ミュージック愛好家のムーヴメント
戦後1950年代初頭から進駐軍のラジオ放送やレコードを通じて、マウ
ンテン・ミュージックが愛好され始めた。
1958年にはブルーグラスを演奏するバンドが結成され、コンサート
開催。愛好者のコミュニティができて行く。
ヒルビリー、ブルーグラス、カントリー・ミュージックは日本独特の
「ウエスタン」「カントリー&ウエスタン」という総称で呼ばれた。
戦後すぐは洋楽はすべて「ジャズ」と呼ばれていたが、1950年代初め
になると「カントリー&ウエスタン」と区別され愛好者を増やす。


カントリーのバンドの活動の場は進駐軍キャンプ、ジャズ喫茶だった。
1954年に有楽町のヴィデオホールでウエスタン・カーニバルが始まり、
より多くの観客を集めることになった。
エルヴィスの登場により、日本でも1950年代後半ロカビリーが流行。
同時にカントリーへの関心も高まり、愛好団体でも会員数が増加。
1957年に文化放送でラジオ番組「サンデー・ウエスタン」が放送開始。
ファン組織「サンデー・ウエスタン友の会」が結成され、カントリー
・バンドのコンサート「東京グランド・オール・オープリー」が有楽
町ヴィデオホールで定期的に開催さるようになる。


(6)東京グランド・オール・オープリー
グランド・オール・オープリー(Grand Ole Opry)とはカントリー・
ミュージックの公開ライブ放送番組のこと。
ナッシュビルのラジオ局から始まり、全米にTV放送された。
これによりナッシュビルは「カントリー・ミュージックの首都」と
なり、グランド・オール・オープリーはカントリーの総本山となる。
(ライマン劇場からの公開ライヴだったが、1974年に4,400席のグラ
ンド・オール・オープリー・ハウスが建設され、そちらに移動した)



「東京グランド・オール・オープリー」は日本でも本格的なカント
リー・ミュージックを広めたい、という思いから命名したのだろう。
メンバーには音楽評論家の和田誠二、星野保、ビッグ・ビル(金萬喜
昭)、ジミー時田、いかりや長介などがいた(敬称略)


(7)開催地と会場は、東京圏と大阪圏に集中。
関東と関西を行ったり来たり、けっこうハードスケジュールだ。
東京・厚生年金大ホールで3回、大阪フェスティバル・ホール。
京都はカントリーが盛んだったから大阪と別にやる意義がある。
(京都会館は前川國男氏デザインの建築で趣があった)
横浜文化体育館と横須賀ジムは米軍キャンプがターゲットか?
大阪・布施市体育館→現在の東大阪市。ここでやる意味は?
宇都宮・栃木会→これも何で?という感じがするが。


(8)フェイク
音楽用語のフェイクとは、原曲のメロディーやリズム、音程を変えたり
装飾したりして演奏する(歌う)テクニックのこと。


(9)日本側で考えたタイトル。
DISCOVER JAPANという英文タイトルは、1970年に始まった国鉄の個人
旅行拡大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」に便乗したのだろう。
電通が仕掛けたこのキャンペーンの副題は「美しい日本と私」だった。




(10)1965年の来日から「日本の詩」発売まで8年もかけた。
それだけチェットが日本の歌を理解するのに時間を要したとも言える。
その点、日本人以上に日本人の心が分かると言われたベンチャーズ(特
にジェリー・マギー)はすぐ歌謡界に馴染み、次々とヒットを飛ばした。
この違いは何なんだろう?
ノーキー・エドワーズはバック・オウエンスのバックを務め、チェットに
傾倒していたバリバリのカントリー出身のギタリストである。
ジェリー・マギーはスタジオ・ミュージシャン出身だから応用力があった
のも事実だが。

思うに日本を五感で知る機会が多いか少ないかの差ではないか。
ベンチャーズは1965年2度目の来日で、全国津々浦々回って日本の景色
を見て日本人と触れ合い、以降もその全国巡業を続けた。


生前ドン・ウィルソンが「俺たちは日本人以上に日本全国を知ってるよ」
と言ってたのを思い出す。
(今日、外国人観光客の方が日本各地の穴場をよく知ってるのと同じか)
チェットはほとんどナッシュビルで活動していて、たまにノルウェーや
フランスに招かれてコンサートをやるくらいだった。


<参考資料:東京グランド・オール・オープリーの時代、Wikipedia、
1960年代の日本におけるブルーグラス音楽愛好者の交流の進展、HMV、
瀬谷福太郎の音楽四方山話、タワーレコード、YouTube、BMGビクター、
国立情報研究所「東京オリンピックと日本人のアイデンティティー」、
くるくら(1964年のオリンピックを前に、東京の道路整備は・・・)、
首都高の歴史、日本財団ジャーナル、「音楽」を楽しむ。 イシバシ楽器、
毎日新聞 オリパラこぼれ話「首都美化はオリンピックの一種目」、他>

10 件のコメント:

縞梟 さんのコメント...

こんにちは。
又ビクターネタで混乱させたら申し訳ないのですが、
このコンサートのプロモートは告知ちらしを見ると読売、報知、日本ビクター三社協賛
招聘元はビクター芸能株式会社(今のビクターミュージックアーツ株式会社)みたいですね。
(後援がラジオ関東(現アール・エフ・ラジオ日本)なので倉庫を探せばもしかしたら音源があるかも?)

「日本の詩」はRCA時代の録音なのでレコードの販売はビクター音楽産業ですが
1975年に米RCAと日本ビクターとビクター音産の合弁会社としてRVC株式会社を
設立します(これが以前イエローさんがおっしゃっていたRVC(RCAビクター)です)
繰り返しになりますが、日本ビクターはソフト版権をあれやこれやするわけではなく
出資者として金と物を言う存在です。

その後1987年にBMGにRCAが買収されたため、BMG、日本ビクター、ビクター音産の合弁会社として
BMGビクターが誕生します。
なのでCDはBMGビクターから発売されていますが、裏ジャケット画像の右下にSony Records Japanの
プリントが入っているのは、BMGは1997年ファンハウスと一緒になってBMGファンハウスになりますが
2004年にソニーと合併してBMG JAPANとなった後、2009年にソニー・ミュージックエンタテインメントに
吸収合併され解散しており、RCAの音源は現在ソニーが所有しているので現在の本で
再発されるのであればソニーさんになります。

縞梟 さんのコメント...

[修正]
>現在の本で再発されるのであれば

現在の日本で再発されるのであれば

イエロードッグ さんのコメント...

>縞梟さん

洋楽のラジ関と言われましたからね。
もしかしたら当時は放送したかも?です。
仰るように倉庫に眠ってる可能性はあります。

アール・エフ・ラジオ日本になって巨人戦ナイターが売りになりました。
今は独占権がなくなり競馬中心の編成です。
東京タワーの下から飯倉に移転した際、昔のテープは廃棄してそう。

ビクターの系譜は理解できないのでトラックするのを諦めました(笑

イエロードッグ さんのコメント...

>縞梟さん

招聘元がビクター芸能(株)のようだということ。
後援がラジオ関東なので倉庫に音源があるかもしれないということ。
いただいた情報は追記させていただきました。感謝です。

ビクター芸能(株)が呼び屋さんもやってたんですか?
どこか外タレに強いところに依頼してた可能性もありますよね。

縞梟 さんのコメント...

こんにちは。

外タレの来日に門戸が十分開かれていなかった1965年はまだ赤ん坊だったので
推測になりますが、例えばビートルズは協同企画(現:キョードー東京)が招聘元ですけど、
当時協同企画が今ほど大手だったわけではなく、その会社名だけで海千山千の
外国のタレント事務所と互角に交渉ができ、来日させることで一儲けしようなどと
すべての環境が整った実力のある呼び屋さんは日本にはまだなかったと思われます。

UDOさんが設立されたのは1967年で、当時はとにかく外タレコンサートを無時成功させることが
主目的でレコード会社、招聘元、マスコミ関係が三位一体で取りくんだことで
70年代怒涛の来日ラッシュが実現し、色々問題もありましたが
キョードーの「Rock Carnival」とかUDOの「ロック・エクスプロージョン」などが
シリーズとして定着しましたよね。

ビクター芸能というのはあまり聞いたことがないと思いますが、
ビクター系のアーティスト・俳優・タレントなどのマネジメント業務の他
コンサート業務も行っております。
1965年の来日チラシに(提供)ビクター芸能と印字されているので、
この頃チェットさんが在籍していたRCAとつながりのあった日本ビクターを介して
ビクター芸能が携わったのではないかと思います。
勿論ビクター芸能が更に下請けにやらせていたことも考えられますが
先に述べたように当時、外タレと交渉がスムーズに行えるほど人脈と実力を持った呼び屋さんは
なかったのではないかという推測ですが間違っていたらごめんなさい。

*****

フリーというバンドのBBC物のCDに恐ろしく音の悪い音源が収録されているので
調べてみたらBBCがマスターを消去してしまったので
ファンのリスナーが家で番組放送を声を潜めながらオープンリールに録音したものを
ソースにしたとのこと。
BBCにかかわらず放送局は当時とにかく放送で流したテープ(特にポップス&ロック系)は
倉庫の物理的な問題で片っ端から消去したらしいです(苦笑)

ジャズは未だに恐ろしいほど質の高い発掘音源が登場することがあるのですが
ジャズはよく完パケ前の録音テープをミュージシャンや関係者が家に持って帰っていたらしく
(盗みもあり)死後、家の整理をしていたら出てきたなんてケースがしばしありますので
ラジ関の関係者が何らかの理由で放送テープを自宅に持ちかえっていればもしかしたら
出てくるかもです(笑)

イエロードッグ さんのコメント...

>縞梟 さん

ご指摘いただいた招聘元と音源の件、追記を加えました。

確か青山音楽事務所という名前だったと記憶していますが、そこはベッツィ&クリス
を日本に招聘し、ツアーを行いレコーディングもさせてたようです。

協同企画は永島達司さんのお人柄と実行力、交渉力、アーティストへのホスピタリティ
が海外で評判になり、ブライアン・エプスタインも指名してきたそうです。
日本の音楽業界での評判もいいです。

レインボーの札幌での事故依頼、キョードー東京はロック系から手を引いてフュージョン、
AOR、ライ・クーダーなど荒れる恐れのない(笑)コンサートを招聘を手がけてました。
上司がキョードー東京と親しかったおかげで、タダ券で行かせてもらいました。

ロック系はウドーの独壇場になりました。
クラプトンもベックもリッチーもウドーさんに絶大なる信頼を置いていたそうです。
1990年ポール初来日はポールの「タツジがいたキョードーに頼みたい」という希望で、
キョードー東京がやることになりました。

余談になりますが、日本のレコード会社のA&R(洋楽宣伝担当)って来日アーティスト
に同行しますよね。ずーっとくっついてます。
でも実際にアテンドをするのは呼び屋さんです。
強いて言えば、会場受付近でCDを売ったり、評論家や業界の人とお話したしたり。
ラジオやTVに出演する時もスタジオの外で待ってます。それはそれで大変そう。
呼び屋さんが中小であまり顔がきかない時は代わりにリハのスタジオを手配したり
(何度か頼まれてスタジオを貸し立ち合いしました→職権乱用)、動いてましたよ。

BBCもビートルズの録音は保存してたみたいですが、1曲だけリスナーが録音してた
テープが公式盤に種録されてます。
ブートで全曲制覇したはずなのに(笑)知らない曲があったので驚きました。

ラジオ以上にTVはテープが残ってないですね。
当時は2次利用という発想がなかったので仕方ないですが。
特にカラーの2インチは高価だったので、消して再利用が常識でした。
民放には1973年以前のマスターはほとんど残ってません。

下請け制作会社がバックアップにコピーしたUマチックが、倉庫から出て来た、という
例もありますが。
ビートルズ来日も放送された同録(テロップ、CMも入ってる)は日テレにも残って
いませんが、大村崑さんが業務用レコーダーで自宅で録画していました。
モノクロで画質は悪いですが、大村崑と呼ばれ貴重な資料になってるそうですよ。
夜ヒットも前田武彦が自宅で録画してましたが、降板事件で頭に来てすべて処分して
しまったそうです。(フジには1974年以降しか残ってません)

縞梟 さんのコメント...

こんにちは。

>当時は2次利用という発想がなかった
これは文化的には大きな損失ですよね。
今はデジタルでコンパクトになり、特別な技術も要しないので一家庭の子供の成長を記録して
結婚式で上映できるようにまで技術が向上した今、本当トホホな気分です(苦笑)

*****

ポールと永島さんのような友好な関係もあれば、ストーンズの初来日を実現させた
UDOさんは年々天井知らずで高騰化するストーンズのチケット問題に抗しきれず、
ストーンズの呼び屋を降りたことも記憶に新しいですよね。
(今年春のボブ・ディランの呼び屋さんは安定のUDOさんですね)

一般的かどうかは分かりませんが、日本のアーチストの場合、レコード店関係者を
プロモート目的でコンサートに招待して楽屋でアーチストと面会紹介する作業があるため
事後、お礼を兼ねて営業所に挨拶回りに訪れることがあるのですが、
うちの洋楽は弱小だったので、他社と状況が違うかもしれませんが
外タレは社長室とかA&Rの部署に挨拶に行ってるかもしれませんが、
営業部門に来た記憶はストラトヴァリウスなど数えるほどしかありません。

チケットにしてもBMGと一緒の営業所の頃、8人YESが来日するのでチケット頼んだら、
ぴあで頼んだかのような後方席で金もしっかりとられました。
一方MCAと一緒の営業所の頃スティングが来た時はロハで入れてもらったので
招聘元とレコード会社のパワーバランスで招待枠が変わるのかもしれません。

打ち上げなんかはグルーピーとかお前誰?みたいな有象無象が入り乱れますけど
別室で外タレと写真とったりサインもらったりするのは協賛会社or事務所の偉いさん関係
コンサートをロハで入れてくれるのは招聘元関係。
(イエローさんが招聘元と仲良くしていたことは大正解です)
レコ―ド会社&マスコミはそれらのおこぼれでパーティーの飲み食いに勤しむ感じで
私が考えるパワーバランスは協賛会社>事務所>招聘元>レコード会社&マスコミです。
(ただし70年代洋楽に大きな影響力のあった「ミュージックライフ」関係者は別枠で上位)

レコード会社と外タレはレーベルの関係で今年はA社でも来年はB社かもしれない
心許ない関係なのでお互い「いつもお世話になってます」程度の儀礼的な関係に
ならざるをえないのでしょう。

もちろんレコード会社とミュージシャンが太いパイプでつながっている場合もあり
ジャーニーとCBS/SONYのA&Rがタッグを組んで日本で大ブレイクした例もありますが

https://reminder.top/236656710/

効率的な大量のメディアプロモーションが当たり前になると最近のレコード会社には
ミュージシャンを人海戦術で「育成」させる時間もお金も余裕がないのが現実で
演歌はレコード店の年長の店長の演歌人脈(歌謡教室の先生と生徒など)を頼って
歌手と一緒にレコード店のドサ回りとか未だに昔の営業をやってるかもしれませんが、
(例えば店長の伝手で居酒屋のマスターが開く知人30人ぐらいのカラオケ大会に連れて行くと
聴くかどうかも分からないCDシングルをおひねりのつもりでほぼ全員が買ってくれるのです)
店長も世代代わりで演歌に疎い若手になり、そもそもその肝心の町のレコード屋さんが
ほぼほぼ無くなっているわけで、クリック1つでCDが届くネット時代、
マイナーな音楽はどんどん負のインスパイラルに巻き込まれて消滅の一途を辿ります。

イエロードッグ さんのコメント...

>縞梟さん

チケット代、高騰してますね。
ポールの武道館、S席が取れなくてA席だけど行きません?とお誘いをいただきましたが、
A席で8万円・・・うーん、かぶりつきでこの値段ならともかく。
行けない理由もあったので丁重にお断りしましたが。

近年アメリカでは転売防止のため購入時座席指定で座席によって値段が違うそうです。
誰のか忘れたけど一番いい席は日本円で21万円だそうです。ひえーっ!

販売店。売っていただいているわけですが。売ってやってるで圧をかけるの困ります。
店長さんがけっこう俺様の方がいらして。
何で俺のところに挨拶にこない。A社のXXXは頭下げて行ったぞ!と。
スポンサードしているメーカーの売り出し中アイドルならその辺の融通も店長さんが
納得する笑顔もなんとかなりますが、番組の企画で来てもらったとか、立場が違う場合
はそれは無理。。。と言っても分かってもらえない。
営業さんも分かっちゃいるけど販売店様様だからへこへこしなきゃいけないし。
めんどくせーーーーっ。日本の悪しき商慣習。

しかし朝まで酒を酌み交わすとか、懐に入ってしまうとあとは楽。売ってくださる。
演歌の興行を教科書とした日本の歌謡界では、地元を仕切ってる親分さんに頭を下げて、
街のレコード店の前で(時にはみかん箱の上で)歌って、遠巻きの見物客に「よろしく
おねがいしまーす」のまさにドブ板営業ですからね。
どの業種もそうですが、販売店の一推しのコーナーをいかに獲るかで決まる、セールス
コンテストもあるから自費でプラスしてPOPを作ったとか、涙ぐましい努力をお聞きし
たこともあります。

一般の人が想像している以上に泥い業界なんですよねー。
以前、某総研からレコード会社に転職した女性A&Rに「僕ら、身分が低いんですよー、
士農工商XXXですから」と言ったら、「まだいいですよ、士農工商犬猫レコード会社
ですよ」とのこと。二人で大笑いしました。

別な方によると、局や出版社に「よろしくお願いします」とサンプル盤を置いて一周
するとゴミ箱に捨ててあったりするそうで。それは同情します。

ただし「よろしくお願い」以外あってもいいんじゃないか、と常々思ってました。
僕のところにプロモートに来るレコード会社の人は一方的に新譜のお知らせをして
サンプル盤を置いて帰って行きます。
どんな得意先があるのか、タイアップの可能性はないか、訊いてくる人はゼロでした。
このアーティストならこういうタイアップできますよ、こんな仕掛けしてみませんか、
という提案もまったくなかったです。どのレコード会社も。残念でした。

来日公演など(大物アーティストだけかもしれませんが)に関しては呼び屋さん仕切り
で、レコード会社はそれに乗っかるという印象を受けました。
情報も遅いし少ない。
ネゴシエーションが苦手。
外資だと植民地か?と思うくらい言いたいことも言えないみたいです。(失礼)

クラプトンもウドーを通さずワーナーのパイプで交渉した広告代理店と車屋さんの
話は潰れたそうです。
で、当のワーナーの方が「クラプトンはウドー飛ばしたらうまく行くものも行かない
」と平然と言ってるので驚きました。
車屋さんも次からちゃんとウドー経由でうまく行くようになったようです。
そのせいでクラプトン、いい席が取れなくなった。ぶつぶつ。。。(笑)

デスクの女性が「スポンサーが抑えてるからうちにはいい席が来ない。これでもイエ
ロードッグさんに一番いい席を用意してるんですよ」とため息をついてました。

あれ?大きく脱線しましたね
まあ、音楽の話は脱線に次ぐ脱線で何の話だっかた分からなくなるのが常。ご容赦を。

えー、最後のお話。
CDでさえ年々入手しにくくなってますよ。去年はまだあったのに。。。と。
新譜はビートルズやピンクフロイドなど高価な箱物でも高齢者コレクターがありがた
く買ってくれそうなリマスター、リミックス商法。
あとはジャニ系くらいじゃないですか?

半世紀前の音楽をCDで聴きたいと思うマイノリティーは無視されるようです。
大勢がサブスクなのは分かりますけどね。それ外は許されないのか。。。

縞梟 さんのコメント...

主人公のチェットさんを放置プレイにして話を脱線して申し訳ありません(苦笑)

事務所とメディアがタッグを組んでミリオンヒットを連発したCDバブルが終わり、
中古屋に屑値で大量に売られていても売れる気配のないミリオンヒット作の山を見ると
音楽は聴き捨てるものという台所スポンジのような消耗品扱いになり、
事務所とレコード店の仲介するだけの存在になったレコードメーカーの役割は
終わったと感じました。

特にうちはメーカーでありながら、プロパーなカタログが貧弱だったので
いろんなところから委託販売を請け負い、メーカーではなく卸業者化してましたから、
月に200も300もの内容を吟味していないカタログを売り続けると音楽やミュージシャンに
いちいち思い入れなんか入れる余裕などなく、売れようが売れまいがヒットしようがしまいが
どうでも良かったです。
(イエローさんのところにプロモートで行ってた人も多分同じような心境だったのでは
ないかなと(苦笑)

個人的な苦労話ですが小さいレコード店に行くと夜逃げに合うわけです。
債権保全が営業の重みになってきて、物を売ることよりも集金日の金の回収が
主な仕事内容になってきてなんかサラ金みたいな嫌な仕事でしたよ(苦笑)

>士農工商犬猫レコード会社
まぁうちだけではないでしょうけど、正直、最初にレコード会社に思い描いていた
ドリームはなかったですね。
それと意外と音楽がさほど好きな人が多くないことに驚きました。
仕事をするには好きすぎない程度が良かったことは後で分かりましたが
昭和の演歌&歌謡曲時代の栄華が忘れられない上司クラスは最新ロックやポップスは
からっきしみたいなのが多くて、とにかくレコード店のメインコーナーを抑えて
在庫を大量陳列すれば売れるというバナナのたたき売りみたいな妄想で
現実をみない爺が大勢いたのですからつぶれるのは時間の問題だろうなと思いながら
音楽の良し悪しではなく、ジャニーズ&エイベックス商法やAKB握手券特典のような
アコギな販売方法でセールス結果だけで評価される商業音楽に絶望し
最後は体を壊して音楽を聴けない時期が1~2年程度あったのですが
今はセールスのことを考えずに好きな音楽だけ聴いてブログにまとめるまでに
回復しました。

良かったことといえばプレステッジやリバーサイドのジャズ系のサンプル盤が
山ほどあるので死ぬまでに紹介しきれれば良いなと思っています(笑)

イエロードッグ さんのコメント...

縞梟さん

できれば好きな音楽に関わりたい。。。
と甘い考えで就職はレコード会社希望だったんですよ。
コネがないとダメらしく。
それでハードのメーカーに入りました。
もしかしたら関連のレコード会社に出向できないかなーとまた甘い考えで。
バンドやってましたオーラ出してる同期に聞いたらみんなそれ狙いでした(笑)
退職する時、レコード会社の方からお話があったんですがお断りしました。

音楽は趣味に留めておいた方がいい、と考え方が変化していました。
仕事でレコード会社の方と関わることもあって、縞梟さんが仰ってるような
現実も垣間見て来ましたからね。

その頃は洋楽のトレンドも変わり好きな音楽も少なくなっていました。
時代に付いていけなくなった、とも言えます。
好きじゃない音楽に愛情を持てないなあ、と思ったんです。
僕が知ってる限り、ほとんどのレコード会社の方が自社レーベルのアーティスト
に愛情を持って売り込もう、としてましたよ。
そのひたむきさは偉い!と感心しました。

ただしあまり音楽を聴いてこなかったのかな、という人もけっこういますね。
よくも悪くもノンポリみたいな。
ノンポリでこだわりがないから何でも売れる、という面もありますよね。
自分は嫌いなものは嫌いだから、それが態度に出ちゃいそうです(笑)
違う道を選んで正解でした。