2021年5月31日月曜日

井上陽水の「氷の世界」は終わりの始まり<後篇>

 <「氷の世界」の制作過程3 - 白い一日、Fun>

「心もよう/帰れない二人」に続き「白い一日」「桜三月散歩道」「自己嫌悪」
「Fun」などが録音された。

白い一日」は小椋佳が作詞陽水が作曲した作品。
当時、小椋佳は銀行員であることを隠して活動しておりテレビにも出ない謎の存在。
実はそれもヒット戦略の一環だったという。陽水もテレビ出演を拒んでいた。
小椋佳は文学的な香りがする歌詞を書いていた。世界観も陽水に通じる部分がある。

 まっ白な陶磁器を ながめては飽きもせず
 かと言って ふれもせず そんなふうに君のまわりで
 僕の一日が過ぎていく


あえて陶磁器という総称を使い、聴き手の想像に委ねたのだろうか。
器なのか?便器だと思った人もいたらしい(笑)
掃除機と聴き違えた人もいる。白い掃除機を眺めて何がおもしろいんだ?



↑クリックすると井上陽水の「白い一日」が聴けます。


Fun」は素直できれいな曲だ。ちょっと感傷的で。陽水も気負っていない。
こういうさりげない曲って、かえって才能が要ると思う。

 気まぐれ いたずら待ちぼうけ 赤いパラソルがゆれてる 
 君は雨を見ているの?  雨を見てるふりだけなの?

 明日が天気になると 今日のことが
 想い出のひとつになり 君は笑うかな?

 泣き虫 弱虫 ひとりきり 心の鍵をなくしたの?
 君が悪いのさ 今日は ひとりで恋なんかして






「はじまり」は「夢の中に」のような軽快なポップ・ロック。
一曲目の「あかずの踏切り」からつながる。

アルバムには忌野清志郎との共作がもう1曲収録されている。
待ちぼうけ」という曲だが、陽水は作曲時のことを全く覚えてないという。

「僕がカレーライスを作って清志郎に振る舞ったことは覚えているんですよ。
ファミレスもスターバックスもない時代ですから、2人で寂しく食べてね」



↑写真は陽水が1970年代前半に住んでいたという幡ヶ谷のマンション。
遠藤賢司もここに住んでいたらしい。だからカレーライスは出来すぎ?(笑)
幡ヶ谷は中野南台に近い。陽水が言う中野のアパートというのはここだろう。




<「氷の世界」の制作過程4 - ロンドン録音>

プロデューサーの多賀英典氏は残り数曲をロンドンで録音することにした。

当時ポリドールは沢田研など所属歌手に時々、ロンドン録音をさせている。
これはレコードが売れたご褒美、モチベーションアップのため、という意味合いと、
ロンドンでの録音を体験させることで歌手やミュージシャン、アレンジャーに刺激
を与えスキルアップを図る、という狙いがあったようだ。


レコーディングは独立系のトライデント・スタジオで行われた。
ビートルズがホワイト・アルバムのセッション中に使用、エルトン・ジョン、クイ
ーンやデヴィッド・ボウイも使用したことで知られている。(1)





タイトル曲「氷の世界」のアレンジはスティーヴィー・ワンダーのSuperstition
(邦題:迷信)のようなイメージで、と星勝は考えていた。
ファンキーなサウンドが欲しいのでホーナー社のクラビネットを手配したしたが、
調達できたのはクラヴィコード。何とかイメージに近いサウンドを作った。

ストーンズの「悲しみのアンジー」のストリングスを手がけたニック・ハリスンが
アレンジしたホーン・セクションをオーバーダブ。すごいサウンドになった。
コーラス隊は黒人女性3人を手配したが、来たのは白人女性2人と男性1人。
が、歌ってもらうと日本人ではできないような迫力のあるコーラスが録れた。



↑写真をクリックすると井上陽水の「氷の世界」が聴けます。


プロデューサーの多賀英典氏がニック・ハリソンをアレンジャーにブッキングし
たので、星勝はなかば観光気分で同行した。
ニック・ハリソンは弦楽器・管楽器のアレンジャーでリズムは得意ではないと判り
、「星君、出番だよ」と言われ急遽、譜面を書くことになる


冒頭の「窓の外ではリンゴ売り」という歌詞は分かりにくいから変えた方がいい、
と多賀氏が助言するが、陽水は反抗し変えなかった。
「氷の世界」は過激さを表現したいパンク精神に近かったかもしれない。


アルバム一曲目となった「あかずの踏切り」は「陽水ライヴ もどり道」に収録
された陽水の弾き語りとはまったく違う曲に生まれ変わった。
陽水自身が詩は悪くないのに曲として不満で、星勝に再作曲を依頼したという。



↑クリックすると井上陽水の「あかずの踏切り」が聴けます。


陽水が作曲した「あかずの踏切り」は曲調が暗すぎてどんよりしてしまう。
星勝によってまったく違う曲に生まれ変わった「あかずの踏切り」は、ファンク・
ロック・ナンバーに仕上がった。


アルバムの最後を飾る静かな曲「おやすみ」もロンドンで収録された。

 あやとり糸は昔 切れたままなのに 思い続けていれば 心がやすまる
 もうすべて終わったのに みんな、みんな終わったのに




幡ヶ谷のマンションの自室で。
ベッドの上にヤマハFG-150、下にヤイリYD-304が見える。
(クリックすると井上陽水の「おやすみ」が聴けます)


「小春おばさん」はわざわざロンドンで録音する必要があったのか?疑問。
暗く重く日本の土着的な匂いがするこの曲を。これは嫌いだった。

「チエちゃん」、日本で録音してあった「Fun」にニック・ハリスンがアレンジ
した流れるようなストリングスをオーバーダブ。

ロンドンで録音したテープは日本に帰ってからミックスダウンし、すでに録音され
ていた曲とのバランスが合うようにマスタリングされた。



<「氷の世界」では人の裏の部分を表現している>

以下、井上陽水のインタビューより。

「僕はどうして歌が作れるんだろうって考えて、突き詰めていくと自分が非常に
弱い人間だということにぶち当たる」(1974年6月 ラジオ番組「陽水の世界」)



ギルドD-55は1975年から1980年頃まで使用されていた。


「『氷の世界』以前の歌謡曲の大半は『表』の部分を表現するのがメインだった。
裏の部分なんて歌にしてもという風潮。自己嫌悪? 誰がそんな歌聴きたいの、と。
僕は昔から表面的なものはあまり好きじゃなくて。『裏路地』が好きだったんです」

「色々なイデオロギーがあって、価値観がある。その全ての部分に突っ込めるような
『余地』は残しておきたいという気持ちはあった。
茶々をいれたいというか、カラかってみたいというかね。
僕の中では『普遍的な物とか思想は無い』という思いが強いのかもしれない。
相当なノンポリだなって思いますよ。
哲学的なことを口から泡飛ばしながら話すことないんじゃないの?って。
それよりも、何気ない日常生活のなかに潜んでいるものを僕は探していきたい」
(2014年5月 ORICON MUCICインタビュー)

「生きている僕がいろいろなことを感じたり考えたり喜んだり悲しんだりしている
のが曲になっているわけだから、今を生きているっていうことがコンセプト。
というか、『今を生きてます、それでいいでしょう』ってことだった。
(『氷の世界』は)言うと恥ずかしいけど人間の不条理かな」
(NHK 2013年12月 NHK「井上陽水 氷の世界40年」)





<「氷の世界」- 個人的雑感>

発売時、僕は高校生で友人に聴かせてもらった。大学生で死ぬほど聴くことになる。
僕は長髪でロンドンブーツ。バイト先は限られ、吉祥寺のジーンズ店で働く。
店ではディープパープル「ライヴ・イン・ジャパン」、エルトン・ジョン「黄昏の
レンガ路」、「氷の世界」が一日中流れていた。来る日も来る日も。うんざりだ。
この3枚は一生聴きたくないと思った(笑)いずれも名盤なのに。

でも「帰れない二人」「Fun」「おやすみ」の3曲は今でも好きだな。


<補足1:井上陽水のボーカルの音圧>

井上陽水の歌はあの圧倒的な声質と音圧があるからこそ迫ってくるのかもしれない。
昔はその攻めてくる感とか重圧が苦手だった。

むしろ後年、陽水の2度目のミリオンセラーとなったセルフカバー・アルバム「9.5
カラット」以降の熟成された楽曲や歌声の方が好みだった。
気負いも歌謡曲との意識的な壁もなくなり、他歌手への提供曲も秀逸である。

「ワインレッドの心」(1983年 玉置浩二と共作 安全地帯の歌唱でヒット)
「恋の予感」(1984年 玉置浩二と共作 安全地帯の歌唱でヒット)
「背中まで45分」(1983年 沢田研二への提供曲)
「いっそセレナーデ」(1984年)
「飾りじゃないのよ涙は」(1984年 中森明菜への提供曲)
「少年時代」(1990年)
「移動電話」(1994年 ドラマ「夢見る頃を過ぎても」主題歌)




陽水の声量についておもしろエピソードがある。
1976年にフォーライフ・レコードが年末に向け企画もので拓郎、陽水、泉谷、
小室等の4人によるクリスマス・アルバムを出すことになった。
録音の際、陽水の声が大きすぎるため一人だけ壁を向いて歌わされたらしい。
陽水は「こんな寂しいレコーディングは初めて」と言ったとか(吉田拓郎談)

清志郎のリハーサルを見た友人が、他の歌手とは声が別格と言っていたが、陽水
とのデュエットを見て納得。PAで調整可とはいえ陽水と互角に歌っているのだ。
玉置浩二も陽水とのデュエットで改めて声量がある人なんだと感心した。


<補足2:1970年代に井上陽水が使用した楽器>

◆ヤイリ(S-Yairi)YD-304

「断絶」のレコーディングの時に購入。「氷の世界」でも使用している。
アレンジャーをしていたモップスの星勝やその周辺で「やはりヤイリ」という
評判だったので選んだらしい。型番は後から雑誌で知ったという。
大卒初任給が5万円だった頃(1972年)で定価8万円。


1970年代当時、ヤイリ(S-Yairi)は手工製の高品質アコースティックギター・
メーカーとして定評があり、国産ではヤマハと双璧をなしていた。

1970年代はフォークブームに乗り国産メーカーが誕生。その多くがマーティン
のコピーを製作していたが、その中でS-Yairiは頭一つ抜けていた。
憧れのマーティンは雲の上の存在で手が出ないため、現実的に入手可能な国産の
コピーを検討するわけだが、その中でもS-Yairiは最高峰。
御茶ノ水のカワセ楽器店オリジナルブランド、マスター(Master)と共にマーテ
ィンに最も近い国産ギターと言われ、陽水以外にも谷村新司など多くのプロが使用
していた。 (2)

YD-304トップはスプルース単板、バックはハカランダ合板とメイプルの3ピース、
サイドはハカランダ合板、ネックはマホガニー、指板とブリッジはエボニー。
マーティンのD-35のコピー・モデルである。
ワシントン条約批准前でハカランダが輸入できた時代であるが、価格を抑えるため
か合板が使われている。(単板なら倍くらいの価格になっていたのではないか)




陽水はポジションマーク上にアルミ箔のようなモノを貼っていた。
直径1cm程度だが円形ではなくいびつな形で何かを無造作に切り抜いたような。
この時期、陽水がコンサートでギターを弾いてる写真を見ると、椅子に座って背を
まるめて前かがみの姿勢で、ギターを手前に斜めに傾けていることが多い。

陽水は近視だったのではないだろうか。
暗いステージで指板が視認し辛く、このような対応をしていたとも考えられる。
サングラス(度付き?)をかけるようになってから、指板にシールは貼っていない。


◆ヤマハFG-150

ヤマハの名器FG-180(吉田拓郎も使用)と同じ低価格ラインで000サイズ。
表板はスプルース、横&後板はマホガニー合板、指板とブリッジはローズウッド。
FG-180は低価格ながらいい音だが、FG-150はあまり鳴らなかった憶えがある)
自宅で使用していたらしい。ヤイリより前に入手していたのではないか。


◆春日W-20

国産初の12弦ギター。福岡で浪人時代、人に買ってもらったそうだ。
アンドレ・カンドレ時代に使用。


◆ギルド(Guuld)D-55

1968年からギルド最上位モデルとして特注でのみ生産していたが、1974年から
通常ラインとして販売されているドレッドノート・サイズ。
トップはスプルース、サイド&バックはローズウッド、マホガニー・ネック、
指板とブリッジはエボニー。
スケールは25 5/8インチで若干マーティンのドレッドノートより長い。


◆ホーナー製ブルースハープ・マリンバンド

10ホールズのブルースハープ(ハーモニカ)。ベンドがしやすく音抜けが良い。
フォーク、ブルースの定番。(日本製のトンボ・メジャーボーイも人気があった)
ハーモニカ・ホルダーはホーナー製、トンボ製を使用していたらしい。


<脚注>

(1) トライデント・スタジオ

EMIが8トラックを導入しないため、1968年7月末にビートルズはヘイ・ジュード
の録音をトライデント・スタジオの8トラック・レコーダーで行う。
(EMIが重い腰を上げ8トラックを導入したのは1968年9月)
翌1969年にトライデント・スタジオは早くも16トラックを導入。
エルトン・ジョンの「僕の歌は君の歌」は16トラックで録音されている。
1975年クイーンのボヘミアン・ラプソディ録音時は24トラックになっていた。


(2) ヤイリ(S-Yairi)
矢入楽器製造株式会社が製作するギターのブランド。
1938年に矢入貞夫が名古屋で完全手工によるアコースティック・ギターの製作
を始めた。 マーティンを手本としている。
谷村新司、井上陽水など著名なミュージシャンにも愛用された。
1970年代のフォークソング・ブームで売り上げを伸ばすが、そのブームの衰退で
アコースティックギターの市場が冷え込み、1982年に倒産した。
(製品の永久保証を謳っていたが、会社の方なくなってしまった

2000年に息子の矢入寛の監修で復活したS.Yairiは社名の権利のみの別メーカー。 
廉価モデルは中国製、高額モデルは国内のギター製造メーカー製造を委託。

K.Yairiブランドを展開するヤイリギターはS.Yairiとは全く別のもの。
1970年代からAlvarez Yairiの商標でアメリカで販売され、ポール・マッカートニー
、デヴィッド・クロスビー、グラハム・ナッシュ、リッチー・ブラックモア、
カルロス・サンタナ、ドミニク・ミラーなどのミュージシャンが使用している。


<参考資料:「井上陽水 氷の世界40年」日本初ミリオンセラーアルバムの衝撃
とその時代(NHK 2013年12月放送)、ラジオ番組「陽水の世界」1974年6月、
ORICON MUCIC 井上陽水が語る忌野清志郎との共作秘話 2014年5月、
井上陽水と愉快なギターたち、アコギラボ S-Yairi YD-304、Wikipedia、
レコードコレクターズ、他>

2021年5月17日月曜日

井上陽水の「氷の世界」は終わりの始まり<中篇>

 


レコーディングはシングル候補の「帰れない二人」「心もよう」から始まった。


<「氷の世界」の制作過程1 - 心もよう>

心もよう」は元は「普通郵便」というベッツイ&クリスへの提供曲だった。

ハワイ出身の女性二人のフォーク・デュオ、ベッツイ&クリスの人気に翳りが見え
、マネジメントをしていた青山音楽事務所(現:青山ミュージック・アソシエイツ)
では新機軸として、和製フォークの歌手たちに曲を提供してもらいアルバムを作る
という企画を立てた。




寄せられた曲の中から青山音楽事務所も日本コロムビアも「普通郵便」という曲が
出色の出来で、シングル盤の候補と考えていた。
しかし2人のうち片方(ベッツイかクリスか忘れてしまった)は頑なに「この曲だけ
は歌いたくない」と譲らないので諦めた。ベッツイ&クリスは衰退して行った。
しばらく経ってその曲がラジオで流れ出す。陽水が歌う「心もよう」だった。

「普通郵便(心もよう)」は重く悲しい曲調で演歌っぽい。
ベッツイ&クリスのイメージに合わないし、彼女たちが拒んだのも理解できる。




改定される前の「普通郵便」の歌詞は「心もよう」とはだいぶ違う。
(以下、赤字は「心もよう」になる前の「普通郵便」の歌詞)

 遠くの街の駅で 降りて空を見ると 
 線路の脇に草がある 草のにおいで旅を知る

 僕らが旅へ出てゆくわけは・・・



この歌詞はボツになり、陽水は以下のように書き直した。

 さみしさのつれづれに 手紙をしたためています あなたに
 黒いインクがきれいでしょう 青いびんせんが悲しいでしょう

 このごろレモンティーが とてもおいしいので 自分でいれます
 レモンを買いに行くほかは ほとんど毎日 家に居ます


 さみしさだけを手紙につめて ふるさとに住む あなたに送る
 あなたにとって見飽きた文字の さみしさだけが必ず届く




2番の歌詞はどうでもいい内容。速達にするまでもない(笑)
ディレクターの多賀英典氏はレモンティー〜にダメ出しをし、書き直させた。
またコーラス部で「さみしさだけ」が2回出てくるのも気になる。

 あなたの笑い顔を 不思議なことに今日は覚えていました
 19才になったお祝いに 作った曲も忘れたのに

 さみしさだけを手紙につめて ふるさとに住む あなたに送る
 あなたにとって見飽きた文字が 季節の中でうもれてしまう


さらに、さみしさだけを〜のリフレインでは四季の移ろいを追加した。

 あざやか色の春はかげろう まぶしい夏の 光は強く
 秋風の後 雪が追いかけ 季節はめぐりあなたを変える



多賀英典氏はタイトルにもこだわった。
心+もよう」は不思議な造語だが、どこか心の機微を感じさせる




ポリドールに16トラックの2インチ・レコーダーが導入(おそらくそれに
対応するべくコンソールも一新したはずだ)された頃で、アレンジを担当
した星勝は「これなら何でもできる」と音作りに意欲が湧いた。

イントロではエレクトリック・ハープシコードを使った。
ギターのアルペジオに続いて入るダダダーン♪の重厚なコードがそうだ。
その後メロトロンの タララ~♪でキャッチーさを倍増させた。



↑クリックすると
井上陽水の「心もよう」が聴けます。



<「氷の世界」の制作過程2 - 帰れない二人>

帰れない二人」は最初「僕は君をという仮題だった。
RCサクセションの忌野清志郎との共作である。

陽水によると「清志郎と中野の僕の部屋で作った。きっかけは僕だと思う。
詞と曲を一行ずつ作ったような気がする。よく憶えてないけど。
あの頃よく聴いたニール・ヤングの曲(The Needle and the Damage 
Done)にインスパイアされて。リズムは違うけれど」とのこと。



↑ニール・ ヤングのThe Needle and the Damage Doneが聴けます。


忌野清志郎の記憶は少し違う。
当時、陽水と事務所(ホリプロ)も一緒でツアーも一緒に回ってる頃で、陽水の
アパートにも遊びに行っていたという。※三鷹のアパートだったという説もある。

「最近どんな曲作ってるの?」と訊かれた清志郎が自作の「指輪をはめたい」を
歌うと、陽水は「いや〜いい曲だね。でもその歌詞じゃ絶対売れないよ」と言う。
それで一緒に作ることになった。

「指輪をはめたい」のコード進行を流用し(「指輪をはめたい」はキーがGで半音
ずつ下がるが「帰れない二人」はDから半音ずと下がって行く)メロディを変えて、
最後の部分は陽水が考え、2時間ほどで「帰れない二人」を仕上げた。
陽水が一番の歌詞を考え「二番を考えてよ」と言われた清志郎は、家に持ち帰り
二番の歌詞を作り電話で陽水に伝え「いいねー、清ちゃん」と言われたそうだ。



↑クリックすると井上陽水の「 帰れない二人」が聴けます。


コード進行を見てみよう。


Intro)    D    D on C    G on B    G on B♭ (リピート)
 
 D   Dmaj7  Bm   Bm on A     G    A         D  
 思った   よりも       夜露は    冷たく 
 D   Dmaj7  Bm   Bm on A     G    F#m       Bm
 二人の   声も         ふるえていました
 G   Dmaj7          G   G on F#
 ああ〜              ああ〜    
 Em      Dmaj7      D     E7   A7   Em  Dmaj7   E7       A7   B♭dim
 「僕は 君を」と 言いかけた時  街の 灯が  消えました  
  Bm    F#     Em                  G   F#      G   B♭    D    
 もう 星は 帰ろうとしている 帰れない  二人を残して 


Dでベース音がD→C→B→B♭と下がるコード進行はニール・ヤング、ジェームス
・テイラーの十八番。ビートルズも好んで使っている。(Dear Prudence、
You've Got To Hide Your Love Away、Magical Mystery Tourなど)

ニール・ヤングのThe Needle and the Damage Doneはハネ感のあるシャッ
フル気味のフラットピッキングだが、「帰れない二人」はアルペジオ。
イントロの下降音でハンマリング・オンを入れるのもニール・ヤングっぽい。


「消えました」のA7→ B♭dim→Bmが秀逸。B♭dimがスパイスで効いてる。
「帰れない二人を残して」のG→F#→G→A#→Dでのコードの上下はビートルズ
Sexy Sadie、Revolutionなどでジョンがやっていたのと同じだ。
(陽水はビートルズに夢中だったという)

この曲はコード進行が洋楽っぽく洒落てて歌メロも歌詞も美しい
「もう星は帰ろうとしている 帰れない二人を残して」なんて素敵じゃないか。 




深夜になり、もう星(アレンジャーの星勝)は帰ろうとしている、
(曲が完成していないため)帰れない二人(陽水と清志郎)を残して

という都市伝説みたいな解釈も生まれた。


清志郎が書いたという二番の歌詞。ファンはいかにも清志郎らしいと言う。

街は静かに 眠りを続けて 口ぐせの様な 夢を見ている 
ああ〜    ああ〜 
結んだ手と手の ぬくもりだけが とてもたしかに 見えたのに
もう夢は急がされている 帰れない 二人を残して



一番の「もう星は帰ろうとしている」を受け「もう夢は急がされている」。
どちらも凡人に書ける詞ではない。そして本当に通じ合う仲だったんだなあ。




ちなみに「氷の世界」のジャケット写真はツアー中に楽屋で撮影されたもの。
ネガを現像液に浸けておく時間が長くなり、あの独特の白い感じになったらしい。

陽水が弾いてるのは清志郎のギターである。
1960年代のギブソンLG-0と思われる。
後継機種B-25の12弦モデルのようなブランコ・テールピースに改造してある。


清志郎は同じホリプロで渋谷ジャンジャンに出演してた頃、陽水が自分の前座だ
たのにあっというまに逆転した、と嬉しそうに言ってた。二人の友情を感じる。
RCサクセションが低迷していた時期、清志郎は「氷の世界」のヒットのおかげ
印税収入で潤ったそうだ。(収録曲の「待ちぼうけ」も二人の共作である)



↑忌野清志郎35周年記念バラエティー・ライブ(2005年3月、渋谷パルコ劇場)
陽水と在りし日の清志郎が歌う「帰れない二人」が観られます。

清志郎が亡くなった後、コンサートでこの曲を歌った陽水はサングラスの奥から
涙を流し声を詰まらせた。



<「心もよう」と「帰れない二人」どちらをA面にするか>

現場のスタッフは全員が「帰れない二人」推しで意見がまとまっていた。
洋楽っぽいきれいな曲で、録音したものの出来も良かったから。
陽水自身も「帰れない二人」は自信作でA面にする意向だった。




しかしプロデューサーの多賀英典氏だけは頑なに「心もよう」に固執する。
サウンド、タイトル、歌詞にこだわり、周囲の反対を押し切ってA面に決めた。
多賀氏は孤立し、陽水とも対峙することになったが最後まで自説を通した。

「帰れない二人」はいい曲だけど、日本のマーケットはそういうものではない。
「心もよう」の方が多くの人の情緒を揺さぶるはずだ。

遠距離恋愛をテーマにした叙情的な歌は多くの日本人が好む。
陽水のファン層も広がる。多賀英典氏には確信があった。

1973年9月21日に先行シングル「心もよう/帰れない二人」が発売された。


結果的に「心もよう」は前作「夢の中へ」を超えるヒットとなる。
アルバム「氷の世界」をミリオンセラーに導く起爆剤としての役割を果たした。




伊集院静は「あの時代にきちんと耳に入ったという意味では『心もよう』です。
夜中に流れていた時、孤独感、色彩的な詩がすごくいいと思った」と言ってる。

谷村新司も「多賀さんが(A面は)『心もよう』と言ったのは大正解だと思う。
『帰れない二人』の方がクオリティは高いけど、そういうのを超えてこの時代の扉
を開く一曲を選べと言われたら『心もよう』を選びます。
『帰れない二人』は隠れた名曲としてアルバムの中に別の輝きをもつ存在」と言う。


どうだろう。僕もどっちが好きか問われたら「帰れない二人」と即答する。
が、マーケティング的には「心もよう」という選択肢も理解できる。
「心もよう」は1973年の日本に一石を投じ、多くの人々の心の琴線を震わせた。

しかし今この2曲を改めて聴くと、「心もよう」が昭和という時代を感じさせるのに
対して、「帰れない二人」は時代を超え普遍的な名曲だと改めて思う。

多賀英典氏もアルバムで1曲選ぶとしたら「帰れない二人」だと言う。
「心もよう」より「帰れない二人」の方がいいと彼自身も心の中では思っていた。
スタッフ全員と敵対して「心もよう」A面を強行したのは苦渋の決断だったはずだ。
清志郎と陽水の合作だったことは知らなかったらしい。


(続く)

<参考資料:「井上陽水 氷の世界40年」日本初ミリオンセラーアルバムの衝撃
とその時代(NHK 2013年12月放送)、忌野清志郎自伝「GOTTA」、TAP the POP、
忌野清志郎ラジオ対談、レコードコレクターズ、ORICON MUCIC、Wikipedia、他>

2021年5月5日水曜日

井上陽水の「氷の世界」は終わりの始まり<前篇>

 <「氷の世界」-日本音楽史に打ち立てた金字塔>

井上陽水の3枚目のアルバム「氷の世界」は1973年12月1日の発売と同時に異常な
売れ行きをし始め、オリコン・アルバムチャートの第1位に躍り出た。
そのまま113週連続(2年以上)ベスト10に留まり、発売から1年9ヶ月後の1975年
8月には100万枚を突破し、日本音楽史上初のミリオンセラー・アルバムとなる。


大卒サラリーマンの平均初任給6万円の時代、2200円のLPが飛ぶように売れたのだ。
ステレオの世帯普及率は40〜50%。
大半の人は500円のシングル盤を買い、小型の電蓄で聴いていた。
中高生、いや大学生のお小遣い事情でさえ気軽にLPを買えなかったはずだ。

洋楽ロックや当時、台頭して来た和製フォークを聴く層はヒット曲だけでは満足でき
ず、シングルではなくアルバムで聴きたい気持ちが強かった。
歌い手の世界観やコンセプトを共有したい、という気持ちで買ってた気がする。
しかしディープな音楽ファン以外の層にも売れないと100万枚超えは難しいだろう。


このアルバムはなぜそんなに売れたのか?
「氷の世界」成功の理由を探る前にそれまでの流れを押さえておこう。


<井上陽水という売り方>

井上陽水は福岡から上京しホリプロと契約。
CBSソニーよりアンドレ・カンドレの芸名でデビューしたが鳴かず飛ばずだった。




その後ポリドール・レコードに移籍。井上陽水と改め再デビューを果たす。


井上陽水(あきみ)というのが彼の本名だった。
マネージャーの奥田義行氏は当時、既にフォーク界で不動の人気を誇っていた吉田
拓郎が「拓郎」の二文字で若者に支持されてることから、「陽水」の2文字を強調
し対抗していこうと考え、井上陽水(ようすい)として売ることにする。

ポリドールのプロデューサー多賀英典氏も拓郎を仮想敵にし追い抜こうと考えた。
「吉田拓郎が一頭地を抜いてた。誰にも分かりやすい歌で軽妙洒脱さが陽水と違う。
拓郎のアルバムは初め、陽水より全然売れていた」と当時を振り返る。

陽水も「圧倒的に吉田拓郎という人が当時いて、見上げるような感じで燦然と輝い
ていたのは事実で、当然意識はしていた」と言っている。



<断絶、傘がない〜政治の季節の終わり>



1972年5月に発売された最初のアルバム「断絶」は徐々に売れ始めた。
きっかけは陽水がミッドナイト東海(東海ラジオの深夜ラジオ番組)に出演し生で
4~5曲歌い、人気DJだった森本レオが番組内でレコードを全曲紹介したことだ。
名古屋のヤマハ本店で「断絶」が70枚売れて話題になる。




「断絶」はモップスの星勝が編曲。モップスのメンバーが演奏で参加している。
深町純もピアノとオルガンを弾いた。
「家へお帰り」以外すべての曲が暗く重い。僕は好きになれなかった。




7月に「断絶」から「傘がない」がシングル盤としてリリースされる。
社会が抱える問題よりも今日の雨、恋人に会いに行きたいのに傘がないことの方が
問題だ、と皮肉を込めて歌われている。
社会的問題に向き合わないミーイズム(自己中心主義)とも言われた。
(同年、拓郎は「結婚しようよ」をヒットさせている)

 都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた
 だけども問題は今日の雨 傘がない



↑陽水の弾き語りによる「傘がない」が視聴できます。(1972年頃)


「今朝来た新聞の片隅に書いていた」はビートルズのア・デイ・イン・ザ・ライフの
歌詞、 I read the news today, oh boy から着想を得たそうだ。


 レビでは我が国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべっている
 だけども問題は今日の雨 傘がない


作曲された1971年はまだ政治の季節であった。
が、翌1972年には学生運動が鎮静化。政治に無関心なシラケ世代の時代になる。
そのため「傘がない」は憂国の時代、政治の季節の終わりを告げる象徴と言われた。


Am-G-F-E7sus4-E7の循環コード(アンダルシア進行)はグランド・ファンク・レイ
ルロードのハートブレイカーのパクリ?にも思えた。
当時は2曲つなげて歌ったものだがコードが簡単なので初心者でも弾きやすかった)
実際ハートブレイカーが元ネタらしい。

1971年7月伝説となったグランド・ファンク・レイルロードの激しい雷雨中の後楽園
球場公演で演奏されたハートブレイカーに触発された陽水は「傘がない」を作った。
後からサビの冷たい雨が〜(Dm)が追加された。



↑グランド・ファンク・レイルロードのハートブレイカーが聴けます。


Am-G-F-E7は、悲しき街角、ウォーク・ドント・ランなどポップスでよく使われる
コード進行だが、「傘がない」はリズムの刻み方もハートブレイカーに酷似してた。

「傘がない」が呼び水となり、アルバム「断絶」は徐々に売れ始めた。
1972年発売当初より、3枚目の「氷の世界」と並行して1974年〜1975年にかけ
163週にわたりオリコン100位にチャートイン。51万枚のセールスを記録。
陽水のアルバムの売れ方の特徴でもあるがロングセラーとなった。



<東へ西へ、紙飛行機、夢の中へ>

陽水自身は売れた理由について「おりからのフォークブームでなんとなく浮上」
と述べている。(「陽水ライヴ もどり道」ジャケット内自筆年表)


1972年12月発売の2枚目のアルバム「陽水II センチメンタル」も同じく、発売時
よりも1974年に年間8位、1975年に年間15位を記録した。




センチメンタルというタイトルはプロデューサーの多賀英典氏がつけたもの。
人間なんて基本的には女々しいんだからいいじゃないかという気持ちこの頃
から陽水で勝とう、絶対注目を集めてみせるという対極の意識が芽生えたそうだ。

このアルバムからはシングルカットされなかったが、「東へ西へ」「紙飛行機
は後に「傘がない」と並ぶ代表曲となった。



↑クリックすると陽水の「東へ西へ」が聴けます。
(近年iriのカヴァー・ヴァージョン<Yaffleプロデュース>で再評価された)



個人的には「たいくつ」が好きだった。

 つめがのびている 親指が特に のばしたい気もする どこまでも長く
 アリが死んでいる 角砂糖のそばで 笑いたい気もする あたりまえすぎて



達観したような万物の見方。静かな「わび・さび」の境地にも通じる世界観。
陽水のギターはニール・ヤングのミュート奏法を参考にしたと思われる。
安田裕美のアコースティックギターのからみ方もいい。



↑「たいくつ」が聴けます。(1973年 新宿厚生年金会館 陽水ライヴ もどり道)



前述の3曲、そしてこの曲。すべてAm(カポ使用曲も含め)で演奏されている。
陽水はマイナーで歌われる曲が多く、陰鬱で重苦しいイメージが強い。
(「あどけない君のしぐさ」「白いカーネーション」など綺麗な曲もあるが)


翌1973年3月発売のシングル「夢の中へ」はそれまでの暗さを払拭し、明るく
親しみやすいポップなロックンロールである。
シングルでは初めて20位以内にランクインし、20万枚近いセールスを記録。
これも陽水の代表曲の一つとなった。



<拓郎と陽水の二強時代>

1973年当時、従来のプロテスタント・フォークとは違った私的な世界観を歌う
和製フォーク(荒井由実に四畳半フォークと揶揄される)が一つのジャンルとして
確立され、マーケットとしても大きくなっていた。

そのフォークソング・ブームの頂点にいたのが拓郎と陽水である。
もっとも当の二人はフォーク歌手という自覚はない。
ディランやドノヴァンやニール・ヤングに傾倒しアコースティックギター(当時
はフォークギターと呼ばれた)を弾くシンガー&ソング・ライターだったのが、
周囲が勝手にフォークというジャンルにカテゴライズしたというだけの話である。




フォーク・ブームの中、拓郎派と陽水派が生まれた。(両方とも好きな人もいた)
デビュー時から恋愛を歌い女子に人気があった拓郎は、フォークはプロテスタント
であるべき論を唱える左派から軟弱視され野次られることも多かった。

一方、内省的で淡々と自分の世界観や心情を歌う陽水は、ポスト学生運動のシラケ
世代、どちらかというと男に支持されていたと思う。


当時、陽水と一緒にツアーすることが多かったアリスは女の子のお客さんが多く、
陽水は男性客が多かった。
「チンペイのとこはいいよな、黄色い声が多くて。俺はぶっとい声でヨウスイ~!
とか言われてがっかりだよ」と陽水は谷村新司によく愚痴っていたそうだ(笑)
(「陽水ライヴ もどり道」を聴くと女性ファンの声も聞かれるが)

拓郎にも陽水にも熱心な信者がいたが、陽水の方がより多かった気がする。
陽水の詩の行間から自分が共感できる何かを読み取ろうとしていたのだろうか。





<「氷の世界」は日本社会の終わりの始まりだった>

陽水の歌には、こうあるべきだ、と人に行動を促すメッセージ性はない。
世の中いろいろ起きてるけど僕はここでなんとなく生きてます、と陽水は歌う。
あかずの踏切」の歌詞のように、今の場所に留まって傍観しているだけだ。

 相変らず僕は待っている 踏切りがあくのを待っている


それが前述のように憂国の時代、政治の季節の終わりを告げる象徴とも言われた。
学生運動の無力さを痛感し就活に切り替えた団塊世代、それを傍観していた政治
に無関心なポスト団塊世代(シラケ世代)の心を陽水は捉えた




「氷の世界」が発売された1973年12月の直前、オイルショックが起きたことも
見逃せない。
翌1974年に日本は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験する。
それは高度経済成長の終わりを告げるものであった。
挫折である。「頑張れば報われる」神話が通じなくなった




谷村新司は「高度成長の中、団塊の世代は勝つことに躍起になっていた。
価値観が違うことを教えてくれたのがこのアルバムなんじゃないかと思う。
自分はこう思うと堂々と主張してもいい。共感する人は支持してくれると」
と言っている。


宗教史学者の中沢新一氏は「氷の世界」をこう評した。
「日本はずっと『あかずの踏切り』を続けてきた。向こうへ行きたいけど
渡れないでずっと待っている。到着点を示すのがメッセージソングという1970
年代に、待機している状態を歌っているのが新鮮だった。
目的に向かって突っ走っていたのがオイルショックで挫折した時に、井上陽水
のこの考え方は大きな意味を持つ。
日本は3.11である部分すべて終わった。『氷の世界』は予兆的でもある」




タイトル曲の「氷の世界」では、誰もが内包する矛盾や狂気や叫びが歌われる。

 誰か指切りしようよ 僕と指切りしようよ
 軽い嘘でもいいから 今日は一日はりつめた気持でいたい

 人を傷つけたいな 誰か傷つけたいな
 だけど出来ない理由は やっぱりただ自分が恐いだけなんだな

 そのやさしさを秘かに 胸にいだいてる人は
 いつかノーベル賞でももらうつもりで ガンバッてるんじゃないのか

 毎日 吹雪 吹雪 氷の世界


「若者にとっての不条理がこの時代溢れていた。若者に対する拒絶の仕方。
もっとたくさんの井上陽水がいたということはまちがいない。
自分たちの目の前の不条理を言ってくれた陽水を彼らは支持した
と伊集院静は言っている。





<「氷の世界」は歌謡曲の終わりの始まりでもあった>

なかにし礼は「拓郎と陽水の二人の出現によって、職業的な作詞家作曲家の存在
はほとんど不要になった」と言っている。

「われわれ職業作家が作詞・作曲し歌手が歌うという作業では、1970年代の若者
たちが抱えていた精神の問題を解決する作品には成りえていなかったということ。
それを彼ら(拓郎と陽水)がすくい取って、自分たちの作品に反映させていった」

あの時代「氷の世界」が出たことによって歌謡界そのものが終わってる
その後も細々続いているけれど、それは永遠に終わりの始まり
若者が自分で作詞作曲して歌う、という姿勢はいまだに貫かれている」



↑後に作詞・作曲、スタジオ・ミュージシャンとして歌謡界でも存在感を増して行く
はっぴいえんどの大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆。



筒美京平は「吉田拓郎の登場は危機感は持った。井上陽水が出てきた時はそれほ
ど意識しなかったけど」と言っている。
筒美京平ら作曲家が洋楽を取り入れて洒落たコード進行やアレンジで装飾し進化
させてきた歌謡曲を、単純で素朴なコードで字余りソングを歌う拓郎が覆した。
(一方、吉田拓郎は「いい曲だと思うとたいてい筒美京平だった」と言っている)

陽水は演歌にも通じる日本的なメロディやコード進行の曲が多かったから、(歌詞
を別にすれば)作曲家の筒美京平にとってさほ脅威でなかったのかもしれない。


職業作家が用意した曲を歌手が歌うという従来の歌謡界のシステムは崩れ出す
テレビの歌番組で局が用意した歌伴オーケストラの演奏でワンコーラス歌わせて
もらってレコードの販促につなげる、というヒット曲作りの方程式も揺らいだ




吉田拓郎や荒井由実はヒット曲のショート・ヴァージョンを歌うのは嫌、自分が
歌いたい歌を何曲か、自分(と自ら率いるバンド)で演奏して歌うスタジオ・
ライブの形式じゃないと受けない。それ以外は出演を断り続けた。

陽水にいたってはこの頃はテレビ出演を断っていた。見ることが奇跡的。
コンサートに行かないと見れない。それが陽水をより大きい存在にしていた。

(続く)


<参考資料:「井上陽水 氷の世界40年」日本初ミリオンセラーアルバムの衝撃
とその時代(NHK 2013年12月放送)、中央調査報 世帯インデックス調査、
アセットマネジメントOne、産経ニュース、戦後昭和史 レコードの価格推移、
レコードコレクターズ、ザ・カセットテープ・ミュージック、Wikipedia、他>

2021年4月17日土曜日

日本のロックは1965年のベンチャーズ来日で始まった(3)

                                                                                          
(1965年 週刊明星)


<1965年7月、ベンチャーズ3回目の来日で単独公演>

1月の来日から半年、7月に再びベンチャーズは日本にやって来た。
いや、日本のファンにとってはベンチャーズが帰って来た!というべきか。

実は1月の公演は前年11月28日に発売され、その日のうちに完売したそうだ。
1月13日の札幌でベンチャーズは15公演を終え帰国するはずだったが、あまり
の反響から14日に渋谷のリキ・スポーツパレス追加公演(ダンスパーティー)
が行われた(翌15日にその模様がフジテレビで放映)ことは前回も書いた。

そして1月の来日前にすでに7月の来日公演が決定したというから驚きである。


ベンチャーズ人気が高まると同時に、エレキギター・ブームが起きていた。
来日直前の6月フジテレビ系列で「勝ち抜きエレキ合戦」が始まる。

ベンチャーズ人気の沸騰、空前のエレキギター・ブームの中、ベンチャーズは
3度目の来日を果たす


                                                                                        (1965年 週刊明星)


7月22日、東武デパート屋上でのサイン会には2万人のファンが押し寄せた。

7月24日〜9月3日にベンチャーズは全国28都市(四国、長野、新潟を除く)を
周るコンサート・ツアーを敢行。公演回数は58回観客動員数は17万人

東京だけでも厚生年金会館×8回、サンケイホール×6回、東京音協例会×2回、
台東体育館×1回、大田区民会館×1回、八王子市民会館×1回。
横浜、川崎、平塚、葉山、静岡、浜松、名古屋、大阪×4回、神戸、京都×6回、
広島、福岡、別府、高崎、金沢×2回、富山、福島、山形、仙台、秋田、室蘭、
旭川、帯広、釧路で公演を行なう。

来日アーティストが訪れる機会が少ない地方にも旋風を巻き起こした
これが日本で全国的にベンチャーズが愛された理由になっていると思う。



今回は前座を入れず、ベンチャーズ単独で45分のステージを2回の2部構成
新曲も多く披露し、全国のファンを熱狂させた。

演奏曲や順序は公演日や会場によって少し異なる。
ライブ収録されたと思われる7月25日(1) 厚生年金会館の演奏曲は以下の通り。

<第1部>
1. クルーエル・シー
2. ペネトレイション
3. ウォーク・イン・ザ・ルーム
4. 10番街の殺人
5. 朝日のあたる家
6. ラップ・シティ
7. 夢のマリナー号
8. ピンク・パンサーのテーマ
9. アウト・オブ・リミッツ
10. イエロー・ジャケット
11. ラヴ・ポーションNo.9
12. 悲しき街角(ドンのボーカル)
13. ウォーク・ドント・ラン’64
14. ワイプ・アウト

<第2部>
15. ベンチャーズ・メドレー(ボブがリード、ノーキーがベース)
(ウォーク・ドント・ラン~パーフィディア~木の葉の子守歌)
16. 悲しき闘牛(ボブがリード、ノーキーがベース)
17. テルスター(ボブがリード、ノーキーがベース)
18. ドライヴィング・ギター
19. フィール・ソー・ファイン(ドンのボーカル)
20. パイプライン
21. アパッチ
22. アイ・フィール・ファイン
23. サーフ・ライダー
24. ブルドッグ
25. バンブル・ビー・ツイスト
26. ダイアモンド・ヘッド
27. キャラバン(アンコール)

前日7月24日(初日)はサマータイム、星への旅路を含め29曲演奏された。(2)


      


8月11日には葉山マリーナのプールサイドで演奏。
右下にメル・テイラーにドラムの手ほどきを受ける?星由里子(澄ちゃん!)
加山雄三、ノーキー、ドン、ボブが楽しそうに見ている写真が載っている。
ここにはザ・ヒットパレードに出演した時の交歓風景と記されているが、
正しくは後述の「花椿ショー スターの広場」ではないかと思う。
      
<2023/3/30 訂正> THE M VENTURESさんから情報をいただきました。
写真はザ・ヒットパレードに出演した時の交歓風景だそうです。
 THE M VENTURES さん、ありがとうございました。


                                                                                    (ミュージック・ライフ)




<TV出演>

7月28日フジテレビ系列の番組「花椿ショー スターの広場」(3)で、加山雄三
&ランチャーズとベンチャーズが初共演した。
7月28日と8月4日の2回放送されたが、7月28日に2回分収録したのだろう。





↓「花椿ショー スターの広場」出演時のランチャーズとベンチャーズの演奏が
聴けます。(NEW!)

ブラックサンドビーチ
https://youtu.be/bai7PYkMZpA

ベンチャーズメドレー
https://youtu.be/WzAJjFVyqOU

10番街の殺人
https://youtu.be/_1MAzj5Fma0



<2023/3/30 追記>
THE M VENTURESさんがYouTubeにアップしてくれた音源です。
以前のリンク先より、はるかに音質のいい貴重な音源です。

「ベンちゃん'sア・ゴー・ゴー」サイトを運営されていた方(ご逝去されたとの
こと。ご冥福をお祈りいたします)から譲り受けた音源だそうです。

上の写真は「花椿ショー スターの広場」出演時のもの。初めて見ました!
これもTHE M VENTURESさんのYouTubeより使用させていただきました。

階段状のステージで、ブラックサンドビーチの音源ではランチャースがベンチャ
ーズと交代する際の階段を昇り降りする音が確認できます。
加山雄三はこの時ジャズマスターを、他メンバーもフェンダーを使用している。
アンプはグヤトーン。ベンチャーズと共用したようです。

THE M VENTURES さん、ありがとうございました。



ダイアモンド・ヘッド/ベンチャーズ、ブラックサンドビーチ/ランチャーズ、
キャラバン/ベンチャーズの3曲。
加山雄三はブラックサンドビーチはこの番組の3日前に作曲したと言っている(4)
この共演を機にノーキー、ベンチャーズと加山雄三の友情が始まった。

ツアー終了後、ノーキーはパールホワイトのモズライトを加山にプレゼント(5)
加山雄三は12月公開映画「エレキの若大将」でこのモズライトを弾いている。



※下の写真は翌1966年3月の来日時、日本テレビのビッグ・ヒット・ショー
に出演し2回目のTV共演をした時のもの。
ノーキー、ドン、ボブはキャンディー・レッドのモズライト、加山雄三は
前年にノーキーが使用していたパールホワイトのモズライトを使用している。
加山雄三は「エレキの若大将」の挿入歌、夜空の星か、この翌月発売になる
蒼い星くずを歌っているのではないか、と思われる。(6)

<追記> THE M VENTURES さんから情報をいただきました。
左の2台の台形のコンボ型真空管アンプはモズライトの試作機だそうです。
尚、市販された時はトランジスタ製になったようです。
 THE M VENTURES さん、ありがとうございました。




尚、同じ7月28日にフジテレビ系列のザ・ヒットパレードに出演したという
記録も残っている。同じ日に2つの番組に出演したのかどうか不明。
(両番組とも河田町のフジテレビのスタジオでの収録なので可能ではある)

8月1日にはフジテレビ 日曜お好み劇場「ザ・ベンチャーズ・ショー」として
厚生年金会館でのライブの模様が放送された。
(7月25日の公演を局が収録したのか?後述の映画の一部を紹介したのか?)

フジテレビ「スター千一夜」に出演したという記録もある。
1965年7月の来日時は6回テレビに出演しているが、すべてフジテレビだった。




<映像作品>

1967年7月〜の来日はモノクロ70mmシネマスコープで撮影され、翌年1966年
7月に映画「ザ・ベンチャーズ '66 スペシャル~愛すべき音の侵略者達」(英題
Beloved Invaders The Ventures 松竹富士)が全国で公開された。(7)





タイトルに '66とあるため1966年のライブと誤解を与えるが、1965年7〜9月
来日時に撮影されたものである。


脚本・監督がアメリカ人のためか、視点がアメリカから見た日本でおもしろい。
(撮影クルーは日本人、ナレーションは大橋巨泉)
絶頂期のベンチャーズの演奏がハイクオリティで見られ、オフステージの様子
日本のファンとの交流、当時の若者の姿も捉えられた貴重な記録映画でもある。
ベンチャーズの会話が牟田禎三ら俳優の吹き替えという違和感はあるが。
(当時、日本語版と英語版の2種類が
制作された) 



↑「ザ・ベンチャーズ '66 スペシャル~愛すべき音の侵略者達」が観れます。
(演奏は22'30"〜)




ベンチャーズの演奏は17曲収録されている。撮り方も編集も巧い。
アンプの配置から東京厚生年金会館での公演、横浜、京都、大阪、広島での
公演やオフステージ、移動時間を撮影し編集したのはないかと思われる。




曲によってアンプの前に立ちマイクがある映像とないものが混在している。
立ちマイクが置かれた映像は隣のアンプの音が入らないように、3台のアンプが
他の映像よりは離れて設置されている(前回1月公演収録時での音の被り、歪み
、残響を改善するためか)ので、その日に録音したのだろう。

録音用機材の調達などを考えると東京(保険の意味で2会場で)の可能性が高い。
使用されている音源は実況録音盤として1966年3月に発売されたAll About The 
Ventures(邦題:ベンチャーズのすべて ※後述)と同じである。


よく見ると音と映像がややズレ気味な部分がある。




この映画は1987年にビデオ、LD化された。(後にDVD化)
東芝EMI映像制作室の佐藤恒夫氏によるとかなり大変な作業だったようだ。

35mmフィルムは東洋現像所(現IMAGICA)に保管されていたのを発掘。
シネスコサイズ(ワイドスクリーン)のネガを4:3のテレシネサイズ(旧テレビ、
ビデオ、LD、DVDのアスペクト比)にして1インチビデオに変換する。
(この際、上下が黒味になる)(8)

日本語版と英語版の2種類制作されているが、音声(フィルムの映像の横に
入っている)は英語版しか見つからない。




フィルムに入ってる音を抜き出し1インチビデオに入れることにした。
が、問題があった。
1) 映画館で使用したプリントのため音はモノラルである。音質も良くない。
2) フィルムに傷やコマの欠損(9)があり、演奏が何箇所も音飛びしてしまう。

演奏部分はステレオで録音されたスコッチのテープ(レコード用のマスター
とは違うようだ)を捜し出し、映像にシンクロさせる作業が始まった。

現在のようにコンピューターを使ってタイムコードで簡単にシンクロ作業でき
るわけではない。
映像を見ながらシンクロさせていくアナログの根気の要る作業になる。
当時の古いテープレコーダーと現IMAGICAの使用機器とは微妙な回転スピー
ドの違いもあり、許容範囲内で若干ピッチを調整しシンクロさせたそうだ。


これが前述の音と映像のズレの原因だ。
メルの叩くタイミングとリズムが若干合ってない部分があるのも納得。
それよりも貴重な映像の記録がこうして残されていることに感謝したい。




映像で見ると、ベンチャーズの演奏力の高さ、醍醐味がさらに伝わる
ノーキーの多彩なプレイ、ドンの力強いリズムギター、ボブの元祖リード・
ベースとでも言うべきベースギターの枠を超えたベースライン、パワフル
でありながら小技の効いたメルのドラミング。

スティーヴ・ガットが自分の原点はメル・テイラーと言ってたのも納得。
左手の返し、スナップの利かせ方がすごい。
後のスティーヴ・ガットの左手だけでハイハットとスネアを叩く(右手はライド
シンバルやタム、フロアタムを叩く)という超人技の雛形になってるのだろう。


今回はノーキー、ドン、ボブの3人ともパールホワイトのモズライトを使用。
映画ではアンプは3人ともフェンダー製ブロンドのピギーバッグを使用している。
(他の公演の写真を見ると、会場によって全員グヤトーン、ピギーバッグ
グヤトーンの組み合わせなど、違いが見られる)





<ライブ盤>

1月公演の実況録音ベンチャーズ・イン・ジャパン(Ventures In Japan)
が8月(7月〜の3回目の来日の最中)に発売されたことは前回も書いた。

今回も厚生年金会館での公演が録音され、ベンチャーズ・イン・ジャパン第二集
(Ventures In Japan Vol.2)として翌1966年3月に発売された。
(7月25日の公演とされるが、星への旅路はこの日ではなく前日7月24日の演奏。
2〜3回分を収録していいとこ採りしてたのではないかと思う)


ベンチャーズ・イン・ジャパンの続編として制作されたこのアルバムは、前作
に勝るとも劣らない聴き応えのある作品となった。
前作に収録された定番曲とかぶらない、珍しい曲中心の構成である。

<収録曲>
1. クルーエル・シー
2. ペネトレーション
3. アイ・フィール・ファイン
4. 朝日のあたる家
5. アウト・オブ・リミッツ
6. ウォーク・イン・ザ・ルーム
7. ベサメ・ムーチョ・ツイスト 
8. 星への旅路
9. ラップ・シティー
10. ラヴ・ポーションNo.9
11. ピンク・パンサーのテーマ
12. 夢のマリナー号
13. イエロー・ジャケット
14. サーフ・ライダー
15. ダイアモンド・ヘッド


今回のジャケットは東京ヒルトン・ホテルの茶室で撮影された。
スーツ姿の4人が屏風の前で胡座座り。手前に抹茶碗と茶道具が置かれている。
和室と補色関係の赤字でタイトル。スーツのブルーとの対比もいい。



↑クリックすると1965年7月 日本公演のアウト・オブ・リミッツが聴けます。


全体にアップ・テンポで荒けずりの演奏だが、ライブならではのグルーヴ感、
スピード感が伝わる。さすが、と思わせる素晴らしい堂々とした演奏だ。
ピッチも本来のものになった。
今回も東芝音楽工業による収録のようだ。

各楽器の音がクリアで分離も前回より良くなっていて非常に聴きやすい
(写真や映像で確認すると)録音を行なった日は3台のアンプを離してやや上向
きに斜めにセットされ、マイクもアンプに近づけ高い位置に立てられている。
前回の録音での音の歪みと楽器のかぶり、床からの反響が解消された。


1965年でこれだけ完成度の高いライブ盤が録れているということ自体すごい
ベンチャーズの演奏力に加え、録音エンジニアの技量も優れている。(10)

ただしライブの臨場感と迫力いう点では前作に軍配が上がるという人もいる。
1月公演のキャラバンではメルのハイハットが会場の壁の反響を拾って、実際の
音より少し遅れて聴こえてくるのまで分かる。
楽器のかぶり、歪みも含め、音が遠い感じがかえって臨場感を煽り、その場に
いるような錯覚に浸れる、ということだ。




裏ジャケットはステージでの演奏風景。
3人ともパールホワイトのモズライト。
アンプはボブはグヤトーンの大型ベースアンプ、ノーキーとドンはバンドマスター
・ピギーバッグのブラックフェイスにも見えるが、フェンダーのロゴがない。
微かにGマークが見えるので、グヤトーンのコンボアンプではないかと思う。
アンプの前にマイクが立てられてるのでこの日も収録してるのだろう。
ということは新宿厚生年金会館か。。。


7月来日時の実況録音盤はもう1種類、翌1966年3月に同時発売された。
2枚組のボックス、ベンチャーズのすべて(All About The Ventures)。
当時、赤箱と呼ばれていた。

ベンチャーズ・イン・ジャパン第二集収録曲に収録されなかった曲も加え、
公演で演奏された曲をほとんど収録(26曲)したデラックス盤である。
(ベンチャーズ・イン・ジャパン第二集はここからのダイジェストとも言える)



↑クリックすると1965年7月 日本公演のペネトレーションが聴けます。


ただしベンチャーズ・イン・ジャパン第二集に入っていたピンクパンサーの
テーマが、なぜか2枚組のベンチャーズのすべての方には入ってない。
そのため両方買ったファンも多いそうだ。


<収録曲> Part-1
1. クルーエル・シー
2. ペネトレーション
3. ブルドッグ
4. アイ・フィール・ファイン
5. 朝日のあたる家
6. アウト・オブ・リミッツ
7. 10番街の殺人
8. ベサメ・ムーチョ・ツイスト
9. ラヴ・ポーションNo.9
10. 星への旅路
11. ウォーク・イン・ザ・ルーム
12. ウォーク・ドント・ラン’64
13. ラップ・シティー
14. ワイプ・アウト

<収録曲> Part-2
1. ベンチャーズ・メドレー(ボブがリード、ノーキーがベース)
(ウォーク・ドント・ラン~パーフィディア~木の葉の子守歌)
2. 悲しき闘牛(ボブがリード、ノーキーがベース)
3. テルスター(ボブがリード、ノーキーがベース)
4. 夢のマリナー号
5. ドライヴィング・ギター
6. アパッチ
7. イエロー・ジャケット
8. パイプライン
9. サーフ・ライダー
10. バンブル・ビー・ツイスト
11. ダイアモンド・ヘッド
12. キャラバン

★はベンチャーズ・イン・ジャパン第二集には収録されてない曲。



↑クリックすると1965年7月 日本公演の10番街の殺人が聴けます。



<1965年コンプリート盤のCD化>

1998年3月ベンチャーズ・コンプリート・ライヴ・イン・ジャパン'65がCD化
キャラバン、ピンク・パンサーのテーマ、2曲とも収録。めでたしめでたし。


<収録曲>
イントロダクション
1. クルーエル・シー
2. ペネトレーション
3. ブルドッグ
4. アイ・フィール・ファイン
メンバー紹介
5. 朝日のあたる家
6. アウト・オブ・リミッツ
7. 10番街の殺人
8. ベサメ・ムーチョ・ツイスト
9. ラヴ・ポーション・No.9
10. ウォーク・ドント・ラン′64
11. ウォーク・イン・ザ・ルーム
12. ラップ・シティ
13. ワイプ・アウト
14. メドレー(ウォーク・ドント・ラン〜パーフィディア〜木の葉の子守唄)
15. 悲しき闘牛
16. テルスター
17. ドライヴィング・ギター
18. 夢のマリナー号
19. ピンク・パンサーのテーマ
20. イエロー・ジャケット
21. アパッチ
22. パイプライン
23. サーフ・ライダー
24. 星への旅路
25. バンブル・ビー・ツイスト
28. ダイアモンド・ヘッド
29. キャラヴァン


曲順は7月25日の厚生年金会館に近いが少し違う。編集してあるようだ。
とはいえ、冒頭の紹介、メンバー紹介、ベンチャーズ・イン・ジャパン第二集
およびベンチャーズのすべてでカットされたビン・コンセプションによる曲の
紹介まですべて収められているので、公演をほぼ丸ごと聴ける感じだ。

個人的には曲ごとに入る「あなたの大好きなダイアモンド・ヘッド」という
ビン・コンセプションのカタコト日本語は鬱陶しい。無い方がいい。
が、リアルタイムで聴いたファンにとってはこれも時代の記録なのだろう。



↑クリックすると1965年7月 日本公演のパイプラインが聴けます。


ジャケットもいい。3人ともパールホワイトのモズライト。
アンプはこの写真の公演では3人ともグヤトーンだ。
ボブはグヤトーンの大型の縦置きを2台、ノーキーとドンもその半分くらいの
縦置きグヤトーンをそれぞれ2台ずつ並べている。ヘッドアンプが手前に見える。


<追記> THE M VENTURES さんからご指摘をいただきました。
東京公演は全てグヤトーンだった(グヤトーンとの契約があった)だそうです。
7月公演を収めたALL ABOUT THE VENTURES、CD化されたコンプリート・
ライヴ・イン・ジャパン'65に写っているのはグヤトーンのGA1200だそうです。
映画BELOVED INVADERSではドンとノーキーはフェンダーのショウマンを
使用しているのが確認できるそうです。
THE M VENTURES さん、丁寧に教えていただいてありがとうございました。


スティックを高く振り上げた右手。メルのドラムは炸裂している。
この瞬間が全てを物語っている。
ベンチャーズの絶頂期のライブが聴ける名盤中の名盤である。


このCDを聴いて改めてベンチャーズの底力を知ったような気がする。
演奏技術、スピード感、ぐいぐい引っ張っていくグルーヴ感、そして気迫。
スタジオ録音では味わえないベンチャーズはライブで聴くべし!



↑クリックすると1965年7月 日本公演のワイプアウトが聴けます。


尚、このCDはUS盤も出ている(写真のようにジャケットがダサい)が、
そちらの方が帯域が広く音が自然、対して日本盤はコンプレッサーをかけて
メリハリを付けた音、と評している人もいる。





<1965年ベンチャーズ夏の来日がもたらした影響>

7〜9月の全国行脚で日本中がベンチャーズ・サウンドに揺れ人気が沸騰した。
そして空前のエレキギター・ブーム。日本全国にエレキバンドが出現。


エレキは不良というレッテルを貼られ、社会的な現象にまでなった。
1965年時点でベンチャーズはビートルズを凌ぐ人気で若者に影響力があった。
モンキーダンス、ゴーゴーもブームとなるが同じく不良、非行の温床とされる。

1966年8月10日、銀座のど真ん中にモンキーダンス専用ホール、モンキー・
・ゴーゴーが開店。
オープン記念に来日中のベンチャーズとアストロノウツが出演したらしい。
しかし1ヶ月で閉店。(当局の圧力?銀座に相応しくないから?経営破綻?)


1965年冬、東宝映画「エレキの若大将」が公開エレキ・ブームはピークへ
夏公開の「海の若大将」ではFホールのアーチトップギター(当時はピックギタ
ーと呼ばれた)を弾いてた加山雄三が、「エレキの」ではテスコ、ヤマハ、
ノーキーから譲ってもらった?モズライトを弾いている。(11)



↑クリックすると「エレキの若大将」の予告篇が観れます。



↑加山雄三&ランチャーズのブラック・サンド・ビーチ。
本家ベンチャーズに負けてません。いかすぜ!若大将(死語)




1965年6月にアメリカ本国で唯一のライブ盤、ベンチャーズ・オン・ステージ
(The Ventures On Stage Around The World)が発売された。
内容は10曲中4曲が日本公演、3曲がイギリス公演、3曲がアメリカ公演の音源
とされているが、スタジオ録音に拍手等のSEをかぶせた擬似ライブ(12)である。



↑右の写真は1965年1月の日本公演。
ドンのグヤトーンのアンプは後にブロック2段積みを支えに傾けてある。


1966年3月の来日公演が翌1967年1月、オン・ステージ・アンコールとして
発売されたが、これもスタジオ一発録りに拍手歓声を被せた疑似ライブ。




1967年夏の来日公演を収録したベンチャーズ・アゲイン~北国の空が翌1968
年1月に発売された。
厚生年金会館で収録されたライブだが、アンコールからも4曲流用されている。
演奏は申し分ないが、この頃から歌謡路線の選曲になっている。




1968年にノーキー脱退後に加入したジェリー・マギーで、ベンチャーズ歌謡
の色が強くなり、日本との親和性はますます高まる
日本びいきで毎年恒例のように来日。
反面、本国アメリカでは1960年代末にどんどん変化していくロックの流れに
は乗れず、ハワイ5-0のヒット以後は過去のバンド的な存在になってしまった。


アメリカでは絶頂期のベンチャーズの本当のライブ音源は残されていないが、
我々は黄金期の4人の1965年日本公演が聴けるのだからラッキーだ。

その迫力、卓越した演奏技術は今聴いても充分、すごい!と思える。
若いミュージシャンたちにも聴いてもらえると、勉強になるんじゃないかな。





今回もベンチャーズ・ファン歴が長くシャドウズ、チェット・アトキンスなど
ギター・インストに詳しいHさんに教えていただいた情報を元にまとめました。
根気強く質問に答えていただき、お付き合いいただいたことに深く感謝します。
Hさんのご協力のおかげでなんとか形になりました。
また個人で情報をアップされてる方のブログやサイトも参考にさせてもらったが、
コンタクトが取れず許諾のないまま転用させてもらった箇所もある。ご容赦を。
脚注の参考資料に出典を記載しておくので問題がある場合はご一報ください。


<脚注)