なにしろジョージ・ハリスンの妻で、彼の親友でもあるエリック・クラプトン
もまた彼女に恋焦がれ略奪婚までし、ジョン・レノンやミック・ジャガーも
惹かれていたというのだからかなり魅力的な女性だったようだ。
モデル出身で着こなしがうまくスゥインギング・ロンドンのアイコンのような
パティは同性からの人気も高かった。
パティ・ボイドほど名曲が生まれるきっかけになった女性はいないだろう。
ジョージの最高傑作と評される「Something」のインスピレーションをパティ
から得たこと(1)、クラプトンが彼女への思いを名曲「Layla」(2)に託したこと、
また結婚後に「Wonderful Tonight」を書いたことはあまりにも有名な話。
それだけではない。
ジョージのビートルズ時代の「For You Blue」、解散後の「Isn't It A Pity」も
パティのことを書いた曲らしい。
「Bell Bottom Blues」はクラプトンがパティにお揃いのベルボトム・ジーンズ
をプレゼントした直後に書いた曲(3)だとか。
1997年の「Old Love」も別れたパティへのひどい仕打ちを悔やんだ曲らしい。
東洋神秘学に関心があったパティは、ビートルズをマハリシ・ヨギと会わせ
るきっかけを作った。(4)
ホワイトアルバムの多くの曲がインド滞在中に書かれていることを考えると、
間接的ではあるがジョンとポールの曲作りにもパティは影響を与えている。
パティ・ボイド(Patricia Anne Boyd)はロンドンで美容院の見習していたが、
ファッション雑誌にスカウトされモデル業界に入った。
当初は「ウサギのような前歯はモデルにふさわしくない」とカメラマンたちに
受け入れられなかったが徐々に人気が出始めロンドン、ニューヨーク、パリで
活躍するようになり、1964年にはヴォーグ誌の表紙も飾っている。
2年後にモデルを始めたツイッギーはパティを参考にしたと発言している。
パティは1963年にスミスズ・クリスプスのポテトチップスのCMに抜擢される。
このCMの監督リチャード・レスターが翌年ビートルズの初主演映画「A Hard
Day's Night」でメガホンを取ることになり、彼女に女学生役のエキストラが
回ってきた。この時パティは19歳。
ジョージが最初に彼女に言ったことばは「結婚しないか?」だったそうだ。
1968年クリーム解散前のクラプトンとジョージは親交を深め、互いのレコー
ディングにも参加するようになる。(5)
ジョージの自宅とクラプトンの自宅は同じサリー州で30分程度の距離にあり、
二人はよく互いの家を訪問し合う仲だった。
クラプトンはパティを「これまでに見た最高の美人であり完璧な女性」と、
また「欲しいものすべてを手にいれたジョージの妻だから欲しかった」とも
思ったそうだ。
1970年ビートルズが解散した頃クラプトンはパティに手紙攻勢をかける。
その夏ロバート・スティグウッド(6)自宅のパーティーで一人だったパティを
口説いてるところに迎えに来たジョージと遭遇。
クラプトンはジョージに白状。ジョージはパティを車に押し込み憤然と帰宅。
ジョージが3枚組の大作「All Things Must Pass」の制作(7)にかかりっきりで、
クラプトンはデレク&ドミノスを結成した直後だった。
この時期にジョージが書いたのがパティとの仲を示唆する荘厳で美しい曲
「Isn't It A Pity」であったこと、クラプトンがパティへの愛の苦悩を綴った
「Bell Bottom Blues」と「Layla」を書いたことは興味深い。
George Harrison - Isn't It A Pity
Derek And The Dominos - Bell Bottom Blues
1973年頃にはジョージとパティの仲に亀裂が生じ始める。
当時のフライヤーパーク(自宅)にはハレ・クリシュナの一行始め絶えず他人
が住み着いていたそうだ。(8)
ジョージの宗教への加熱と性格の変貌が二人を遠ざけたと彼女は語っている。
またジョージはパティの目を盗んで様々な女性と情事を繰り返していた。(9)
決定的だったのは彼がリンゴの妻モーリンと関係をもったことだった。
薬物中毒を克服したクラプトンがマイアミ・ビーチで「461 Ocean Boulevard」
のレコーディングを終え米国ツアーをしていた時期にパティは彼の元へ。
この直後にリリースしたアルバム「Dark Horse」でジョージはエヴァリー・
ブラザーズの「Bye Bye Love」をカヴァー。
歌詞は「I hope she's happy and "old 'Clapper' too”」と変えられ、パティへの
未練とクラプトンへの皮肉が込められている。
George Harrison - Bye Bye Love
再婚後のパティはクラプトンの女癖の悪さとアルコール中毒に振り回される。
彼女に度々暴力をふるっていたこともクラプトンは告白している。
クラプトンがイタリア女優ロリ・デル・サントを妊娠させ初の息子コナー(10)
の誕生を喜んだことが、子供ができないパティにとっては致命傷になった。
1987年クラプトンは彼を拒むパティを追い出す。彼女の誕生日だった。
2年後に離婚成立。
同年の12月、ジョージ・ハリスン日本公演。
クラプトンは自分のバンドとともにジョージのサポートに徹する。
ジョージをライブに出てみないかと誘ったのも、観客の質がいいから日本で
やろうと提案したのはクラプトンだ。
一人息子のコナーがNYの高層マンションから転落死し落ち込んでいたクラプ
トンをジョージが気遣ってのこととも言われている。
日本公演ではパティ由縁の「Something」「Isn't It A pity」が演奏された。
またジョージ追悼コンサートではこの2曲をクラプトンが歌った。
Eric Clapton & Billy Preston - Isn't It A pity
(1)「Something」
最初の一節はジェイムス・テイラーの「Something in the Way She Moves」
からインスピレーションを得たとジョージは言っている。
その曲は1968年にアップル・レコードからリリースされたジェイムスの
デビュー・アルバム「James Taylor」に収録されている。
パティと離婚後のジョージは「レイ・チャールズのための曲を考えていた」
と言っている。
(2)「Layla」
12世紀のペルシアの詩人、ニザーミー・ギャンジェヴィーによる「ライラと
マジュヌーン』」からインスパイアされた。
美しく手に入れることのできない女性と望みのない恋に落ち、彼女と結婚
できずに気が狂ってしまった青年の物語だ。
クラプトンは友人から聞いて深い感銘を受けたと語っている。
後半のピアノによるコーダ部分はジム・ゴードンが作曲したもの。
クレジットも彼の名が入っているがリタ・クーリッジの作という説もある。
(3)「Bell Bottom Blues」
マイアムのお土産にクラプトンがパティに買って来たベルボトム・ジーンズ
と言われる。
パティがクラプトンにプレゼントしたという説もあるが、この時期まだ彼を
拒んでいたパティがそんなことをするとは考えにくい。
(4)ビートルズとマハリシ・ヨギ
スピリチュアル・リジェネレーション・ムーブメントに参加していたパティ
は、ビートルズをインドの超越瞑想主義者マハリシ・ヨギと会わせること
を思い立つ。
1968年インドのリシケーシュにあるマハリシのアシュラムにビートルズが
訪れた際もパティは同行している。
(5)クラプトンとジョージが互いのレコーディングにも参加
1968年9月にジョージはホワイトアルバムのセッションにクラプトンを招き
「While My Guitar Gently Weeps」でソロを弾いてもらう。
同年10月クリームの解散アルバム「Goodbye」にジョージが参加。
クラプトンとジョージ共作の「Badge」でリズム・ギターを担当。
1970年ジョージの「 All Things Must Pass」にもクラプトンは参加している。
(6)ロバート・スティグウッド
クリーム、ビージーズなどを手がけた敏腕マネージャー兼プロデューサー。
自らのレーベル、RSO Recordsを立ち上げた。
「グリース」「サタデーナイト・フィーバー」のプロデューサーでもある。
(7)「All Things Must Pass」の制作
プロデュースはジョージとフィル・スペクター。
エリック・クラプトンを始めデレク・アンド・ザ・ドミノスのメンバー、
リンゴ・スター、バッドフィンガー、ビリー・プレストン、デイヴ・メイスン
が参加。
ビートルズ時代から温めていた楽曲(Get Backセッションでも演奏されている)
も多く、ジョージの実力が余すところなく発揮されたアルバムだ。
3枚組という異例のリリースに当時ジョン・レノンは「気でも狂ったか」と
言ったが、アルバムは全米・全英1位を記録するヒットとなった。
(8)自宅に他人が住み着いていた
ジョージはアップルの事務所もオープンにしてしまい、ヘルスエンジェルス
などビジネスと関係ない人たちが住み着いていた。
(9)ジョージの浮気癖
再婚したオリヴィア夫人もクラプトンもジョージの女癖を指摘している。
(10)クラプトンの息子コナー
初めての息子の誕生にクラプトンは手放しで喜び、誕生月の8月からアルバム
のタイトルを「August」とつけた。
そりゃ、パティはいたたまれないはず。。。。
1991年3月に一人息子のコナーがNYの高層マンションから転落死。
深い悲しみから名曲「Tears In Heaven」が生まれた。
<参考資料「パティ・ボイド自伝 ワンダフル・トゥディ」、Wikipedia、
「ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」>
4 件のコメント:
この度、たまたまクラプトンの曲を2曲ギターで弾き語り練習することになり、
私も曲の背景を調べてみました。
Tears In Heavenは、以前から死んだ一人息子をしのんでできた曲であることは
知っていましたが、歌の内容とその背景を知ることで、悲しみの大きさ、
そして、どれほど大きく優しい愛を含んでいる歌かを知ることができますね。
とてもシンプルなフレーズの繰り返しが、心に深く刻まれていきます。
パティとの関係も少し知っていましたが、美しすぎる人も可哀想な運命を送る
ことがあるんですね。
お蔭さまで、歌の背景が良く分かりました。選曲するにあたっては、歌詞の内容だけでなく、どのようにして曲が作られたのか詳しい背景を知っておかなくてはいけませんね。勉強になりました。
>Mary Ppmさん
二人のロックスターの間で揺れ波乱の人生を送ったパティもその後
は写真家としての職を得て心の平穏も取り戻したようです。
ジョージもクラプトンもモテただけに気が多い。それは仕方ない。
やさしさもある一方で傲慢で独りよがりで嫉妬深い。
この人たちもフツーの生身の人間と思うとかえって好感が持てます。
そのフツーの人間くささと神がかり的才能が同居してるからこそ、
人の心の琴線に触れる曲が作れるんでしょうね。
息子コナーの葬儀ではギターの形の花輪で飾られた棺の前で、
クラプトンが沈痛な面持ちで立っていました。
コナーのためにTears In Heavenともう一曲、Circus Left Townと
いう曲を彼は書いています。
こちらもいい曲ですよ。
同じくUnpluggedで演奏されましたがTears In Heavenと同傾向と
いう判断からか発売時はカットされていました。
リマスター盤には収録されています。
https://www.youtube.com/watch?v=veGF9Vjo_IE
Circus Left Town 聴きました。これもいい曲ですね。
息子コナーは、エリック・クラプトンとサーカスに行った次の日に
亡くなったと書いてありました。
スリーフィンガーの軽快なリズムでありながら、もの悲しい音使いが
洒落た響きで素敵です。
スリーフィンガーは、飛び跳ねたリズムなので、ついつい明るい曲調かと
思われる曲がPP&Mにもあります。これから絞首刑台に上がる男の話ですが、
両親や兄弟に保釈金を払って助けてくれと懇願しても、お前を助けてやる
気はないよと突き放されますが、最後に恋人が保釈金を払ってくれてやっと
助かるという内容ですが、さすがにPP&Mの演奏では、そういうことはないのですが、そのあたりを良く消化していない人が弾いたリズムを聴くと、
スリーフィンガーの軽快さで勘違いしてしまいそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=UNSyqazXfGE
ところが、クラプトンのCircus Left Townは、その間違いが全くおきない音使いに
魅力を感じました。
>Mary Ppmさん
アルペジオとスリーフィンガーの合わせ技のような早いピッキング、
独特のハネ感、クラプトンお得意のmaj7、m7を多用したコード使い
が魅力的な曲です。
彼が弾いてるのはホセ・ラミレスでネック幅が52mmと太いのですが、
フラットトップギターと同じような押さえ方で楽々と弾いてます。
ラミレスのネックは太くても以外とグリップ感がいいんです。
曲もアレンジもギターの弾き方も都会的でオシャレでかっこいい。
このビデオを見てアルマーニの眼鏡を買いました(笑)
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