2022年2月17日木曜日

ビートルズ、アメリカ征服は周到に計画が練られていた?



<ビートルズ、初のアメリカ上陸までの経緯>

ビートルズが初めてアメリカを訪れたのは、58年前の1964年2月7日である。
午後1時20分、パン・アメリカン航空の101便でニューヨークのケネディ空港に降
立った4人は1万人のファンの大歓声に迎えられた。
それはアメリカの音楽の歴史が大きく変わろうとする瞬間でもあった。

ビートルズがこのタイミングでアメリカの地を踏んだのは、シングル「抱きしめた
い」が全米チャート1位を獲得したからである。
かねてから「1位を獲るまでアメリカには行かない」と彼らは宣言していた


イギリスでは1963年発表のデビュー・アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」が
30週間チャート1位という快挙を達成。
その勢いは留まることを知らず、ビートルマニア(ビートルズ旋風)と呼ばれた。




次の標的はアメリカ市場だ。
ブライアン・エプスタインとパーラフォン・レコードは同じEMI系列のキャピトル
・レコードにアメリカでの発売を持ちかけるも、一向に関心を示してもらえない。
イギリスの歌手がアメリカで売れるわけない、と懐疑的な見方をされていた。


パーロフォンはヴィー・ジェイというアメリカの弱小レーベルと契約。
プリーズ・プリーズ・ミー、フロム・ミー・トウ・ユーと2枚のシングルをアメリカ
で発売するが、鳴かず飛ばずだった。(写真は後に出た2曲カップリング盤)




パーロフォンは次に同じく弱小レーベルのスワンからアメリカで3枚目のシングル、
シー・ラヴズ・ユーを発売。これも最初はあまり動きがなかった。





一方、イギリスではビートルズの快進撃は止まらない
11月に2nd.アルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」が発売され1位を独走。
シングル「抱きしめたい」は予約枚数だけで100万枚を突破した。
ビートルズはヨーロッパ各地でも成功を収めていた。

イギリスで大ブームが起きていることに気づいたアメリカの3大ネットワークTV局
がビートルズをインタビューするために特派員を派遣。
英国からの輸入盤、スワンから発売されたシー・ラヴズ・ユーが売れ出したことで、
キャピトルもやっとビートルズの将来性に気づき、レーベル契約を交わす。




年明けの予定だったシングル「抱きしめたい」の発売をクリスマス翌日に早めた。
「抱きしめたい」は発売3週目にビルボードにチャートイン
2月1日にはついにNo.1となり、7週にわたってそのポジションを維持し続けた。

「抱きしめたい」から首位の座を奪ったのは、先に弱小レーベルのスワンから発売
されていた「シー・ラヴズ・ユー」で2週間連続で1位。
入れ替わりに1位を獲得したのは、新曲の「キャント・バイ・ミー・ラヴ」。
5週にわたって1位の座に留まっている。

4月の第一週は全米シングル・チャートのトップ5をビートルズの曲が独占(他に
7曲がトップ100以内にチャートイン)という前代未聞の状況が起こった。





2月1日「抱きしめたい」全米1位の吉報をビートルズは滞在中のパリで知った





4人はパリのオランピア劇場に3週にわたり出演。滞在中に「シー・ラヴズ・ユー」
「抱きしめたい」のドイツ語ヴァージョンの録音も(渋々)行なっていた。





スウェーデン、フランスと海外遠征をしていたビートルズだが、当時ドイツには
行っていない。(ハンブルク時代のスキャンダル発覚を恐れて?と言われる)
そのドイツのファン向けサービスとしてのドイツ語シングルの録音だった。
ドイツ語版の仕事をやっつけ、余った時間で4人は次のシングルとなる「キャント・
バイ・ミー・ラヴ」の録音までパリ滞在中に行なっている。





全米1位のニュースに4人はホテルの部屋で狂喜乱舞の大騒ぎだった。
「1位を獲るまでアメリカに行かない」と公言していたビートルズだが、満を持
して初のアメリカ行きが実現することになった。





<エド・サリヴァン・ショー出演が決まるまでの経緯>

初のアメリカ上陸でビートルズは約2週間滞在し、その間CBSテレビの人気バラエ
ティ番組「エド・サリヴァン・ショー」に出演し、ワシントン・コロシアムとニュ
ーヨーク・カーネギーホールにおいてアメリカ初公演を行った。





特にエド・サリヴァン・ショーへの出演は、1964年のアメリカがビートルズ一色
で塗りつぶされることになる最も象徴的な出来事であった。



エド・サリヴァン・ショーは1948年から全米で放映されていた長寿の人気番組だ。
司会者はエド・サリヴァンで、多彩なゲストが出演し彼との会話をはさみながら
パフォーマンスを披露する、という内容である。
日曜日の午後8時という放送時間も功を奏し、全米で絶大な人気を誇っていた。




特に1956年のエルヴィス出演の回は驚異的な視聴率(82.6%)を記録。
5400万人の人たちが見たと言われる。

エルヴィス出演を反対していたエド・サリヴァンだが、ライバル番組のNBCステ
ィーヴン・アレー・ショーにエルヴィスが出演し55%の視聴率を獲得したため、
無視できなくなった。1957年まで3回出演させている。




それ以来エド・サリヴァンはいち早く若者に人気のゲストを招くようになり、
若者の流行の仕掛け人となった



4ヶ月前の1963年10月、初めての海外ツアーでストックホルムに赴き帰国した
ビートルズを待ち受けていたファンたちの熱狂ぶりを、ロンドンの空港で目の当
たりにしたエド・サリヴァンは度肝を抜かれ、自らの番組への出演を決める。




キャピトル・レコードが重い腰を上げるより早く、エド・サリヴァンはビートル
ズ旋風がアメリカを席巻することを予見していた。
ビートルズの早期渡米と番組出演をエプスタインにオファーする。

ビートルズのエド・サリヴァン・ショー出演は初めてにもかかわらず3回も出演
しかも1回目は5曲、2回目は6曲、3回目は3曲、という破格の待遇であった。




ビートルズがアメリカの若者の心をわしづかみすること、視聴率を取れることを
エド・サリヴァンが確信していたことを伺わせる。

もう一つ。
エド・サリヴァンはブライアン・エプスタインと同じユダヤ人であった。
つまりユダヤ人ネットワークから交渉がスムーズに進んだのは間違いないだろう。
ユダヤ人特有の商才に長け、ビジネスの嗅覚が鋭い点でも2人は共通していた。




<ビートルズ初渡米が大成功した理由>

「抱きしめたい」全米1位から1週間も立たない2月7日に、ビートルズはロンドン
のヒースロー空港を出発。
彼らはアメリカで支持されるのか不安だったが、すぐに杞憂であったと知る。
ニューヨーク、ケネディ空港には1万人の熱狂的なファンが待っていた。




ラジオでは「抱きしめたい」がヘビーローテーションで流れビートルズ一色。
記者会見ではウィットのあるやり取りで記者たちを沸かせた。

2月8日にセントラルパークでフォト・セッション、ブロードウェイにあるCBS
テレビスタジオ50でドレスリハーサルが行われる。ジョージは体調不良で欠席。
リハーサルではローディーのニール・アスピノールが代役を務めた。
(マル・エヴァンスが代役だったと言われてたが、身長1.97mのマルがジョージ
の代わりでは、カメラもライティングもテストにならない)





2月9日にはジョージが回復し復帰。
1回目のエド・サリヴァン・ショー生出演(観客を入れたライブ)を果たす。





翌日アメリカでの初コンサートを行うため、4人はワシントンD.C.に向かう。
東海岸が大雪に見舞われ航空便が運航中止になったため、鉄道での移動になる。






このコンサートはフィルムで映像が残されているが、レアで見どころ満載だ。
会場のワシントン・コロシアムは、ステージの四方が観客席に囲まれている




そのためリンゴがどの客席からも見えるよう、数曲演奏してはドラムセットの
向きを変え、フロント3人も立ち位置を変え演奏するというユニークなステージ。


オープニングはビートルズのライブ史上において極めて珍しいジョージがボーカル
を取る「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」
ロックンロール発祥のアメリカ、チャック・ベリーへのオマージュだったのか。
演奏は荒削りだが勢いがある。特に上体をゆらしドラムを激しく叩くリンゴ。



↑ワシントン・コロシアムでの「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」が観れます。
(元は白黒フィルムだがデジタル処理で着色されている)



ジェリービーンズが好物と発言したジョージにファンが投げ入れたジェリービー

ンズの嵐も写っている。





この日演奏されたのは、ロール・オーヴァー・ベートーヴェン、フロム・ミー
・トゥ・ユー、アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア、ディス・ボーイ、
オール・マイ・ラヴィング、アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン、プリーズ・
プリーズ・ミー、ティル・ゼア・ウォズ・ユー、シー・ラヴズ・ユー、
アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)、ロング・
トール・サリーの11曲。
※半年後の8〜9月の全米ツアーのセットリストでは聴けない曲も多い




↑ワシントン・コロシアムでの「ディス・ボーイ」が観れます。
(元は白黒フィルムだがデジタル処理で着色されている)

※1本のマイクを囲む場合ポールが左。ネックがぶつかることなく見た目も美しい。
が、この日は頻繁に立ち位置を変えてるうちにポールが右になってしまったようだ。




12日にはニューヨークに戻り、格式高いことで知られるカーネギーホールでの
コンサートを成功させる。
ロックフェラー夫人でさえチケットを購入できずコネで手に入れるほどであった。



                                                                         (写真:gettyimages)

↑写真を見ると、ステージ上のビートルズのすぐ脇に設けられた席に裕福そうな
ご婦人方が座っている。ロックフェラー夫人と子供たちもこの中にいる。
こうした特権階級の人たちのために用意された特別席だったのだろう。




16日にはマイアミへ空路移動。
ドーヴィルホテルから生放送で2回目のエド・サリヴァン・ショー出演








4人は数日マイアミで休暇を取り、ロンドンへ帰国の途に就いた。
22日朝には熱狂するファンたちが待つヒースロ空港へ到着する。






ビートルズ帰国後の2月23日、エド・サリヴァン・ショー3回目の出演が放映。
(これは初回出演の2月9日に前もって収録されたVTRであった)





とにかく急遽行きましたと思えないくらい、あまりにもタイミングよく効率的
にプローションが行われている。


実はカーネギー・ホールでのコンサートは1年前から決まっていたものだった。


アメリカのプロモーター、シド・バーンスタインは1962年10月の時点でイギリス
の新聞を賑わせていたビートルズに目をつけ、日を追うごとにイギリスで大きく
なる彼らのニュースに「これはただ事ではない」と感じていた。

バーンスタインはジュディ・ガーランド、フランク・シナトラ、レイ・チャールズ
など数多くのアーティストのマネージャーを務めるプロモーターである。





プロモーターとしてシド・バーンスタインは直感的に「勝負の時だ」と思った
アメリカでは誰もビートルズを知らなかったが、絶好のタイミングだと。
1963年2月にブライアン・エプスタインに連絡を取ると、ビートルズの音楽も
聴かずに1年後のカーネギーホールでのコンサートを契約した。

シド・バーンスタインもユダヤ系移民である。
ここでもユダヤ人ネットワークの交渉の利ユダヤ人ならではの商才嗅覚の鋭さ
が発揮された。
1964年2月にカーネギーホールでコンサートをやるということで、エド・サリヴァン
もその前後での出演の約束をエプスタインに取り付けた。


この時点ではアメリカではまだビートルズは注目されてなかった。
イギリスのバンドがアメリカで成功した例はない。2人の計画は無謀にも思える。
しかし彼らの直感は的中し、「抱きしめたい」全米1位直後という最高のタイミング
でエド・サリヴァン・ショー出演、カーネギーホール・コンサートを実現できた。

ビートルズにとっても、こうしたお膳立てがあったからこそ、予想以上の成功を
収めることができたと言える。



↑翌1965年シェイスタジアム・コンサートもシド・バーンスタインが仕掛け人。



<ビートルズ、エド・サリヴァン・ショー出演の影響>

エド・サリヴァン・ショーのビートルズ出演は観客を入れてのライヴ演奏だった。
2月9日、1回目の出演の収録が行われたのはニューヨークのCBSスタジオ。
728枚の観覧入場券を求めて55,000件もの申し込みがあったと記録されている。


2月9日、ビートルズ1回目のエド・サリヴァン・ショーに出演時の視聴率は72%
という驚異的な数字を叩き出した。
(エルヴィス出演時の82.6%には及ばないが、1956年と1964年ではテレビの世帯
普及率が違う。調査対象の母数も異なるので視聴率での単純比較はできない)




この夜2324万世帯、約7300万人がテレビの前に釘付けになりビートルズを見た
(エルヴィスの時は5400万人が見たと言われているのでそれ以上なのは明白だ)

ビートルズ出演中はニューヨークで青少年犯罪が一件も起きなかったと言われる。
また水道利用が番組放映中には激減。CM時に急増したという報告まである。


アメリカをテレビが揺るがせた瞬間であり、ロックにとって決定的な瞬間だった。
この番組を見たことがきっかけでミュージシャンを目指した人も少なくない。

14歳だったビリー・ジョエルは「あの夜エド・サリヴァン・ショーを見てなかっ
たら、今日の僕はないと断言できる」と言っている。
ブルース・スプリングスティーンは「とにかく凄かった。まるで地軸が傾いた
ような、あるいは宇宙人が侵略してきたような衝撃だった」と述べている。

トム・ペティは「僕の人生を変えたパフォマンスの一つだ。それまでロックを仕
事にするなんて考えたこともなかった」と影響の大きさを語っている。
ロジャー・マッギンもアコースティックギターからエレキへ持ち替えた。




放送の翌日には街中の楽器店に少年たちがギターを求めて駆け込んだ。

アメリカではギブソンやフェンダーがプロ御用達のギターとしてメジャーであり、
ビートルズが弾いてたリッケンバッカー、ヘフナーは知られていなかった。
(ジョージが使ってたグレッチはカントリー系ギタリストに愛用者が多かったが)

リッケンバッカーは名前からドイツのメーカーと勘違いされ、ヨーロッパの
代理店に問い合わせが殺到したという。
VOXのアンプもアメリカでは有名ではなく、イギリスに注文が行ったらしい。


イギリスからやってきた侵略者たちはアメリカの若者たちに計り知れないほど
強烈な影響を与えた
まさにBeatles Conquer America(ビートルズ、アメリカを征服)だった。




一方でメディアは「騒々しいだけ、光るものがない、性別不詳」と報じた。
エルヴィスが登場した時も似たような叩かれ方をしていたが。


それまで分業システム化されていたアメリカの音楽業界にも衝撃が走った
職業的作曲家、アレンジャーが用意した曲を、レッキングクルーのようなスタ
ジオミュージシャンが演奏してオケを作る、ツアーから帰ったバンドや歌手は
既に完成したオケに歌を吹き込む、という役割分担が慣例だった。



↑レッキング・クルー(スタジオ・ミュージシャン集団)のレコーディング風景。



が、今やアメリカの若者が求めているのはビートルズのような新しい音楽だ。
旧来型の職業的作曲家やミュージシャンは下手すると失業しかねない。
アメリカの音楽業界のシステムを根幹から揺るがす事態だ。




ビートルズはアメリカの音楽産業を否定していたわけではない。
むしろアメリカのロック、ポップスを敬愛し、ボイス&ハート、マン&シンシア、
ゴフィン&キング、リーバー&ストーラーのようなソングライティング・チーム
に憧れ、自らもレノン=マッカートニーと名乗ったほどだ。




ただし彼らは曲を書くだけではなく、自らアレンジして、演奏し歌う。
音へのこだわりも強くレコード制作全過程に主体的に関与することを望んだ。

ビートルズ自身も、アメリカに衝撃を与えることは織り込み済みだっただろう。
こいつらはただ者ではない、凄い、と認めさせるにはどうすればいいか?
したたかに計算していたと思う。
それはエド・サリヴァン・ショーでの選曲にも表れている

<続く>


<参考資料:Udiscovermusic.jp、TAP the POP、Distractions、OTONANO、
Wikipedia、ザ・ビートルズ楽曲データベース、アドニス・スクエア、他>

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